いちばん役に立たない仕事
foxhanger
第1話
「あれだ」
指さした先には、青白く明るく輝いている星がある。水平線よりやや高いくらい。日が暮れきる前で空はまだ赤みがかっている、宵の明星、金星よりもはるかに明るい。
ふたり組の男が、空を見上げていた。
海岸には荒れ果てた家の残骸が、二、三軒。
「見えるんですね」
「当然だよ」
ふたりとも白い防護服に全身を包み、その顔面はマスクとゴーグルで覆われている。
ふたりは、くぐもった声で会話を交わす。
「川原って……そういえばきみ、ニュートリノの研究をしていたんじゃないか」
「そうですよ、田村さん」
「あなたの胸の名前を見て、ピンときた。科学雑誌でコメントしていたのを読んだよ」
防護服の胸には、名前が書いてある。マスクを付けていると人相が分からないので、身元はこの名前で判断するしかない。
今から半年前のことだった。
川原が所属している研究所が、宇宙から降り注ぐ大量のニュートリノを検知したのだ。
地下奥深くの廃鉱に据え付けられた、数億トンもの超純水を湛えたタンクの中で、ほんのかすかなチェレンコフ光が光った。
ニュートリノは宇宙に満ちているのだが、きわめて小さく軽く、惑星でさえもやすやすと通り抜ける。地球に飛び込んだうちの数兆分の一のさらに数兆分の一の、きわめて不運なものが、水の分子にぶつかり、反応して消滅してしまった。その断末魔の輝きを捉えたのだ。
短い時間にいくつも、水の分子にぶつかる不運なニュートリノは出現した。これほど大量の検出は、超巨星の最期、超新星爆発しか考えられない。
そして、数時間後には、天の一角が輝きだしたのだ。
まだ望遠鏡が使われていなかった17世紀初頭にヨハネス・ケプラーが観測して以来、450年ぶりにリアルタイムで観測された、銀河系内の超新星爆発。天文学者だけでなく、世間は騒然となった。
「あのときはあちこちからコメントやら執筆依頼が殺到して、てんてこ舞いだったんです」
川原は言った。
「しかし、その半月後でした。あれが起きたのは……超新星どころではなくなってしまいました」
日本の近海で、記録的な大地震が発生し、巨大な津波が海岸を襲った。広範囲が壊滅的な被害を受けたが、この地域には別の被害が加わった。
海岸の原子力発電所が津波に呑まれた。電源が喪失し、原子炉は冷却に失敗して溶融を起こし、隔離を破ってしまった。それまで厳重に隔離されているはずの放射性物質がばらまかれた。
たくさんの人々が、ある日突然住み慣れた故郷を追われた。
着の身着のままで、追い立てられるように避難を余儀なくされた。
避難民は今でも、遠く離れた地で、心細い思いで暮らしている。いつ帰れるかは分かっていない。
海岸から少しクルマを走らせると、道沿いには、集落が見えてきた。
降りて、路地に足を踏み入れる。
ここも、静かだ。津波は届かなかったようだが、無人の家は傷み始めている。
家々には、灯りはともっていない。
しかし、外に干してあった洗濯物ですらそのままに、家はもぬけの空になっている。追い立てられるように住人が避難したのがわかる。
「この辺はどうでしょう……」
川原が庭先にカウンターをかざすと、針が振り切れる。
「……おっと」
二、三歩本能的にたじろいた。
「ホットスポットか」
「ずいぶん離れているのに。周辺を測定してみて、意外に少ないと思っていたんですが……結構汚染されています」
「住民が帰れるようになるには、結構時間がかかるかも知れない」
そのとき、川原は語りかける。
「田村さんも、ボランティアでしょう。これまで何をしていました?」
「高エネルギー物理学だよ。ジュネーブにいて、エキゾチック原子についての研究を……」
川原のゴーグルの向こうの眼が、きらりと光ったように見えた。
「へえ……ひょっとして、あの機関で研究していたのですか」
「そうだよ」
「あなたの論文を読んだことがありますよ」
反陽子と中性子など、通常では存在しない素粒子を結びつけて、天然には存在しない原子核を作る研究である
「そうか。エキゾチック原子はあそこの加速器じゃないと作れない。1回のプロジェクトで数百億円の費用がかかる。それに、大量の電力が必要だし……」
田村は苦笑した。
「そんなことをやって、何の役に立つの? とみんなに聞かれたよ。きみもだろう?」
「そうですよ。親にもきょうだいにもいくら話しても、納得しないんですよ。なんだか、浮き世離れしたことを考えてれば金になっていいねえ、みたいな」
川原はオーバーに手を振った。
「でもそのせいで、こいつの扱いには、習熟しましたよ」
川原はシンチレーションカウンターを手に取る。
