ジモリベ
海道久麻
一 サークレット
達筆な人がさらっと書いた、そんな感じの書体だ。
『Circlet』と刻印されたプレートは洗練された書体で人目を引く。
透明なガラス・ドアには株式会社サークレットとある。隣の会社と比べればセンスの次元の違いが如実だ。
隣の(会社の)人、恥ずかしいだろうなぁ。
彩智(さち)の心配など、隣の入居者にとって余計なお世話だろう。
彩智はプレート・サインのデザインには素人なので、隣の会社との違い、それはプレートをデザインした会社やデザイナーの実力の違い、がどれ程のことか分からない。
だけど、彩智が自分の感性で選ぶならサークレットだ。
センスの良さをどう表現すればいいのだろうか?
もし、就活中なら、このサインでますます入りたくなる会社、というべきか?
東京恵比寿の商業ビルの一室。
この界隈ではよく見かけるマーケティングとプロモーションの会社。
サークレットはその一つだ。
総勢七名の小さな会社でも勢いがある。
あのプロモーション、このプロモーション、ちょっと話題になったプロモーションの幾つかはこの会社が関わっている。
業界紙の記事がそれを証明している。企業研究をすればそんな情報がどんどん出てくる。
代表者は神取(かんどり)龍一。
マーケティング業界に就きたい学生がこの会社の門を叩くのだが、無条件に門前払いされる。
サークレットのパートナーになれるのは、マーケッターとしての実績のある者のみ。
新卒どころか、第二新卒、さらには大手広告代理店からの転職組も実績がなければ、相手にされない。
就活で持参すべきはエントリーシートでなく、実績。
彩智は代表者に会うことを試みてきた。
電話でアポイントメントを取ろうとしがた、あえなく玉砕した。
電話対応した女性は、神取の不在を理由に挙げた。
何度も電話をすると、同情してくれるのだが、不在を告げられるばかりだった。
じゃあ、会いに行こう。
アポが取れない以上、アポなしで会社を訪れた。
電話の声の主に会うことができた。会っただけで相手の気持ちを明るくするオーラを発する女性だ。
フリルのブラウスがそう見せるのかもしれない。
年齢は三十歳代に見えるが、四十歳代だろうか。アラフォー世代。
気鋭のマーケティング会社だから、そこで働く女性もビジネス戦士かなっと思ったのだが、彼女は戦士の逆、傷ついた戦士を癒やす聖母か観音か、そんな笑みを絶やさない人物だ。
二連のパールのネックレスはサークレットの聖女の象徴なのかもしれない。
Circletの洒落たパーティションの左袖から出てきた彼女、青木舞は彩智の用件を聞くなり言った。
「あなた運がいいかも」
今日の彼女もフリルのブラウスに二連のパールのネックレスだ。それに黒のスカート。これで黒のジャケットを羽織っていれば、子供の入学式に同伴する母親だ。
彩智を待たせて彼女は奥に下がった。
程なく戻ってきた。
「相原さん、あなた本当に運がいいわ。
たまたま神取がいて、そのうえ、会うというんだから」
「そう仰っていただけると嬉しいです」
この時は、運がいい、の意味を図りかねたのであるが、帰り際に彼女から耳打ちされた。
そもそも、神取は不在が常だ。
在席していてもセールスパーソンに会うことはない。
だが、偶然、神取が退屈していたのか、青葉市場の女性営業員、それも若い、が面会を希望していると告げたら、神取は会うといったのだ。
これは滅多にないことだと念押しされた。だから運がいいのだと。
エントランスの右側のドアに案内された。ここは会議室らしく、楕円形の会議机が鎮座している。彩智の立ち位置と反対側が唯一の窓だが、椅子に座って外を向いている人物が、彩智の気配に気づいて椅子を回した。
「初めまして。お時間いただき、ありがとうございます」
「あぁ、君が…」
写真よりも若々しい。辛うじて三十代といっても通る。
スポーツマンが彩智の第一印象だ。長距離選手のような細身の体。
「自己紹介が遅れました。ベンチャー・サポーター株式会社の相原彩智と申します」
名刺を出すと神取も応じて、名刺交換してくれた。
これまで会った経営者の中には、彩智の名刺を受け取るだけで自分の名刺を渡さない人や彩智の名刺を受け取ることすら拒否する人もいた。
名刺交換してくれるだけでも感謝したい。
それほど彩智は嬉しかった。
「私が株式会社サークレットの代表をしている神取龍一です」
名刺の肩書は代表取締役とある。
「社長様、御社のような先進的な会社でしたらCEO様とお呼びすべきでしょうか」
「代表取締役社長だけど、ここは一人一人がそれぞれ会社を興してもいいような敏腕マーケッター集団だ。
自分で仕事を取ってきて、自分でこなす。
個別の会社にするよりも、ファームとしてまとまった方がメリットがあるので皆で会社を作った、それだけのことだよ。
実際のマネジメントは彼女がやっているので、彼女を社長といっても不自然じゃないけどね」
すかさず青木が口を挟んだ。
「無視してね。神取さんの常套句だから」
青木の間髪入れぬタイミングは、普段からこんなやり取りが為されているからだろうか。
「で、せっかく来てくれたんだからコーヒーでも飲んでいって」
いつの間にか青木が部屋から下がっていた。
「恐縮です。サークレット様は、マグインチョコのコマーシャルを手がけていらしたのですね。
それとみんなが真似しているスピンダンスのフラッシュモブも」
「君の印象に残っているのはチョコとダンスか。プロポーズシリーズは?」
「車のコマーシャルに使われてるショートムービーですね。友人と盛り上がっています!」
「どんな風に?」
