負けてたまるか!

多川慶直

第1話

 世の中、やれ「効率化だ」「合理化だ」「高速経営だ」その為の「デジタル化だ」etc。

 結構だよね。冗談じゃない。機械が仕事してんじゃないよ。相手は人間だ。機械がしゃべる訳じゃないよ。お願いに行くのは人間様だ。仕事はね、人柄だよ。心だよ。コンピュータが営業できるのか。この世は、 人間が住んでるんだ。


 私、後藤義治は、50歳になる世間ではよく知られた会社の社員である。 

 元々は、技術者であるが、現在は社内合理化・効率化の名の下に営業技術として客先から、注文を取ったり、新規顧客の開発にあたっている。本社の営業本部内での一グループ責任者で、課長職である。とは言っても、部下なんぞはいないに等しい。客先、件名によって構成を変えるからである。家族は、社内結婚の妻と、大学生の娘、大学受験浪人生の息子と四人である。激変する社会と会社の中で、少し、置いていかれている不安を感じている。


ご多分に漏れず我が社でもコンピュータによるデジタル化、合理化の波が押し寄せている。最初は新聞・テレビ等で目や耳にしていた程度で、どこか、フンと云うような気がしないでもなかった。しかし、実際に身の回りに起こり始めてみるとその速さと変化についていけなかった


 各自に、一台ずつパソコンが配られ、書類書き、休暇申請、張届け、出張届け、営業報告等々全てがパソコンである。アプリケーションとやらが配られ、データの持ち出しは禁止、外部のデータは化ならずセキュリティーを通せ、、、、、、、

 何度か講習を受けたが、あのキーボードが面白くない。パソコンが出来ないからって何であんな若造に馬鹿にされなきゃ行けないんだ。 馬鹿にされるのは女房だけでたくさんだ。ゲームも出来ないと息子に罵られ、スマートホンを持て余して娘に鼻の先で嗤われている。

 ましてや、男とブランド物と飲み食いの話をしに会社へ来ているだけで、給料泥棒の小娘たちに何で蔑まれなきゃいけないんだ。 お前らの給料を稼いでいるのは、俺たちだぞ。という具合に力んで出勤してみても、現実は違ってくるわけで、自分で言っている事が曳かれ者の小唄にしか思えなくなる自分もだらしがない。


 社内でFaxを全支社へ同時通報を打つ時なんぞは、

 「**ちゃん、またお願いだよね 」

 「 えぇー、 またですか。 いい加減に覚えて下さいね」

とか云われちゃっても頼むしかないんだよね。 書類の書き直しだって、俺の汚ねぇ手書きの文章をワープロで打ち直してもらわなければならない。

 「今時、ワープロもできないなんて、人間じゃないですよー」

なんて云われてもただひたすらお願いするだけ。会議室の予約もパソコンだし、

「・・さん、第五会議室、予約してくれませんかね?」

「予約は、各自が出来るようにパソコンでデジタル化してあるんですから、自分でやって下さいね。」

なんて毎度云われても頼むしかないんだ。どこか得意げに処理する彼女達の為に、 出張から帰るときはお土産を買ってくるなんぞは もう何と言っていいやら。

 おまけに、自分は出来ないくせに、

 「後藤君、 君もパソコンぐらい使えこなせよ」

などと偉そうに云うしゃくな重役達に

 「 はい。 勉強していますが・・・・」

としかいえない自分が情けない。

 その姿を、若手の男子社員は見て見ぬ振りをしていながらその肩が嗤っているのを忌々しげに見る自分が一層情けない。

 しかし、 何でキーボードが必要なんだ。 電話だって声じゃないか。 テレビだって単にカチャカチャじゃないか。 手紙だって手書きじゃないか。 等といってみたところで、現実は 携帯電話に始まり 怪獣みたいな名前の携帯データベースマシン、デジタルファクシリ、カラーコピー、ワープロから会議予約・予定表・ 所内電話帳・ 顧客台帳・売り上げ管理・ 売り掛け帳等ソフト群が搭載されたネットワークパソコンなど、 周りはぎっしり電子機器に囲まれている。

