第27話 噂はめぐるめぐる

 柔らかな絹のような朝日が差し込む庭園。


 どうやら、深夜のうちに雨が降っていたようで、緑がしっとりと濡れ、庭園全体に透明感があった。


 空気もいつになく澄み切っているような気がする。


 いつきてもよく整えられている緑の中を、イングリットとマクヴェスは肩を並べて散策していた。


 東の地平線がだいぶ明るくなり、うっすらとたちこめた朝靄を朝日が照らし出す。


 散策に誘ってくれたのはマクヴェスだった。


 子どもっぽいことをした穴埋めをさせて欲しい、一緒の時間を過ごしたい――そう言ってくれた。


 もちろん、イングリットはすぐに受けた。


 過ごし馴れた庭園なだけあって、マクヴェスは花を指さし、あれは実は雑草なんだとか、あの花はシェイリーンが大好きとか、薔薇をとろうとしてフォルスが手を血だらけにしてあの時は大変だった……と、いろいろ教えてくれた。


 これまでずっと自分に我慢を強いていたのだろう、いつになく多弁だった。


「マクヴェスが好きな花は?」


「俺か? まあ、どれも好きだ」


「なんだ、それ」


 思わず笑ってしまう。


「俺は自然が好きなんだ。花と言わず木と言わず草と言わず……どこまでも広がる、緑が。

でも今は、イングリット……きみのことが一番だ」


 ポニーテールをそっと撫でられる。


 不意打ちすぎる言葉にどきりとして、


「あ、あのね、私は人間だぞ……っ!」


 思わず声をあげてしまう。


 かあああ、と湯気がでないのがおかしいくらい赤面したイングリットの姿に、余裕綽々といった調子でマクヴェスは作戦成功とばかりににやりと笑った。


「本音をいえば、他のオス《やつら》なんかにお前の姿は見せたくない。……本当は閉じ込めて、俺だけが愛でられる存在になって欲しいくらいだ。そうだな……あの館に新しく塔でも増設して、そこに……手鎖とも忘れずに」


「……ヤバい発言だって気づいてる?」


 じろりと、睨む。


「もちろん」


「そんなことされても絶対に逃げ出してやる」


「国中を舞台においかけっこも面白いかもな」


 マクヴェスは冗談めかして肩をすくめる。


「あーあ……。まさか王子様がこんな、とんでもないヤツだなんて知ったら、みんな驚くんじゃないかな。特に、フォルスが」


 フォルスはなんだかんだ、育ちの良さがある。きっとマクヴェスの何倍も常識があることは間違いない。


「正直なところ、俺が一番自分について驚いてるんだ。

……こんな風に心が動いたことは、母と共にこの城を出るというときだった。

いや、あのときですら、心は穏やかだった。

俺がこんな心の揺れ方をするのだとはじめて思い知らされたのはイングリット、きみにだけだ。

まさか、たった一人の女性にこんなにも心が動揺してしまうなんて」


 常に冷静沈着な彼にしてみれば、自分の心が他人によってかきまわされるということは受け入れがたいことかもしれない。


 しかしそう言いつつ、マクヴェスの顔は決して暗く沈んでいるわけではなく、それどころか精力が漲って、瞳にある光もいつになく強い気がした。


 それでもやっぱりマクヴェスは強い心の持ち主だと思う。


 あの場の勢いで唇を奪われるようなことも可能性としてあっただろうに、彼はただ抱きしめるところでとどめてくれた。


 あそこで口づけすれば、イングリットの心を無理矢理自分に引き寄せる――そう思ってくれたのかもしれない。


(私が、不実……よね)


 イングリットはいつまでも態度を保留しながらこうして二人で行動することに胸をときめかせている。


 矛盾というより、いいとこ取りの小ずるい女――そう自分でも思う。


 しかしこの城での日々を過ごせばすごすほど彼の想いを受け止めることへの責任感は増していった。


 いくらマクヴェスが王城から離れたとはいえ王族である。


 彼と心を通わせるということはその一員になるということだ。


 たとえ、彼が離れて暮らしても王族であることを消すことはできない。


 それは決して好き、という感情だけではどうにもならない、彼の背景にあるものすべてを受け止めるだけの覚悟が必要なのだ。


 それを思うと、人間である自分に可能なのか二の足を踏んでしまう……。


「すまない。きみも悩んでいることは知っているんだ。だが、想いを腐らせたくない」


 イングリットたちは噴水のあるところまできた。


 さぁぁぁぁ……と軽やかな水をかなでるのは大理石の造形。


 涼しげな風に目を細める。


 豪華な十段重ねのケーキを思わせる土台、そのいただきにいる遠吠えをする狼の口から水がふきあげ、一段ごとに馬や犬、羊、ウサギ、アヒル、鳥……さまざまな種類の動物たちが一種類ずつ何匹も連なり輪をつくっている。

 その姿はまさしく狼を崇拝しているかのよう。


「へえ、面白い形」


 イングリットはまじまじと眺める。かなり細かい。こんなものを造られる人――もとい、獣人がいることなんてやっぱり驚いてしまう。


「……くだらない、造形だ」


 マクヴェスは吐き捨てるように言った。


「え……?」


「同じような種族があつまりながら、上下の差を造る……人を嫌いながら人の真似事をしたがる……」


 彼の横顔は苦々しく曇った。


「人間なんてもっとひどいよ。……まったく種族の間に階層をつくっているんだから。出自や能力、肌の色……なんでも違えば、それだけで」


「どこの世界も同じなのだな。必ず何かで差をもうけようとする……」


(でももし、私たちが一緒になれれば……。一緒にいられる世界を作りだすことができるのなら……)


