第33話 救出劇

 ゴウゴウと猛々しいばかりの音をたてながら燃え上がる炎が壁や天井を舐めていく。


 獣よろしく歯をつかい、どうにかこうにか網を破ったものの、そのときはすでに炎の勢いに出入り口は覆い尽くされ、黒煙に涙がとまらず、身体に力が入らない。


 熱波の猛烈さも手伝い、追いつめられていった。


 イングリットは両手を後ろ手に縛められたまま(この手錠が火にさらされ、とんでもなく熱く、手首が焼けつくようだった)、這うようにして火がまだ回りきっていない、道具類の入った棚を盾にするみたいにその裏へ匍匐前進で向かう。


 しかしそれで力が尽きてしまう。


 それもこの小屋そのものが、誰かが助けにくるまでに崩れないという保証はない。


 夥しい量の汗が額を伝う。


 炎に舐め撮られていた窓が、バリンッ!と音を立てて割れる。


(これで……)


 黒煙を目印に誰かが気づいてくれるだろう――そんな一抹の救いを見いだしのもつかの間。


 新鮮な空気が入ったことで炎がゴウウッ!とますます勢いを得て、まるで何本もの首をもった蛇のようにウネウネと炎が這い回り、窓枠を灼いた。


「っ……」


(や、やばい……かもっ)