 パスワードだ、IDだとかその都度面倒である。

 カルスだかキャルスだかを動かせないと見積もりさえも出来ない。インターネットのホームページとかに我が社の広告が出ているらしい。

 「 会社を生き残らせるため、イントラネットの活用によりより活性化し、合理化と経費削減を達成しよう」

と会社始まって以来の若い抜擢社長が年初の就任挨拶で叫んでいた。そしてこうも言っていた。

 「業務の合理化を電子化により強力に実施し、肥大化人事にも手を入れ、スリム化を計る。」

 そう言えば 自分より年上の人たちが 出向にたくさん出されたとき、

「後藤君 、コンピュータのICT化に対応出来ないと同じになるよ」

といっていたっけ。でも

「機械に負けるなよ」

とも云っていたけどその姿は寂しそうだった。 何となく思い出して首筋が涼しく感じ、急に自分の近未来が不安になった。

 これじゃ意気がってキーボードを馬鹿にしていては 自分が吹き飛ばされてしまうかもしれない。 それこそ冗談じゃない。

 電子化の波は仕事のやり方さえも変えつつあり、使い方を上手くやれば年齢、性別を問わず、一定のレベルの仕事が出来るようになった。その意味では機会均等、雇用平等の時代なのかもしれない。


 「でもね、仕事は手順や道具だけじゃないよね。経験がいるよね。俺だって技術屋の端くれだ。 昔は設計部にいてT定規や、三角定規を駆使して図面を引き、 ソロバンや電卓で計算し、 会社の製品を次々と生みだし、 将来を嘱望されたものだ。CADなんか使えたって経験が無いから、ろくな製品にならないじゃないか!」


 それが機構改革だとかで、今の担当の後台営業第五部長が課長だったときに呼ばれて営業に回された。 その頃珍しかった技術営業としてそれなりにもてはやされ、成績も良かった。社長表彰を何回も受け、客先の覚えもよく、学歴偏重の大会社に奉職しながらそれなりに高い評価を得てきた自分が得意でもあった。が、 時代が変わっていくのに疎かった。

 酒だ、ゴルフだと接待費を使い、颯爽と夜の銀座、新宿、池袋と走り回るのがサラリーマンの勲章のように思えた。

 ところが、今考えると同期入社でライバルの高橋や斉藤等は、 俺の後塵を拝しながらいつの間にか時代を読み 会社に経費を負担させ、俺が夜働いている間に専門学校で勉強していたらしい。そして最新のパソコンを使いこなし、 西日本統括本社で今や女子社員の憧れおじ様らしい。

 あいつ等、仕事も満足に出来ないくせに、なに格好付けてんだ。売り上げだって、新規顧客獲得だって俺のほうが今でもずっと上じゃねぇか。冗談じゃねぇよ。とafter5の飲み屋で息巻いていたら、

 「後藤さん、確かにそうですがね。その後藤さんの書類の後始末とか、諸々のコンピューター作業をやらされているのは、僕たちですからね」

と若い者に言われてしまった。

 「西日本統括本社の方たちは、後藤さんより実際の商売では劣るかもしれませんが、コンピュータ処理を全部自分でやっていらっしやる訳ですから」

 「それなら、俺とおまえたち全部で一人前じゃねーか。全部足してどっちが会社のためなんだか、教えてもらおぉーじゃーねぇーか」

と混ぜ返したら、

 「そういう問題じゃないでしょう」

と言われ、次の言葉が出てこずに妙に納得してしまった。

 営業に行っても、その場で単価交渉、見積もり、受注残の納期工程など見せるのは、同行の若い者やらせている。

 彼らは、PADやスマホを使いこなしながら、客と会社の間でデータ通信を行う。そのためにつれて歩いているようなものだ。

 確かに、俺が、全部出来れば一番いい訳だ。そうすれば、若い者を連れて行かなくて、人件費、交通費も自分の分だけで済むわけである。いつの間にか自分の「経験」の中に「今の時代」がすっぽり抜け落ちているような気がした。


ICT機器を使いこなし、会社の合理化についていけなければ生き残れない。リストラされた先輩たちのことと自分とダブり、生々しく感じられた。酔いも飛ぶほどであった。 頑張らなければサラリーマンの収支決算があわない。突然自分の中でサラリーマン人生のバランスシートがくしゃくしゃになった。