 マクヴェスの父でさえできなかったことを成し遂げれば、世界はもっと優しくなれるのかもしれない。


「――お二人とも、こちらでしたかっ」


 不意に声をかけられ、イングリットたちは顔をあげる。


「アスコット?」


「殿下、おはようございます」


 アスコットは踵を合わせ、背筋を伸ばす。


「どうしたんだ、そんなに慌てて」


 マクヴェスは何気ない動作で、彼の視線からイングリットを隠すような立ち位置をとる。


「実は、お二人にお伝えしなければならないことが……」


「何かあったのか?」


「……とりあえず、我が主の部屋に」


「なんだ、構わん。ここでいい」


 しかしアスコットは首を横に振った。


「どうか、我が主も心配しておいでですので」


「……分かった」


 妹の名前を出され、マクヴェスは渋々うなずいた。


(何があったの?)


 彼がこんなにも慌てる姿など知らない。


 イングリットの正体を知ってすら、そんな感情を表に出さなかったくらいなのに。


 マクヴェスと共に、シェイリーンの部屋を尋ねれば、ロシェルもいた。


「お兄様、イングリット、こんな朝早くから申し訳ございません」


 シェイリーンの目が、マクヴェスとイングリットとをちらちらと見る。


 進められ、マクヴェスはソファーに腰掛ける。


「それで? 急用らしいが」


「え、ええ……」


 珍しく歯切れが悪く、元気いっぱいな光を溜めている双眸もいつになく揺れる。


「……その、お兄様とイングリットが、昨夜……パーティの席を外して、熱烈にキスをしていたと……貴族の間ではもとより、王城でもすっかり噂になっているのです」


「えっ!?」


 素っ頓狂な声を出したのはイングリットだった。


 マクヴェスは頬杖をつき、足を組んだまま表情を変えない。


「わ、私は……してないわ」


「それじゃ、二人は何をしていたの。突然、夜会を抜けられて……」


「プレゼントを渡していたんです。いえ、プレゼントを渡すために抜けたわけではなかったのですか……」


「イングリットのやつが妙に殺気を放って、挙動がおかしかったからな。人のいない場所で何かあったのかと問いただしていた。あれでは客人たちにかえって失礼だからな」


 マクヴェスは言葉を引き継ぐ。


「プレゼントと言うと、あのオルゴールですか?」


 アスコットが言うと、マクヴェスはちらっとその目を眺め、それから「そうだ」とうなずいた。


「それだけだ」


「でも、噂ですが、お兄様とイングリットが抱き合っていた、あれは間違いなく、恋人同士のような抱擁であったと……」


「誰が言い出したことだ」


「……分かりません。ですが、貴族の誰か、でしょう」


「まったく、やかましいばかりの連中だ」


 マクヴェスは忌々しそうだった。


「では、違うのですね!」


 シェイリーンはほっと胸をなで下ろしたようだった。


「そうですよね。イングリットはお兄様を守る護衛ですもの。そんなことをするはずがない。お兄様だって護衛に手を出すような方であるはずがないわ」


 安堵したようにその表情はさっきとくらべると明るさを取り戻したようだった。


 それをイングリットは気まずい心持ちで眺める。


「それでその噂はどこまで広がっているんだ」


「分かりませんが、まあ、貴族たちが噂している以上、社交界で知らない人はいないでしょう。きっとお父様たちの耳にも……」


「え、昨日の今日なのに!?」


 イングリットは耳を疑ってしまうと、シェイリーンが苦笑しながらうなずく。


「イングリット、ここでは誰もが平穏にんでいるの。色恋沙汰はもっとも広がりが早いものの一つなの」


「そんなに暇なら貴族連中は全員、一兵卒として前線にいけばいい」


「お兄様っ……そんな言い方……」


「シェイリーン、とにかく心配する必要はない」


「いいえ、そういうわけにはいきません。みなが、お兄様とイングリットとの間をおもしろおかしく話すのを聞いているのはそれだけで腹立たしいんですっ」


「今さらだ。下手に反応すればおもしろがらせるだけだ」


「駄目です!」


 シェイリーンの声が、部屋に大きく響いた。


 はっと、彼女は我に返ったように「ごめんなさい」と目を伏せる。


「……これ以上、お兄様にまつわる変な噂がとびかうのはいやなのです」


(そう、だよね)


 イングリットもシェイリーンの気持ちは分かる。


 ただでさえマクヴェスの出自に関して王宮内で微妙な立場にあるのだ。イングリットが知らないだけでマクヴェスに関する悪意の噂がこれまで何度となく広まったのだろう。


 マクヴェスもこれ以上、放っておけとは言えないようで妹の元へ近づくと、そっと片膝を折り、その手をとった。優しく手の甲をなでる。


「シェイリーン、お前の気持ちを無碍にするつもりはないんだ。しかし噂というやつはどうにかしようとしてどうにかできるものではない。放っておくことくらいしかできない」


「いいえ、お兄様、私、名案をおもいついたのです」


「名案……?」


「そうです。アスコットがイングリットの恋人役として演技をします。そうしたらお兄様との噂も立ち消えましょう」


「え!?」


「イングリット、でもね、これが一番良い方法だと思うんです」


「シェイリーン……」


 さすがのマクヴェスもあまりにも驚くような妹の提案に、言葉を失ったらしい。


「大丈夫。きっとうまくいきますから。イングリットもお兄様のために協力してちょうだいね。アスコットもよ。みんなでこの変な噂をふきとばしてしまいましょうねっ!」


 シェイリーンはにっこりと満面の笑みで言った。


 そう言われて、否やは言えず、イングリットはただ視線をさまよわせることくらいしかできなかった。

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