 意識がかすむ。身体が動かない。


 しかしイングリットに出来ることはなにもない――。

                           ■■



「……殿下、どうぞ」


「ああ」


 ロシェルが淹れたくれた茶を前に、マクヴェスはたちのぼる湯気をじっと眺めながら、指でコツコツとテーブルを叩いていた。


 すでに日が暮れてしまっていた。部屋からでも城下町の灯が綺麗に見えたが、マクヴェスにはどうでもいいことだった。


 これから王族同士の内々の晩餐会の予定だった。


「イングリットはまだ戻ってきていないのか」


 思わず声に険が出てしまう。


 ロシェルに苛立ちをぶつけるのはお門違いだと、自己嫌悪になる。


「はい、そのようです」


「もう日がくれた……」


 立ち上がり、窓辺に寄る。


 さっきからそんなことを繰り返して落ち着きがなかった。


 これまでここまで遅くなることなど一度もなかった。


 それはまるで娘を思う、父親の心境に近いかもしれない。


「イングリット様はしっかりされていますから。……もしかしたら道に迷われているのかもしれません」


「いつもアスコットが送ってくるだろう」


「そう、ですね」


 ロシェルも不安そうに顔を曇らせる。


「少し外に出てくる」


「これから晩餐会ですが」


「そんなものよりイングリットが優先だ」


「それでしたらまずは、シェイリーン殿下のもとへ。あちらもアスコット様が戻られていないとなれば、それなりの騒ぎになられてるかと」


 マクヴェスはロシェルと共に、やや駆け足君に妹の元へ向かった。


 侍女の取り次ぎを受け、シェイリーンのもとへ向かえば。


「お兄様、どうかされましたの。あ、晩境へのエスコートですか。ちょっとお待ちください。今、ネックレスを選んでいるところで。あ、お兄様、真珠とダイヤどちらが……」


「アスコット、どうしてお前がここにいる」


 マクヴェスは妹を気遣う余裕もなく、主人を見守る騎士をにらみつける。


「な、何か……?」


 藪から棒な責める口調にアスコットは面食らったようだった。


「お兄様、何を仰っているんですか。アスコットは、私の騎士ですよ。ここにいるのは当然ではありませんか」


「イングリットはどうした」


 マクヴェスはたまらず詰め寄ってしまう。


「い、イングリット……?」


 アスコットは一体なにがどうしたのか分からないらしい。


 それが、さらにマクヴェスを苛立たせる。


「どうして今日に限って、イングリットを送ってこなかった」


「お兄様……、い、イングリットがどうかしたんですか」


 不穏な空気に気づいてシェイリーンが言った。


「イングリットが戻っていない」


 アスコットの顔に驚きがはしる。


「……イングリット様とは別れました。一人でも大丈夫だというので。その、殿下から急用があると伝え聞いたので……いえ、伝達ミス、でしたが」


 瞬間、シェイリーンの悲鳴がつんざく。


 マクヴェスがアスコットの胸ぐらを掴んだのだ。


「あいつはお前の恋人だろう、どうして最後まで責任をもたないっ……!」


 ギリギリと強い力にアスコットの顔がみるみる歪み、そのまま壁に身体を押しつける。


 細身な外見からは想像もつかないような膂力で、アスコットも自分が壁に押しつけられ、はじめて何をされているのか気づいたようだった。


「お兄様! アスコットが死んでしまいます!」


「殿下っ! おやめください! 今はイングリット様を探すのが先決ですっ!」


 シェイリーンとロシェルが声をあげ、ようやくマクヴェスは手を離す。


「……っ」


 マクヴェスが手を離すと、アスコットは激しくむせかえりながらその場に尻もちをついた。


「アスコット。本当にイングリット様は一人で戻れる、そう言ったのね」


「た、確かですっ」


「最後に別れたのはどこだ」


「庭園そばの回廊です」


 マクヴェスからの詰問に、アスコットは顔をゆがめ、目を伏せる。


「シェイリーン。みなに、俺は少し遅れると伝えてくれ」


「わ、私もお手伝いいたしますっ」


「必要ない。あいつは俺の護衛だ」


 マクヴェスは前を向いたまま告げると、シェイリーンの部屋を飛び出した。


 ともかく向かうのは最後に二人が別れた場所だ。


 外は静かなものだ。


 夏の少し蒸れた風が肌を撫でる。


 このあたりは衛兵の姿をほとんど見かけない代わりに、廊下におかれた松明がパチパチと音をたてる。


「イングリット!」


 マクヴェスは声をあげた。しかしそれに応える声はなかった。


(一体、どこをほっつきあるいてるんだ)


「殿下!」


 駆け寄ってきたのはアスコットだ。


「私もお手伝いさせてください」


「お前はシェイリーンの騎士だ。それすら放棄しようと言うのか」


「これは主命でもあります。それに、彼女を一人にしてしまったのは私の落ち度です。今、衛兵たちにも探すよう申しつけてあります」


 アスコットの存在を無視して、マクベスは考える。


(……あいつがどこかに寄り道をするとは思えない。こいつと別れたらすぐに戻ってくる。何かに巻き込まれたのか? いや、あいつの正体が女であること以外はまだ誰も知らないはずだ。だとすればどうして?)


 考えれば考えるほど分からなくなり、苛立ちばかり募った。


「殿下っ!」


 そこへロシェルが彼女らしからぬ慌てぶりで走り寄ってきた。


「どうした!」


「何か手がかりがないか、イングリット様の部屋を探しておりましたら、これを……」


 くしゃくしゃになった紙を数枚、渡される。


“別れろ”


