誰かの落し物
たかた ちひろ
第1話 大阪梅田は、ダンジョンなお話
大阪梅田の大都会、様々な建物や施設がその一箇所に数え切れないくらい集まった広大な場所。これまた数えていたら日が暮れるぐらいの人がそこを行き交い、その全てが各々の目的とするどこかへと向かう。
今でこそ、そこは私にとってただの通学路に過ぎないが、小さい頃などは先の見えないダンジョンかの如く全く測り知れないものだと思っていた。そこに行ってしまえば最後、自分はどうすればいいか分からなくなって、途方にくれる。そこでは、私はとにかく小さいのであった。
私の祖母の家は、和歌山にある。大阪梅田を通るのは、決まってその祖母の家へ行く時であった。JRや阪神、さらには京阪と色々な乗り物に揺られて、まずは梅田で降りる。
祖母に手土産を買うためだ。私は4つ下の妹とともに母に連れられて、百貨店や駅ビルといった施設を回った。具体的にどこをどう回ったか、という記憶はほとんどない。せいぜい妹と一緒になって、横に流れるエスカレーターではしゃいで走った記憶くらいだ。そう考えたら、それで母に叱られたことも思い出した。
「絶対手を離しちゃダメだからね。」
母の言葉である。
私と妹は、「はぐれないように」といつも手を繋がされて歩いた。私たちの低い視線では、なにをどうやって見ようとも大きな大人たちの身体に隠されてしまって足元しか見えない。
なんだか、手を離してしまったら今生の別れになるような感覚すらあって私と妹は強く手を握りあいながら盲目の世界を母だけを道しるべにして進んだ。
しばらくして気がついたら母はなにやら高そうな包みや小袋を手にしていて、私と妹を連れてまた電車に乗り込むのであった。
今はどうであろうか。
私は大阪梅田という場所は十分にとは言わないがおおよそ理解している。グランフロントがどこにあって、地下鉄がどこにあって、HEP5がどこにあるか。商店街の位置だって分かる。全く大阪梅田が初だという人間に説明してみろ、と言われても説明できると思う。この間、外国人に道を聞かれた際はさすがに驚きはしたが彼らを目的地に連れていくことはできた。
いつかダンジョンだったこの場所は、いつしか私が通り抜けるだけの見慣れた場所になった。母や妹と訪れることはあっても、もう手を繋がなくたってお互いの場所を確認できる。自分の意志で、「カフェに行きたい」と思えば地図を見ながらそこへ行くことができる。いつの間にか、そこは小さな世界になっていた。
「ものを知ること」というのは、そういうことなのかもしれないと最近思うようになった。自分で経験するなりネットで調べるなりして得た知識で、私は私の中でそれに対する自分なりの見解を得る。それは、街並みに限ったことではない。勉強にしたって、恋愛にしたって、大きなことなら政治にしたってそうだ。
ここでは恋愛を例にとってみる。中学生の頃のクラスメイトに片思いしていた思い出から、気まぐれに読んでいた雑誌の端に連載していた恋愛小説まで。私の恋愛観は、それら全てから形作られているわけだ。
私は、時々それを人に話してみる。そうして違う誰かの意見を聞いて、「なるほど、そんな考え方もあるのか」と驚かされる。
知識を得る=「ものを知る」ということは、私の中に限界を決めることだ。反対に、知らないままの世界は無限で、どこまでも続いている。小さい頃の私に大阪梅田がダンジョンに見えていたのもそこに理由がある。得体の知れないなにかは、頭の中でどんどん想像と畏怖だけが膨らんでいく。掴みきれないからこそ、それは無限のなにかに見える。
小さい子どもに将来の夢を聞いたら、プロ野球選手や宇宙飛行士、はたまたウルトラマンなんて目を輝かせながら答える。同じことを高校生に聞いたら、どうか。大半がサラリーマンと答えるのだ。ウルトラマンなんて答えようものなら、周りから変な子で扱いされる。
これも、子どもには「見えていない」からそう答えるのだ。高校生にもなれば、もう自分の現実が見えてくる。自分の得てきた知識で、ある程度の自分を決めつけられる。それが間違っているとは言わないが、つまらないとは思う。
そうは言っても、「限界を決めてしまうから、知識を得ることが悪い。」と安易に決めつけるつもりはない。それどころか知識を得ることは、人間の人間らしい活動の最たるものである。なにかミスをすると極力同じミスを避けようと努力することができ、成功をすれば、続けることができる。これは、動物には出来ない人間固有の能力である。むしろ、勉強し学ぶことはなによりも大切なことであると思う。
私がいかがなものかと思うのは、いわば「一を聞いて十を知った気になる」ことだ。これが、いい方向に転がっていくのを私は見たことがない。知ったかぶりは、相手を困らせ、回り回って自分をも困らせる。それだけではない。一度「十を知った気」になってしまえば、その者はもう自分からそれに関する別の知識を手に入れようとはしないだろう。当人にそんなつもりは無くても、いつの間にか石膏で塗り固められてしまった世界がそこにはある。その世界は、なにも大変なこともなければ全くいつも通りの世界だ。生きるのはとても楽で、そして茹でただけの素麺のように味気なくつまらない。
世の中には、十どころか百、千ともっと大きななにかがあることも知らないままに死んでいくのだ。井の中の蛙で終わるそんな人生は、まっぴらだと個人的には思う。
さて、大阪梅田の話に戻ってみたい。たしかに私は、この街のことを知っている。それでも、裏路地にある小料理屋は知らないし、自分の使わない銀行の位置すら知らない。それになんとなく見ている人々が、本当はどこに向かっていくのかもわからない。よくよく考えれば分からないことだらけだ。
たぶん電車で隣り合わせになったサラリーマンに「大阪梅田はどんなところ?」と尋ねたら、私が思っているのとは全く違う答えが返ってくると思う。十者十様なのである。
自分の知識に囚われた世界から、逃れてみたい。そう思うなら、自分一人で考え込むより、誰かの考え方を聞いてみるのが早い。
この世界では、今も誰かと誰かが「喧嘩」をしている。相容れないなら相手を全否定して、とやかく相手の悪いところを見つけて潰すことばかりに躍起になる。その延長線上に対立があり、はたまた大きくなれば戦争がある。私はもちろん平和主義者なわけで、平和な世界を望んでいる。しかし、だからといって、無責任に「対立はいけない」と言っているのではない。
もう少し見識を広げて、相手との会話の中でなにか見つけることだってできるでしょう?ただ言いたいことを言って、そのための理論付けで武装をして争うというのはどうなのか。
そう言いたいわけだ。
ただし、残念ながらこれで全てが解決するわけでもない。相手の考えを理解してやった上でなお、どうしたって闘争は起こりうる。それでも、その過程は無駄にはなるまい。彼らの世界が少しでも広がるからだ。少なくとも、無意味な争いの中にある程度の意味を見出すくらいはできる。
そんなことを考えているうちに、夜は更けていって朝日が私の部屋に差し込んできた。身体は十分に休まってはいなかったが、学校をサボるわけにもいかない。この間大阪梅田で買った派手めのシャツを着て、ズボンを履いたら私は顔を洗って家を出る。
今日は、少し違う道から駅まで歩いてみようか。今日の帰りは、あてもなく大阪梅田を歩いてみようか。行ったこともないような東南アジア系料理屋で、聞いたこともない料理を食べてみよう。一人で寂しいなら、妹を誘ってみよう。
そんな風に考えていると、太陽が私に微笑んだ気がした。きっと果てのないダンジョンでは、私の冒険はまだ終わっていない。
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