第12話 過ぎ去りし情景

 朝食を終えた午前中、イングリットは梁はりをつかって懸垂をしているところだった。


 赤みを帯びた腰丈の髪を雑青いゴムで留め、袖無しの灰色シャツに下着という色気もへったくれもない格好だった。

 身体を引き上げるたび、髪が揺れた。


 みずから、男として生きようと覚悟したイングリットだが、母譲りの髪ばかりはどうしても切ることができなかった。

 訓練の時、戦いの時、邪魔であろうとも、他の能力で補う――と、半ば意地になっていた。


 そして今日まで髪を切らずにやってきた。


 それは押し込めても押し込めきれない女としての性への未練かもしれないし、その献身的な姿を婦人の鏡として社交界としてほめそやされ優美な母へのあこがれがそうさせたのかもしれない。


 ともかくも、今は汗をかきかき、懸垂だ。


(……四十九っ)


 あと一回、と思った時、ノックが聞こえた。


「あ、はいっ」


「イングリット様、入ってもよろしいでしょうか」


 ロシェルだった。


「待って」


 ぐっと最後の一回、身体を細腕でもちあげ、ぱっと着地を果たした。


 脚衣を身につけ、タオルで首回りの汗を拭う。


「どうぞ」


「失礼いたします」


 ロシェルは台車の車輪をガラガラいわせながら部屋に入ってきた。


 いきなりのことに、イングリットは目が点になってしまう。


「……何?」


 台車に積まれているのはたくさんの本だった。それをロシェルはテーブルへ積み上げていく。


「育成記録でございます」


「誰の?」


「殿下のです」


「えっと、待って。どうしてマクヴェスの育成記録がじゃんじゃか私のところへ運ばれてくるわけ?」


「殿下が、是非、ご自分のことをイングリット様に知って頂きたいとの仰せでしたので」


(うーん……そういうことで言ったんじゃなかったんだけどな)


 確かに、その人のこれまで生きてきた軌跡も知りたくないわけじゃないけれど、イングリットが思い描いたのはもっと違うことだった。


 何が好きなのか、苦手なものはなにか、特技は、暇な時は何をしているのか。そういう単純でいて、その人を構成している大切なもののことだ。


 少なくとも、育成記録を読んで、お勉強、をすることではなかった。


「これで全部?」


「いいえ、こちらにあるのが殿下のお誕生から三歳まででございます」


「……それで二十冊を越えるなんて」


 育成記録は通常、親がつけるもので、生まれた時から日々の成長を記録する。


 帝国では有名な歴史上の人物の育成記録が出版され、伝記として読まれている。


 イングリットの育成記録はこれまでの人生で五冊くらいで、これがだいたい世間一般ではないだろうか。


 それも、父が書いていたせいか、はじめての剣を握った日、はじめて馬を操った日、はじめて男に勝った日、はじめて騎士になった日――という何とも雄々しいタイトルがつけられている。


 子どもの、というよりも、武人の育成記録そのものだった。


「マクヴェスの好意はありがたいんだけど、これじゃあ全部見終わるのに時間がかかりすぎちゃうし、第一、このペースだとあっという間にこの部屋、本だらけになって足の踏み場がなくなっちゃうと思うんだけど……?」


 言いつつ、手近にあった育成記録を何となくめくってみた。


 表紙にはこの館にところどころに見られる、天に枝を伸ばす大樹をイメージした紋章が記されていた。


 本のなかには、イングリットが予想した字はなかった。


(獣人族にも人の言葉を読み書きできる人がいるんだ)


 それはたしかに、イングリットにも理解できる帝国の言語で綴つづられている。


「ロシェル、これ、誰が書いたの?」


「奥方様です」


 前に見た肖像画を思い出す。美しい金髪の持ち主で、優しそうな人だった。


「筆まめな人なのね」


「私はまだ幼かったのですが、暇さえあれば奥方様は書斎にこもられて執筆されていましたよ」


「そうなんだ」


 文字に目を落とす。


“あの人のように美しい青い髪、そして私と同じ紅い瞳。

子どもが生まれた。

この時を、どれほど待ち望んだかしれない。私の希望、私の、赤ちゃん……。

名前はもう決めてある。


マクヴェス。

物語に出てくる、一介の騎士ながら、その国の誰もなしえなかった黒く猛々しいドラゴンを滅ぼした英雄。

その人のように強く、気高く生きて欲しい。

この子、マクヴェスが生きていくであろう行く手はあまりに過酷。

それは私の罪であるかもしれない。

守ることではなく、逃げることを選んでしまったから……。私は――”