 キーボードに触るのはいやだし、まして、マウスとかいう塊なんか使ったこともない。そうかと言ってそいつらを使わなければパソコンは動かないし、若い連中が使っているコンピュータに関する言葉なんか、ちんぷんかんぷんだわね。しかし、理解し、使いこなさなければサラリーマンの仲間に入れて貰えない。未だ、隠居なんかできないし、そんな余裕もない。

 「よし、 ここは一番頑張ってみるか。」

 さて、どうやってコンピューターや電子技術を勉強するか。社内のスクールはとっくに無くなっているし、そうかと言って、あの偉そうにしている若い奴らに相談するのも癪だしと、まだ見栄を張っている自分がかわいそうであった。

 そんな帰宅途中、電車の中から外を見ていると幾つかの駅の周辺で、コンピューター専門学校の看板の多いことに気がついた。毎日の通勤途中なのに、今まで気がつかなかったらしい。関心がなかったわけだから気がつかないわけだ。

 そこで、取り合えず会社と自宅の中間ぐらいにある大きな専門学校に行ってみることにした。


 早速、翌日、中央学院とか云うその大きなコンピュータ学校へ寄ってみた。実際行ってみると、多くの専門講座と幾つもの校舎が驚くほどあった。案内図に従って、本館に行った。そこが受け付けがあるらしい。中に入ってロビーにある案内書やポスター、就職案内等をつぶさに見て回った。この中央学院の講座はコンピュータそのものだけでは無く、建築、電気、機械、グラフイック、映像、シナリオ、アニメ、プログラマー等々現代の産業のほとんどに対応しているようであった。さらに、その勉強の中にすべてコンピュータが含まれており、専門の処理作業が全てコンピュータ処理されていることに恐れさえ感じられた。世の中の変化を見ずにいた己を恥じる思いだった。


 受け付けに行くと、相談シートとなるものに記載をさせられ

 「少々お待ちください。後ほど、カウンセラーがお呼びいたしますから」

と云われ、椅子に座って待つこととなった。今時、高校卒業していないと、専門学校には入れないらしい。

 その待ち時間の間、間周りを観察することにした。かなり広いロビーでかなりの人数が所在なげに待っているのと、そのロビーに面した細切れブースの中から何やら話が漏れてきていた。どうやら入学の相談をしているらしい。

 見たところ高校生、大学生ぐらいの学生風から、若い社会人風から、かなりの年配の人など、様々に社会に生きている人達が男女問わず見学、相談来ているようである。

 程なくカウンセラーと称する若い女性が現れ、

 「後藤さん、お待たせいたしました。こちらへどうぞ」

とパーティションで仕切ったその細切れブースの一つのテーブルへ招かれた。

 そのカウンセラー女史は、入学希望者に様々な説明を行う役目を担っているようである。

 「後藤さんは、どんなことを勉強したいのですか。その科目と勉強する動機を差し支えない程度で教えてください」

と切り出された。

 そこでここに到った顛末を簡単に話をした。

 

 デジタル化に依る、合理化が会社の柱になっていきていること。

 その電子ICT機器を使いこなせなければ業務に支障が出ていること。

 それらの機器を使いこなせない社員は40~50歳代でリストラの対象になっていること。

 等々である。

 「最近、そういう類の話ばかりですよね。ですが、後藤さんはコンピュータで何をなさりたいのですか?」

 「エー、ですからパソコンが使えるようになればと思いまして・・・」

 「ですから、そのパソコンを使って何をなさりたいのですか? 」

 要するに、具体的にパソコンを使う作業を示せ、ということのようである。

 そこで、社内で飛び交っているソフトの名称を思い出しながら、まずワープロソフトの一太郎とMSワードを使いこなすこと、作表ソフトのMSエクセル、データベースソフトのMSアクセス等が使えるようになること、インターネットが使えるようになること等を希望する旨を伝えた。その上、コンピュータの理論など技術的なことも学びたいとも言った。同時に仕事の内容も説明した。

