バナジウム
神谷 藤花
第1話言い合い
夫とはいつも話が合わない。
夫もこう思っているだろう。「妻とは話が合わない。」
私たちは結婚して22年。
子どもは18歳の長女がひとり。
今年から県外の大学に通っていて、家には私と夫しかいない。
長女が家にいる時から、言い合いは絶えなかった。
どこの家庭でも似たようなものだろうが、きっかけは些細なことだ。
ワイドショーで猫のたくさんいる島を取材している。
私「猫の楽園だね。行ってみたい。」
夫「汚い野良ネコばかりじゃないか。きっと嫌がってる住民もいるぞ。」
私「でも、住んでる人の理解があるから増えてるんじゃない??ネズミをとってくれるんだから。」
夫「こんなの見て、ここら辺の猫好きが中途半端に野良にエサやって、増やしてるだけだろ。」
私「それと、これとは違う話。島には猫を目当てに観光客も来るんだから、島にとっては猫様様でしょ?」
夫「観光客が島に何の利益くれるの?島には食事の店もないし、宿もないわけだから、観光客だって住民からすれば迷惑だよ。」
私「じゃあなんで取材してるの?島の人がいいって言ったから取材してるんでしょ?人が来て迷惑になるんなら、取材断るでしょう?」
夫「困るから即取材はお断りって単純にはいかないでしょ?島の人は来ても来なくてもたいした問題じゃない。お前みたいのが猫カワイイって、見に行くだけだろ。」
私「可愛いだけで見にいっちゃだめなの?見に行っただけで野良猫増えちゃうんだ!」
夫「お前馬鹿か!お前みたいな無責任なのが野良猫増やすんだよ。」
私「私がいつ野良猫にエサやった?妄想するのやめてください!」
夫と話していて、楽しいと感じたことは、正直ない。
いつも話の腰を折ってくるし、都合が悪くなると逃げる。
長女がまだ小さい頃、実家の母の前で言い争いをしていたときだった。
私「・・・ね、いつもこんな感じで話をこじらすの。わかる?私が怒るの無理もないでしょう?」と言ったら、夫「お前よく嘘ばかり言えるな。お義母さんの前だからってそんな言い方ないんじゃない?」
母の前では言い方が弱くなって、自分が責められているように演じる。
でもそんな時母はいつも夫の肩を持つ。
余計にいい気になる夫。
結婚22年。
子どもも、あと4年もすれば完全に独立する。
元々独立心の旺盛な子だったので、親としてほとんど心配はしていない。
帰ってくることはないだろうから、夫との生活は長くなりそうだ。
でも、このままでいいのだろうか?
夫は今までこれといった悪事は働いていない。
浮気もしないし、借金もなし。
DVもないし、至って健康、真面目に働いてきた。
そう、いい人である。
じゃあ、夫にないものは?
それは、やさしさ。
傍にいると安らぐ空気。
そう、これこそ私がずっと夫に求めてきて、とうとう得られなかったものだ。
世の中には、優しくなくていい、しっかり働いてくれれば。
優しいのは、よその女にも優しい証拠。
なんて女性もいるかもしれないが、そうだろうか?
優しさなんてなくても、結局残るのはお金なのだから、お金さえ稼いでくれたらそれが妻の幸せなのだろうか?
でも、去年私が夜、子宮筋腫で出血が止まらなくなった時、知らん顔だった。
傍で「そんなに痛いの?」を繰り返すばかりだった。
自分で救急窓口に電話して、あくる朝病院に行った。
本当は救急車を呼んでほしかった。
幸い様子見て、朝一番で診察ということになったからいいようなものの、普通家族が倒れたら救急車呼ぶよね?
このままこの夫と一緒にいたら、いつか見殺しにされる。
一晩中苦しんだ挙句、ぐったりした私に「おい、どうしたんだ?気分悪いのか?」なんて、息をしているかどうかも確かめず、そのまま放置になるのではないか?
そうなる前に、夫とは別れよう。
私は仕事をしている。
自分一人生活するには、十分な収入がある。
むしろ、夫を切ったほうが、経費も減って貯金もできそうだ。
そうだ、離婚しよう。
精神的安らぎなど、求めようとするから辛いのだ。
初めから亭主がいない人はどうするのだ?
頼るものがなければ、そのようにしっかりしてくるはずだ。
または夫以外に安らぎを見つけるだろう。
夫などいなかったと考えよう。
夫は私がいなくても、大丈夫。
夫というのはそういう人だ。
私が離婚したいと言ったら「そうか。仕方ないな、そう言うのなら」と、理由も聞かないだろう。
それがまた悔しい。
あぁ、22年無駄に過ごした。
娘は別だ。
娘が生まれた事、これについてだけ夫に感謝している。
かけがえのない子どもを授かったのは、この夫がいたからだ。
娘が生まれた時、夫は非常に喜んだ。
夫が人間として、父として、そして夫として輝いていた頃だ。
夫は立ち合い出産してくれた。
私は希望してなかったが、私が分娩室で苦しそうにしていたら、許可も得ないのにすっと入ってきて手を握ってくれた。
助産師さんは、夫があまりに突然入ってきたのと、自分は赤ちゃんを出すのに手いっぱいだったので注意はしなかった。
後から聞いたのだが、「なんなんだ?このご主人は勝手に入ってきて・・」と思ったらしい。
私はその手を握っていたから、想像を絶する痛みに耐えられたのだ。
声掛けに励まされ、その手と声にすがって、生まれて初めての一大イベントを乗り越えたのだ。
そうして生まれた我が子。
自然と涙が流れてきた。
その時夫は写真を撮ったり、我が子に触れたりして、何やらはしゃいでいた。
私は疲れと感動で、その後の記憶はない。
しばらくして、娘を連れて家に帰った。
何やら壁に貼ってある。
「赤ちゃんがいるので、静かにして」
なんだ?この張り紙は?
夫に聞くと「これから赤ちゃんを見に、お客さんがたくさん来るから、静かにしてもらうように」
張り紙にはかわいい赤ちゃんのイラストまで書き添えてある。
私はなんだかおかしくて、そんな夫が可愛く見えた。
私は出かけようとしてバッグを抱えていたのだが、床に下した。
これから、役所に行って、離婚届けを取ってこようとしていたのだが、急に行く気がなくなった。
本棚のアルバムを手にとって、娘の出産からの写真を見た。
そこには、やさしさがあふれていた。
夫が写った写真にはどれもやさしい顔があった。
そういえば、昨日夫は私にこう言った。
「お母さん、そろそろ白髪を染める頃だよ。」
何で変なとこばかり見てるんだろう?
そりゃ、自分の方が背が高いんだから、私の白髪の伸びたつむじが見えるよね。
そうだ、今日は髪を染めに行こう。
私は再び、バッグを手に取った。
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