 ぱたんと本を閉じる。


「イングリット様……?」


「やっぱりだめだよ、こういうのは。だって、マクヴェスのお母さんが将来、マクヴェスに読ませるためだけに書いたんだから。それを私が読むのは、ダメだ」


「マクヴェス様はイングリット様であればと……」


「そういうことじゃない。……とにかく、マクヴェスと話してくる」


(まったく。マクヴェスは、しっかりしてるんだか抜けてるんだか、ホントわからない)


 イングリットはやや駆け足で彼の部屋に続く扉をノックする。


「マクヴェス」


「イングリット、どうしたんだ?」


 イングリットは育成記録を記した本を差し出す。


「わざわざこんなことをしてくれなくてもいいんだ。私はこうして二人きりで話したいって意味で言ったんだから」


「そうなのか。済まない、俺のことを知りたいと言ったから」


「これはマクヴェスにあてられもので、そんな大切なものを簡単に他人にみせちゃだめだ。

――それだけ私のことを信頼してくれてることはとても嬉しいけど……」


「そうか、なら、これから遠乗りにでかけないか? それなら話もできる」


「分かった」


「決まりだ」


 そうして準備をするため部屋を出てから、


(……軽い女って思われなかったか……な)


 ほとんど勢いで二つ返事で了解してしまったのは少し女らしくないかな、という考えが頭をよぎった。

 もっと焦らすなりなんなりするのが、女らしいんじゃないか……。


(……女らしく、か)


 考えてみると、あらためてそんなことを気にしている自分がおかしかった。


 しかしそれと同時に、マクヴェスの前では自分は女を意識してしまうのだと、遅ればせながら自覚するのだった。


                     ■■


 乗馬脚衣ズボンにブーツを身につけ、厩舎で飼われている馬にまたがり、館を発たった。


 マクヴェスが跨がるのは逞しい筋肉のもった鬣たてがみも身体も真っ黒で眼光鋭い牡馬、イングリットの馬は優しい目をした栗毛の牝馬。


 地平線の彼方まで続いていそうな草原を駆ける。


(気持ちいいっ!)


 帝国でもこれだけ縦横に駆けても障害物に当たらないような場所はないし、こうして何気なく馬を駆るということだってなかった。


 常に訓練のための乗馬だった。


 こうしてただ走る、なんてことはなかった。


 澄み切った青空の下、風を受けながら馬をただはしらせる心地よさに気持ち良く酔いしれる。


「イングリット、どう?」


 野原の真ん中で、速度を落とし、マクヴェスと並んだ。


「うん、気持ちいいよ、すっごくっ!」


 緩く縛った髪が風をうけて、吹き流しのように靡いた。


「ねえ、これ、ずっと疑問だったんだけど、馬は獣人、じゃないのね」


「これは帝国領から輸入したもんだからね。今じゃ、領地で自然交配させてる」


「それじゃあ、馬の獣人もいるの?」


「もちろん。さすがに同族に跨がるのは気が引けるから。イングリットだって、仲間の上にのっかりながら戦場に出るのは出来ないだろ?」


 想像するだけで吹き出してしまう。


「……っていうか、それ、すっごくシュール。

マクヴェスはよく、馬に乗るの?」


「戦争が起こる前は毎日、やってた。風を受けながら、だだっぴろい土地を駆けてると、なんだか自分が風になるみたいで好きなんだ」


「…………」


「……どうした? 変なことを、言ったか……?」


 マクヴェスは少し恥ずかしそうに口ごもる。


「ううん、私もさっきそんな気分だったから」


「そうか……。馬の乗り方は誰から?」


「父親。子どもの頃はいやだったな。うちの親、すっごいスパルタだったんだ。馬に乗る前から擦り傷だらけって感じだったし」


「ぜんぜんそうは見えなかったけど」


「……うん、子馬の出産を手伝ったこと、かな。あれ以来、なんとなくだけど、馬の考えてることが分かるようになった気がしたんだ」


 馬にうまく乗れない時、厩舎を管理していたおじさんに馬の世話をすれば、一体感のヒントが出るかもしれないと教えてもらって、馬糞の片付けや飼い葉の準備などを一ヶ月くらいやったのだ。