 「分かりました。それでは入校する講座は、コンピュータの利用に関するDコースを推奨いたしますが、いかがですか?」

 「おまかせいたします」

 「それでは、費用は入学金5万円と授業料は前期分六ヶ月で30万円です。そのあとは後期の情報処理技術者受験コースとなります。一括納入で5%引きとなりますが。」

 「了解しました。受験コースまでは必要ありません。費用は明日でよろしいでしょうか?」

 「かまいません。それでは、各書類に書き込んで提出してください。教本その他は、入学式の時に全てお渡しいたします。後日、卒業証明書も退出してください。その他カリキュラムの内容は・・・・・・・」

と説明があり、一時間ほどで終了した。

 さて、これで入学手続きは済んだわけだ。何となく武者震いが出た。しかし、聞かされた話が理解できたわけではない。ほとんど全く理解できなかったのだ。ただカタカナ文字が頭の上を通り過ぎただけであった。


 家へ帰り、女房に

 「俺はコンピュータ学校に入校を申し込んできた。教材としてパソコンを買うからな 」

と高らかに宣言した。 女房は、ポカンとして、一拍おいて「 何かあったの」とさすがに心配そうな顔で訪ねた。ここのところ、家へ帰ってもなんなと無く考え事をしてゴルフの練習場にも行かない亭主を見て気にはしていたらしい。

 俺がここまでに至った社内の状況と、自分の気持ちを話した。

 すぐ理解し、

 「 私は知っていたわ 。社内の長岡ちゃんから聞いていたから。もう貴方もダメかと思っていたのよ。 貴方の担当の後台部長は主流ではありませんしね。よく決心したわね。 でも歳だし、大丈夫なの?」

と何とも不安そうな声で云った。

  女房とは、 職場結婚である。会社のことは、今でも社内に友達がいるので、 俺より詳しいところがある。 事態が、そこまで進んでることを不安げに思っているのだ。その声を振り切るように、

 「 やらなければ脱落するだけだ」

と一寸悲壮な気持ちで言った。

 その夜、 女房はまだ学校へ通っている娘と息子となにやら話して深刻な様子だった。


 女房とは、一寸したきっかけで何となく結婚することになった。職場結婚のよくあるやつで、向こうは俺が社内で結構良い線を行っていたのを見ていたのである。職場内の女性たちの独身男性に対する情報網と獲得争いはかなりものらしい。大会社では当たり前の話らしい。俺も当時は若く、仕事が出来たので社内の独身女性たちには何かと評判になっていた一人であった様である。

 スポーツもテニス、ゴルフ、野球、卓球など何でもこなした。若いときは結構格好も良かった。接待で行った飲み屋の女にも、よく口説かれる、と自負していた時期もあった。社内のスポーツクラブへ頻繁にで入りしていた頃、いわゆるグループ交際でよく飯を食ったり飲みに行ったりしていた。

 その中にいた今の女房にいわば捕まったわけである。当時の女房はそんな集まりの中でも控えめで、上品な顔立ちをしていた。何人かの男に言い寄られていたようであるが、結局俺を選んだ。ただ、その後の展開は世間相場と同じで、女房は俺がもっと出世できると思っていたらしい。子供が育つに従って愚痴が多くなり、一寸した言い争いの果てに

 「貴方がもっと出世できると思ったのに、結婚して失敗したわ」

てな事が再々出るようになってからは俺も家庭をあきらめた。

 従って、今でも子供は常に女房の味方である。学校の進学も、友達の事も、何か買うのでも、全て女房と相談である。まぁ、おれも悪くない訳じゃない。仕事々で出張の連続、ろくに家にいないで帰るときには何時も飲んでいる。おまけに社内にいる女房の友達から俺の評判やら行動を逐一聞いていることだろう。

 その社内の友達が、旧創業者一族のお局様だから、始末が悪い。それでは、自分の亭主がいやになるだろう。だがしかし、何処の亭主でも、そんなものだろう。皆、必死になって働いてともかく家族とその生活を守らなければならなかったわけだ。その働き蜂が、働く場所を追い出されそうになると、もっと状況は悪い。