「放射線測定器の代名詞であるガイガーカウンターでなく、γ線の空間線量を計るには、こいつがいい。直後は学校や公民館でにわか講師をしたものです。普段は科学館やプラネタリウムで星や宇宙の話ばかりしているのに、そのときとは全然違う真剣なまなざしをしていましたよ、聴衆のみんなは」
田村はいった。
「おれもだよ。ちょうど帰国していた。人々が不十分な情報で、右往左往するのを見て、自分に出来る、するべきことをしようと思ったんだ。ガイガーカウンターは仕事柄よく使っていたので、操作法や数値の読み方、放射線の影響をネットを通じてレクチャーした。おかしなことを言うひともいたが、分かってくれるひともおおぜいいたよ」
川原は天を仰ぐ。
「ぼくは星屋だけど、核反応を研究しているせいで、あのとき何が起こっていたのかは多少の見当はついたし、被害がどの程度のものかという予想も、つかないでもなかった。
あの件以来研究もストップしました。ほんとは、内部での仕事がしたくて、人材派遣会社に登録はしましたが……そんな仕事はなかなか回ってこないんですよ。まあ、ぶらぶらしているわけにもいかないからね。あの星のことだけ考えられていた頃が、ずっと昔みたいですよ」
川原はもう一度、超新星に向かって指を差す。田村はその話を引き取った。
「あの超新星までの距離は、6000光年だったな……元の星の重さは太陽の50倍。するともう、ブラックホールになっているのかな」
「ええ、オッペンハイマーが説いたところによれば、太陽の4倍以上の質量を持つ星は自重で中心に向かって潰れていき、ついにはシュワルツシルド半径を下回って、光すら脱出できないことになってしまう。これがブラックホール」
「オッペンハイマー? あのマンハッタン計画の?」
川原は頷いた。
「オッペンハイマーは核物理学者として、恒星内部で起こる核融合反応の研究をしていました。恒星の光や熱は核反応だから、星の光を研究することは、すなわち核反応を研究することなんです」
風が吹いて、川原の着ている防護服がゆらめいた。
「超新星爆発のあとは、星を構成した物質は大部分が飛び散ってしまうが、中心部には星の芯として中性子星が残る。自らの重みで潰れて、中性子のあいだに働いている力で支えている。直径数キロしかないのに質量は太陽くらいもある星です。
しかし、太陽の40倍以上の重さの星が超新星爆発を起こすと、中性子星の質量は太陽の4倍以上になって、中性子のあいだに働いている力では、自らの重みを支えきれなくなります。中心に向かって際限なく潰れていき、ついに星は脱出速度が光速を上回るシュヴァルツシルド半径の内側に落ち込み、光すら放射されることのないブラックホールになる。これを解明したのが、恒星物理学におけるオッペンハイマーの功績です。
しかし、ここまで研究を進めたところで、彼はマンハッタン計画に参加することになったのです……」
「そうなんだ。はじめて知ったよ」
田村はいった。
「オッペンハイマーだって、自分のやっていることが数年も経たないうちに、大都市を吹っ飛ばす爆弾として実現するなんて、考えもしなかったろう」
「時代が悪かったのか。そのまま、星の研究をしていれば、彼はもっと正当に評価されたでしょうに」
「ああ、彼の名前も、今のような複雑な反応は起こさなかった」
「ぼくもずっと、遠く遠くの星のことだけ、考えていたつもりなんですがね……でもね、ぼくたちは、星から生まれたんですよ」
川原は顔を上げて、超新星の輝きを見やった。
「宇宙にある鉄より重い物質は、超巨星が寿命の末期を迎えるときに合成されて、超新星爆発で飛び散ったんだ。飛び散った星のかけらは星間ガスとして、拡散ののちに再び凝り固まり、核融合の炎に点火して、太陽になった。その残りの一部は地球になり、そして、われわれになった。われわれを構成している元素の中には、超新星になる星の中で作られたものがあるんです」
「つまり、核のごみってことだな、おれたちは」
どうも田村は皮肉屋らしい。なんでも半畳を入れずには済まない気質のようだ。そしてこういった。
「いちばん浮き世離れしていると思われた学問が、いちばん現実に必要になる学問になる。それが今なのかもしれないな」
田村の言葉に、川原は得心したような表情をした。
「なるほど……いつかはまた、役に立つ日が来るのかもしれませんね」
「来なければ、いいがね」
田村はすっかり暗くなった空を見上げて、ぽつりと言う。
「限界だな……暑すぎる」
防塵マスクの上から、額をぬぐう真似をする。
「そろそろタイペックスは脱がなくては……。熱中症になる」
「帰りましょう」
「そうだな。無駄な被曝はするべきじゃない」
田村と川原はワゴン車に乗り込み、集落を去って行く。
夜空で最も明るく輝く星になった超新星は、中天に高く上がっていた。
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