 その時に、出産を体験した。

 母馬が何刻も苦しみ抜いた末に、産み落とされた子馬を見たときは、言葉にはできない感情に包まれた。

 感動かもしれないし、神々しさだったかもしれない。


 あれよりも前、イングリットは馬をはじめて生き物だと認識した気がした。


 もちろん馬が生き物であるなんてことは端はなからわかりきっていたことだったが、それまでの乗るための道具だという意識がたしかにあって、もしかしたら馬はそれを感じていたのかもしれない。いや、感じていたんだ。


「あの馬もイングリットが?」


 マクヴェスが言ったのは、戦場で乗っていた馬のことだろう。


「そう……。実はあれは今言った子馬の子どもなんだ」


「そんなに大切な……。すまない、あの馬も一緒に連れて行くべきだった」


「謝らないで。……私は、マクヴェスに助けてもらったこと、すごく感謝してる。これ以上、何かをのぞんだらバチが当たっちゃうわ」


 駆け足から並足に。

 久しぶりの鞍の感触、そして騎乗の目線、リズミカルな振動――何もかもが、懐かしく、こころよかった。


「俺は母から教わったんだ」


「……そうなんだ。お母様の肖像画、見たわ。とても優しそうで綺麗な人だった。マクヴェスと同じ瞳の……」


 マクヴェスは小さくうなずいた。


「少しついてきてくれないか?」


「もちろん」


 マクヴェスは「はっ」と馬の脇腹を踵で蹴り、駆け足にさせる。


 イングリットも遅れまいとそれに続く。


(道?)


 街道から枝分かれした道はまっすぐ森に続いている。

 道は繁茂する雑草に半ば隠れてしまっているが、辛うじて追うことができる。


 帝国では森の中に道があるのは普通のことだが、ここにきてからははじめて。


 この道は整備されたのではなく、何度も何度も誰かが踏みしめ、固めることで生まれたものだろう。


 木々が鬱蒼と茂り、気を抜けばすぐにでも脇にある森の中に突っ込んでしまいそうな不自由な道を、マクヴェスの背を頼りに追いかけた。


 長々と馬一頭がなんとか通れる程度の道が続いていたが、突然それが切れ、広がった。


「……っ」


 目の前に広がる光景に、反射的に手綱を引き、馬を留める。


 先行していたマクヴェスが馬を下り、イングリットもそれにならった。


 光があった。


 薄暗い森の中、そこに光の柱があった。


(嘘……)


 しかしそれは良く見ると、そこだけなぜか木々がなくなり、日差しが地上に降り注いでいた。


 さらに山から溶けだした氷が水となり、一本の川になっているのだろう、その水面に日差しが反射し、光の柱と錯覚せんばかりの情景をつくりだしていた。


 川の水を馬はおいしそうにがぶがぶと飲んだ。


 それすら、まるで光の粒子を飲んでいるかのように幻想的だった。


 マクヴェスは優しい顔で、ねぎらうように馬の首筋を撫でる。


「……すごく、綺麗だ」


 イングリット天を仰いだ。


「母とよく来た。二人だけの秘密の場所だ。ここは母が見つけ、俺が受け継いだ」


「その秘密を分けてくれたんだ……。光栄ね」


「――もう、うすうすは気づいているかもしれないけど、母は」


「人族なのね」


 マクヴェスはうなずいた。


「そう。詳しいことはよく分からないけど、すすんで嫁いできたわけじゃないらしい」


「図書室の本も?」


「母のために用意させた。俺は母から帝国の言葉を教わった。……帝国の人間で、獣人族に嫁いだ女性のことは、知っているか」


「ごめんなさい、はじめて知ったわ」


 帝国は獣人族を不倶戴天ふぐたいてんの敵、悪魔の化身と子どもの頃から教育を通じて教え込んだ。 憎むべき相手、殺して当然の相手として。


 両者の間には血と硝煙のにおいだけがたちこめ、和解の道などない――それが教えられているすべてだった。


 でも、もし帝国の女性――それも嫁がせるのだから高位貴族や、もしかしたら王族かもしれない――が、獣人族のもとへ赴いたということが事実であれば、先の見ない戦争を終わらせることもできるかもしれない。