 そう書かれている。


「何だ、これは……」


「もしかすると、ですが」


「心当たりがあるのか」


 ロシェルはアスコットをちらりとみた。


「……もしかいたしますと、アスコット様とイングリット様の間を裂きたいなにものかが書いたのでは? アスコット様は侍女やメイドたちから人気がありましたから」


「……だから、別れろ、か」


「そんな」


 アスコットはイングリットの失踪に今度のことがかかわっていると知って、掠れた声をつぶやく。


 アスコットの眼前に、マクヴェスは紙を突きつけた。


「お前と親しい女は!」


「い、いません」


「誰でも良い、思いつく女はいないのか」


「……そんな人は」


「言いよられたことは本当にないのか」


「ありません。心当たりも……」


「殿下、一方的な感情であるかもしれません。アスコット様に心当たりが必ずあるとは……」


「くそ……どうして、すぐに俺に言わないッ……」


 マクヴェスは吐き捨てるように言った。


 おおかた、迷惑をかけまいと思ったのだろう。


 その時。騒がしい声が聞こえてくる。


「火事だっ!」

「庭園の物置小屋からだっ!」

「水だ、水をもってこいっ!」


 その不穏な衛兵たちの声が、ぞくりとマクヴェスの肌をかすめた。


 衛兵たちの駆け回る姿を横目に庭園の片隅へ向かう。


 確かに小屋がオレンジ色の炎にのみこまれ、夜空を多いつくさんとする黒煙をあげていた。


「これは、殿下」


 衛兵のリーダー格と思しき男が敬礼する。


「何があった」


「分かりません。見回りの者が見つけた時には……この有様で」


「なかに誰かいたか


「い、いえ、物置小屋ですから」


「確かめたのか」


「いいえ」


「それならどうして無人と分かる!」


 要領を得ない衛兵からすぐに顔を引きはがし、近づく。


「殿下、なりません!」


「黙れ!」


 衛兵を一喝し、駆け寄る。しかしあまりに炎の勢いは強かった。


“別れろ”――。


 何枚もの紙と、突然起きた火事。いなくなったイングリット……。


「誰か水をっ!」


 そこへ水をいれたバケツをかかえてきた衛兵がかけこんでくる。マクヴェスはバケツをひったくるように掴めば、服を脱ぎ出す。


 周囲は突然のことに唖然とするばかり。


「で、殿下……何を……」


 衛兵がぽつりとつぶやく。


 上半身を裸にしたかと思えば、何の躊躇もなく水を頭からかぶった。


 鍛えられた身体に水が流れていく。


 マクヴェスは驚く人々のことなどおかまいなしにそのまま獣人となった。


 雫をまぶした美しく透明度のある青い体毛が、赤々と燃え上がる紅蓮をうけ、キラキラと輝く。


 マクヴェスはためらいなく小屋の中へ、ほとんど炎の塊と化している扉を蹴破り、飛び込んだ。


 扉を蹴破ると、炎の壁がゴウッ!と襲いかかってくるが、マクヴェスは咄嗟に腕で顔を守る。しかし腕が浴びた熱に、身体に鋭い痛みが走る。


 しかし炎に巻かれる室内へ躊躇無く入る。


 杞憂であればそれでいい。いや、そうであって欲しい。


 王城を捨てた変わり者の王族の奇行だと笑われたところで、今さらだ。


(イングリット!)


 数歩前方すら煙に巻かれて、判然としないなか、身体を限界まで下げ、どうにか視界を確保しようとする。


 と、燃え上がる棚の後ろから何かが見えた。


 それは足だった。


「イングリット!!」


 叫び、とびつくように棚を押しのける。炎が体毛を焦がすが構わなかった。


 そこにいたのは、炎のなかでうつぶせになった最愛の人の姿。


 それも後ろ手にされた手鎖が、あまりに痛々しい。


 しかしここで無事を確かめる猶予はない。


 マクヴェスは腕の中に彼女を抱き込んだ。


 生きていてくれと今はそれを念じるしかない。


 そうして戻ろうとしたそのとき、乱暴に押しのけた棚にあたった炎にまみれた柱が倒れてくる。


「っく……!」


 マクヴェスは胸の中にイングリットを抱え込み、守る。


 しかし背中に受けるだろう、打撃はいつまでもなかった。


「殿下っ!」


 顔を上げれば、燃えさかる柱を両手で支えるようにもう一匹の獣人が。


「アスコットか」


「さあ、早くっ!」


「すまないっ!」


 二人は熱波のただなかを焦げるような熱さ――いや、痛みの渦中から転げるように出る。


 灼熱の世界からすれば、蒸した空気などむしろ涼しいほどだ。


(イングリット……)


 彼女はやや肌を煤けさせながら腕の中にいる。


 脈を診ると、ほっと安堵の吐息をこぼした。


 そして次の瞬間、ガランガラン……と大きな音をたてながら小屋が真ん中から折れるように倒壊し、火柱が立った。


「侍医をすぐに連れて来いッ!」


 マクヴェスは自分が獣人の姿であることも忘れ、声高に叫んだ。

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