第10話 空飛ぶ夢

 ジャングルジムでの事故の後、レオは別人のようにおとなしくなったんだ。

 ぶつぶつと独り言を呟いていることが多くなった。みんなは……先生も含めて、少し、ほっとしたんじゃないかな。俺は、ケンカ相手がいなくなったようで、ちょっと気になったけれど……。

 レオは、机に両肘をついて、喋っている内容が分からないように、手でくちを覆っていたよ。どこを見ているのか判らない顔をして、何か、呪文でも唱えているようだった。その分、大きな事件も起こらなくなったから、これでいい、と思ったこともあったよ。

 けれども、何度か、西陽の当たる四階の理科室で、窓際に佇むレオを見かけたことがあったけれど、それが、俺にはとても怖かったんだ。虚ろな眼をして外を眺めるレオを見ていたら、鳥のように飛ぼうとした瞬間のことを思い出したから。ここから飛べば、確実に、死ぬ、と。

 でもね、うちの学校って互い違いの二重窓になっていて、このくらいしか開かない構造になってんの。親指と人差し指を広げたくらいの、ほんの十センチほどしか開かなかったんだ。

 君の小学校もそうだったの? 四十年くらい前に、窓から落ちて死んでしまった子がいたの? それなら、生きていたら、きっと俺の両親と同じくらいの歳だろうね。それは、事故、だったの? 当時を知っている人は、みんなそう言うんだね。

 だけど、君は、この園舎裏の松林を取り囲む緑のフェンスから崖下を覗くと、眩暈でも起こしたように、波の打ち付けるあの場所に、ふらりと吸い込まれそうになることがあるんだね。

 そんなことは俺にもあるさ。何も、何も考えちゃいないのに、ふと、襟首を掴まれて、海の底や地の底に、引きずり込まれそうになるんだよな。

 だから、レオのことがあるまで、教室の窓のことなんか考えたこともなかったのに、転落防止がしてあってよかったと心から思えたんだ。

 俺は今でも、夢に見るんだ。理科室の窓を頭から粉々に割って、飛んでいくレオの夢だ。レオは、両手を大きく広げて、ゆっくりとゆっくりと、校庭の真ん中に降りていくんだ。それで、俺もレオの後を追いかけて、窓から体を投げ出すんだけれども……飛べるんだよね……夢の中では……。

 それなのに、レオが振り返った瞬間に、俺は、堕ちるのさ。糸の切れた操り人形のように、突然、堕ち始めるんだ。なんとか堕ちまいとしてジタバタ両手で空を掻くと、地面すれすれで体が止まる。もう一度浮かび上がろうとして、平泳ぎをするようにもがいていたら、眼が醒めるんだよ。

 空を飛ぶ夢、君だって見たことあるでしょ?

 君の場合は、ずっと低空飛行で、家や樹や壁なんかを必死で避けながら……時々、つまさきを地面に着けながら……両手足をバタつかせて……? なんだか、それって、空を飛んでいるんだろうか? まるで、現実の目線よりも、ずっと低い位置で空中に浮かんでいるようだね。

 そんな夢を見る度に理科室のレオが心配になったけれど、実際には、窓に映る自分に向かって、何か喋っているだけだった。俺にはちっとも気づかずに、自分自身と会話を続けるレオが堪らなかった。それで、俺はついに言ったんだ。「人間は、飛べないんだぞ」ってな。

 だけどレオは、ちっとも驚いた様子も無しに、「知ってるよ、そのくらい」なんて言うのさ。人が飛べないことなんか、よく知っている、ってね。よく知っているのに、理科室の窓際に立たずにはいられないのだと言っていたよ。なぜって? 頭の中で声がするからさ。レオは、誰かが頭の中で自分の名前を連呼する、って言うんだ。

 呼ばれると、つい、その声に従ってしまうから、その知らない誰かに名前を呼ばれた時には、自分で自分の名前を呟いていたんだそうだ。レオレオレオ……って。そうすれば、自分の声で消してしまえるから、って。

 その時の顔が、俺には笑っているように見えたのだけれど、やがて、少しずつ頬やくちびるが歪んできて、そのうち、ぼろぼろ涙を零したんだ。泣くことも怒ることも、ほとんど我慢できない奴なのに、堪えているのが分かった。俺、またケンカをしたと思われるのが嫌で、周りに人がいないか、きょろきょろ見回しちゃったけど、頭を抱えて屈み込んで、肩を震わせたレオを見ていたら、とても、かわいそうに思えて……。

 それから、しばらくして、レオは学校に来なくなった。

 いなければいないで、特に変わった事も無く時間は過ぎるもんだ。子供って、慣れるのが早いね。元々、レオのことを友達だなんて思っていなかったから、別段、遊び相手に不自由はしなかった。それなりに楽しく過ごしたよ。それなりに……。

 ただ、登校しない理由を大人たちの会話から聞き取った時には、酷く、ここいら辺が疼いた。この胸の辺りさ。だって、レオは、知らない間に転校していたのだから。

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