 美しいはずの川をみつめるマクヴェスの眼差しは寂しそうに見えた。


「お母さんはずっとここで暮らしを……?」


「母が人族だということで嫌がらせや罵倒されることもあったらしく、ここに屋敷をもらい、棲すんだ。もちろん俺が生まれてからは面とむかって何かをされることはなくなったらしい」


「ロシェルは知ってる……?」


「母が人族だということは。ここのことは知らない」


 二人はそばにあった岩に腰掛けた。


「ここでどんな話をしたの?」


「人目があるとなかなかできないこと。

たとえば、帝国の言葉だな、それとか帝国がどんな場所だとか。

母はとても楽しそうに話していた。でも、決して獣人を嫌っていたわけではないんだ。

ロシェルの両親とはとても仲が良くて、子どもながら母たちとのやりとりを見ていると、種族が違うというだけで敵対するのは馬鹿らしいと思った。

言葉が通じ、似かよった価値観さえあれば、あとは歩み寄る心。一歩さえ踏みしめられれば、きっと」


「だから私を……?」


「ん?」


「私を、……好きだと言ったの?」


 自分で言っているだけで、両手で顔をあおぎたくなるほど体温が高くなってきそう。


 マクヴェスは苦笑する。


「そこまで計算高かったら、俺の人生はもっと別のものだったかもしれない。

きみを好きなのは本心だ。別に母親の面影をイングリットに求めたわけじゃない。ただ、少なくともイングリット、きみを助けたのは母のことがあったからだ」


「マクヴェスのお母さんに感謝しないと」


「サラ。――母の名前だ」


「サラ、さん。かわいらしい名前ね」


「茶目っ気のある人だった。いつまでも童女みたいなところがあって。無邪気というかなんというか。妹みたいに思えることもあった、かな?」


「ここに来るのはお母さん……サラさんを思い出すために?」


「俺たちは何かがかみ合いさえすれば、和平をとることができる――その可能性を忘れないために」


 優しいせせらぎに耳をすまし、川の流れに指を差し入れた。


 日の当たりに照らされ、そこは少し温かかった。


「――こんなことで、いいのか? 俺のことを教える、というのは」


「うん」


「案外簡単だったな。誤解がないように文字で学んだほうがいいかと思ったんだ」


「あれを全部、読んでるうちにおばあさんになっちゃいそう」


「そうだったらそれでもいい」


「なんだよ、それ。私は別に顔なんてどうだっていいっていうことかよ。もう」


 唇を尖らせて抗議をすると、マクヴェスは笑いながら首を横に振った。


「それだけの長い歳月、一緒にいられるということだろう?」


 ばっ、と思わず、イングリットは立ち上がってしまう。


 マクヴェスが不思議そうに見つめてくる。


「どうかしたか?」


「……い、いや」


(今の、恥ずかしすぎるでしょ……あれ? それとも私がただ意識し過ぎなだけ……?)


「そろそろ帰るか」


「あ、うん」


 この勝手に熱くさせられた気持ちが宙ぶらりんになって、イングリットのほうが戸惑ってしまう。


「本当に平気か? 何なら、俺と一緒に馬にのるか? それだったら少しは楽だろう」


(そんなことしちゃったら、もう私完全にゆでだこになるからっ……)


「平気、平気だからっ」


「そうか……?」


 不思議そうな顔をしながらもマクヴェスは馬を出発させる。


 馬上の人となったイングリットはもう一度、母子の秘密基地を振り返る。


(サラさん……。私は、マクヴェスのことを、好き、……だと思います)


 でもまだ心の有り様を、完全に理解できていなかった。


 それを乗り越えられれば、彼の思いに答えることができるだろう。


 イングリットは馬の横腹を優しく蹴り、ゆっくりと走り出した。

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