第38話 アスコット

イングリットは彼方の山の稜線が明るくなったころ、庭園に出た。


 流れる空気はひんやりちしているが、それがかえって心地よい。


 まだ王城のほとんどが眠りの底にある。


 無事にあの侍女たちの件もとりあえずの解決をみせたし、こうしてとりあえず自由に出歩けるようになった。

 言うことなし。


 澄んだ空気を胸一杯に吸い込む。


「やっぱりこういう自由は大切だな」


 思わずそう独りごちてしまう。


 本当は馬を駆って野山を走り回りたいがさすがにそういうことはここではできないので、散策程度ですませるしかできないのは少し残念だけれど仕方が無い。


(それにしてもだいぶ、ここにいるな)


 最初は一週間程度だろうと思っていたが、かれこれ一ヶ月近い。


 自分の周りに居るのが全員、獣人族であるということを忘れそうになってしまう。それくらい普通の人間と変わらないのだ。


 それこそ知れば知るほどに。


 ジャッ……。


 砂利を踏みしめる音にはっとして振り返る。するとそこには、


「あ、おはよう」


「イングリット、おはよう。ようやく会えた」


 久しぶりに感じる、アスコットの姿があった。


「ようやく?」


「ああ……。その、ずっと、何となく、会いずらくて」


 何となく妙な殊勝さをみせるアスコットに、イングリットは何となく調子が狂った。


「どうして? これまで散々、あいにきてなかった?」


「失礼な。ちゃんと機会は見計らいつづけている」


「そう? まさかそんな配慮をしてくれるとは思わなかった」


「……その……マクヴェス殿下が、常に一緒にいるような気がして……なかなか近寄りがたかったんだ」


 たしかに告白からこっち、マクヴェスと一緒にいることがこれまで以上に多くはあったかもしれない。


「へえ」


「なんだ」


「いや。なんとなく、はじめて会った時のあなたに戻ったな、って感じたの」


「どういう意味だ?」


「うーん……控えめな?」


「僕は十分、控えめだ」


「ま、そういうことにしておく」


 イングリットは肩をすくめた。


 なんだか気まずいような顔をするアスコットは空咳をすると、


「イングリット、あのあと、どうなった……?」


「あのあと?」


「あ、いや……なんだか、この間のことがずっと気になっていて」


「大丈夫だった」


「……そうか」


「そんなに心配してくれた」


「当たり前だろ。殿下はかなりお怒りになられていたし……それに」


「ん?」


 アスコットは首を横に振った。


「とにかく何事もなくて、よかった」


「アスコットこそ、殿下から何か言われたりされたりは? 私のせいで余計なことをしたって。私はそっちのほうが心配だ」


「いいや大丈夫。

――正直、覚悟はしていたんだけど」


 アスコットは心からほっとしたように目を細める。


 それも告白効果……というのは少し思い上がった考えかもしれない。


「良かった……。

もし何か言われるようなことがあったら言って。私が無理に知りたがったんだから」


「そういうわけには……」」


「いいな、約束だぞ。

私のせいで、アスコットに何かあれば、それは私のせいでもあるんだからな」


「……きみというやつは、人のことばかり心配かけるんだな。あのときの侍女たちのこともそうだけど」


「別にそういうわけじゃないさ。ただ、自分にも落ち度がある以上、一方的に相手が処罰するのを見過ごせないだけだ」


「そういう配慮ができるやつは希有だ。獣人族のなかでも」


「人族の中でも、だ」


「……そうか」


 アスコットは小さくうなずく。


「ところで、きみに会ったら聞きたいと思うことがあったんだけど、いいか?」


「何だ?」


「あのとき……殿下と交わしていた会話はどういう意味だ? 返答を後回しにしているだとか、受けるに決まっているだとか……」


「……っ」


 みるみるあのときのことが思い出され、耳が火照りだす。


(そうだった、アスコットもいたんだった……!)


「あ、あれは……何でも無い」


「何でも無いことはないだろう。あのやりとりのあと、殿下は侍女たちを許した。漲っていたはずの殺気まで消えた」


「そうだったか? 私にはぜんぜんそんな気はしなかったけど。気のせいだ」


「そうとは思えない」


(ったく、しつこいやつだな)


「……とにかくたいしたことじゃない。ぜんぜん、たいしたことじゃないんだ、本当に」


「…………」


 アスコットがじっと見つめてくる。


 イングリットもそれを思いっきりにらみ返した。


 最初に折れたのは彼だった。


「まあそういうことにしとこう」


 にやりと笑う。


 また何かネタでもかぎつけたような顔だ。


「それじゃ、私はそろそろ。殿下が起きる頃だろうし。そっちだって、シェイリーン殿下のこともあるだろ」


「シェイリーン殿下はまだ起きるまでは時間がかかる。低血圧なんだ」


 そこらへんはまだまだ子ども――そう言ったらきっとシェイリーンは頬をふくらませて怒るだろう。


(でもそれも可愛いかも)


 想像するだけでくすりとできる。


「イングリット?」


「なんでもない。それじゃ」


「ああ、またな」


 手をあげ、アスコットに別れを告げると逃げるように庭をあとにした。


                     ■■

 そろそろマクヴェスが起きる頃合いだと、彼の部屋に向かうと、すでに居間には部屋の主がいた。


「マクヴェス、おはよう」


「おはよう、でかけていたのか」


「庭に。ちょっと散歩」


 マクヴェスが笑顔をみせてくれると、イングリットも自然と笑顔になれる。


 しかしマクヴェスの笑顔はすぐに曇った。


「なぜ起こさなかったんだ」


「誰を」


「俺に決まってるだろ」


 少しふてくされた物言いだ。


「たまたま目が覚めただけだから。王子様を起こすほどのものでもなかったんだし」


「イングリット。俺は王子じゃない」


 頬杖をついた。


「――まあ、いい。それより、そろそろ帰るぞ」


「え?」


「なんだかんだ長居が過ぎた。そろそろ帰らないと……。家屋敷も人が住まないと朽ちる」


「ああうん、分かった」


「どうした?」


「いや、突然だった」


「ここはやっぱり危ない。またお前に面倒ごとがふりかからないとも限らないからな」


「そんな大げさな」


「ともかく、準備はしておいてくれ」


「具体的な日時は?」


「明後日を考えてる」


 本当に急だ。


「分かった」


(そっか……)


 王都との急な別れ、とは思いつつ、マクヴェスの言葉も理解できる。


 さすがに一ヶ月ものあいだ、屋敷をあけるのは彼も心苦しいのだろう。

 母親との思い出の場所なのだから。


「マクヴェス。ちゃんと殿下には伝えるんだぞ」


「言われなくとも分かってる」


「泣いても面倒くさがらずちゃんとケアするんだぞ」


「分かってる」


 子どもっぽい表情にイングリットはくすりとした。

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