「あの……」
「遠慮しなくていいよ」
「あり得ないけど、あったら即、OKねって」
「それなんだ!僕が狙っていたのは」
「あのシリーズは社長が手がけられたのですか?」
「スポンサーがお金持ちだからね。
シナリオライターも俳優もいい人達を発掘できた」
「そういえば、中井朝斗も今井怜も最近、テレビドラマに登場するようになりましたね」
「お陰で、続編を作ることになった。これがニュースになるくらいだからね。宣伝屋冥利に尽きるよ」
車の宣伝に過ぎない。
だがこのコマーシャルフィルムは二十五秒間の恋愛ドラマだ。
出会って、愛し合って、ふとしたすれ違いで破局の危機を迎えながらも最後はプロポーズで終わる。
初めに自動車メーカーのロゴがフェードアウトする。
だからこのメーカーがスポンサーの新しいドラマだと思うのだが、早い展開にコマーシャルと気づきつつ、そのストーリーに引き込まれてしまう。
エンディングは思わず涙だ。
車の中での洒落た仕草、セリフは女子会で再現される……。
全部で10本のフィルムが作られた。10の恋愛だ。
「おねだりカーって呼ばれてますよね」
男性が車を買うとき、ガールフレンドが指名するのがこの車だ。
「だから嬉しい誤算だったよ」
「すごく売れてますよね」
「購入者の六十四%が男性と予測していたんだけど、おねだりされたのかな?男性購入者が七十二%なんだ。それも最上グレードに偏っている。クライアントは相当儲かっているはずだよ」
「今度は御社がもっと発展する番です。そのお手伝いを是非ともさせてください」
彩智が言いきったところで青木がコーヒーを置いた。
「公募増資だろ?ウチは今のままで十分さ。
こういう会社は電人や百報堂のような規模を追うよりも、面白い仕事、価値のある仕事を優先するんだ。
それにはウチくらいの規模が丁度いい」
公募増資。
株をやっている人には馴染みのことばだが、それは大企業の資金調達と思い込まれている。
中小企業、それも50人に満たないような会社、更にはサークレットのような小さな会社でも幾つかの条件を満たせば公募増資は可能だ。
条件の一つ、成長性は最も重視される。
おねだりカー、というブームを生みだすほど、消費社会への影響力を持つサークレットなら投資希望者が殺到するに違いない。
彩智は説明を始めながら、バッグから資料を取り出した。
「その説明は要らないよ。以前にも聞いたから。青木が聞いたのだけどね」
青木が頷いた。
「そうでしたか。では説明は別の機会にさせていただきます」
「説明は要らないよ。僕なりに調べた。
もし、青葉市場のプロモーションのオファーがあったときのために、ね」
冗談めかして笑うのは、そんなつもりがないからだろうか。
「サークレットさんが宣伝に協力してくださったなら、私のような営業は不要ですね。失業です」
「オファーが来ないどころか、どこも使ってないのでしょう?」
「小さな市場ですし、大々的に宣伝したから、優良企業が集まるということでもないでしょうし」
「それはそれとして、少し世間話に付き合って欲しいな」
それは彩智も願うところだ。
「あのぉ、私なりに調べさせていただいて、社長様は愛知県の出身とか。
私も愛知県出身です」
「そういうことか」
「はい。そういうことです」
そう、同じだ。だから私が訪問したのだ。
公募増資の対象になる中小企業は多いのだが、中小企業が公募増資できることは余り知られていない。
銀行融資よりも手続きが複雑なため、理解するのに時間がかかるからだ。
代表者が時間を割いてくれるきっかけ作りは、説明のための第一歩だ。
とにかく繫がりを探す。出身地、出身校、趣味など公開されている情報から、最も適したエージェントを派遣する。
愛知県出身。その一点で私が選ばれた。
これまでも愛知県出身というだけで同郷の経営者が割り当てられた。実際に会えたのは神取で十三人目だ。
神取という姓は自分の知り合いにもいる。ひょっとして…
「社長は三河の方ですか」
「やっぱり分かるかな。僕は海辺だから三河便がキツいらしい。東京に長くいて標準語に染まってるはずだけどね」
「いえ、方言でなくお名前です。私の同級生に神取という女性がいましたもので。私も三河です。安城です」
「僕は蓮輪だ」
蓮輪とは、合併により美塩市となったが、旧美塩市と釜氷市に挟まれた旧蓮輪町だ。
「それで海辺ですか」
「ああ。こう見えても漁師の倅だよ」
「では、Gレースにも出られるのですか?」
GレースのGは地元で採れる特徴的な石、花崗岩=グラナイト、を意味する、手作り筏レースのことだ。
誰でも参加できる筏レースを通じて、地元ブランドの石の周知と筏レースのイベントで町おこしの目的がある。
「この夏もレース当日だけだけど、参加したよ。作る方は……なかなか地元に帰れなくてね、仲間に申し訳ないことした」
そんなお互いの出身地を確かめ合う会話が少し続いた後で、神取が切り出した。
「相原さんは、どんな経緯で今の仕事をしているのかな」
「恥ずかしながら、成り行きです」
「成り行きで難しそうな仕事ができちゃうんだ」
「大した覚悟もないままにこの仕事に就きましたが、思っていた以上に自分に合っていると分かりまして、楽しんでやっています」
「楽しんで、か」
「楽しいことばかりではありませんが」
「それは当然だね。でも、一、二割の楽しみがあれば、八、九割の苦しみを忘れられる。
欲を言えば楽しみに三割欲しい、かな。
仕事ってそうじゃなきゃ続かないからね」
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