 女房は実家にも相談しているらしい。実家は地方では名家で、かなりの素封家である。跡継ぎが居ないため俺の状況によっては子供をつれて田舎に戻れ、と言うことらしい。俺にとっては、もう腹の立つ話ではない。無責任のようであるが、どうでも良い話になっている。女房の好きにして良いととっくに言ってある。


 その次の日に、 パソコン教室の学費をDコース分、全額払い込んだ。 コースを終了する頃には一通りパソコンを使用出来るどころか 若干のプログラム作成くらい出来るようになるらしい。 ただし、 きちんと通って勉強すればの話である。


 前期の始まる四月の初旬、久々の学校通いである。客先で話が長引き帰社してから報告を済ませ

「飲んでいかないか?」

の誘いも振り切り電車に飛び乗った。

 着いてみると、寸でのところで初日から遅刻寸前であった。入り口に、新入生は講堂に集まるように看板が立てかけてあった。急いで講堂に向かった。入学式である。

 みんな集まっていて、緊張しているようであった。

 最初に学校の理事長・校長等の挨拶があり、形通りの入学式が終わった。その後、クラス分けが発表された。100人位いて4クラスに分けられた。 俺は、 D組であった。 そして、その講堂の出口でクラスごとに異なった教科書と教材を受け取った。

 結構、量がある。そして指定された教室へ向かった。最初の日なのでみんな静かである。驚いたことに、 18歳位から見たところ70歳程度の人まで様々の年代で構成されていたが、 さすがに若い人が多い。 女の子が案外多いのにも驚かされた。


 程無く、担任の教官と補助二人が来て挨拶を始めた。教官も補助も、まだ20~30代とおぼしき女性である。 ところが、教官は何処かで見た顔である。 なんと、 私の勤務する東京本社社長室直属のICT推進室に所属する吉田さんである。 彼女は、優秀、かつ上品で美人の誉れ高い評判の社員である。

 社内では同じフロアーにいるのと、協力会社や客先から自社のネットワークとの関係やデータベースの件で問い合わせがある度に彼女に頼みに行っているのでよく知っている。

 何時も、色々のスーツを着て颯爽と社内を歩き回りともかく格好がよい。その上、有能で社内でも客先でも評判である。

 出席を取り始め俺の名前を読み上げると顔を見てさすがに驚いたような顔をしたが、すぐ何事もないように授業を開始した。


 一日の授業時間は夕刻六時から八時までの二時間である。 その他、 月に二度土曜日、日曜日の休日に特別授業が組まれるらしい。 一時間目は理論的な話で、 二時間目が実習となり一人一台ずつパソコンを使っての授業である。 実習の時は教官が説明し、補助が回って歩き、それこそ手を取って教えてくれる。 初日から

「質問はありませんか?」

といわれても、何を質問していいか分からない。


 途中、十分間の休憩があった。俺よりかなり歳をいった紳士が隣に座り「なかなか難しいですね」と話しかけてきた。他に二~三人のサラリーマン風の中年がいるだけで、ほとんどが二十代から三十代の若い人たちである。

 「そうですね。初めてだからなんだかよく解らないですよ」

と答えると、その紳士は、

「まぁ、ゆっくりやるしかありませんね」

とその上品な顔で笑った。


 二時間はあっと云う間に過ぎた。さすがに疲れた。 ともかく言葉が分からない。オーエスから始まりアプリケーション、アイオー、JISコード、ネットワーク、ハードウエア、シーピーユー、メモリー、ハードディスク、モデム等々俺にとっては、宇宙語を聞いているようであった。真剣にマウスを握ったのも初めてだった。しかし、教科書をよく見ると、全部解説が付いている。いくつか拾い読みしてみると、教官の云っていることも、少し理解できた。


 ぐったりして喫煙室で一服した。ともかく疲れた。こんな嵐のような時間を過ごしたことがあっただろうか。頭の中でカンカン音がするようである。学生の時は、若く、体力気力があったからか疲れの度合いが違う。こんなのがともかく半年も続くのかと思うと、ともすればガクッといきそうであった。

 しかし、止めるわけには行かない。暇なときはともかく勉強だ、と自分に気合いを入れた。俺は、頑張るための証として長年親しんだ煙草を止める決心をした。今日は一服したが、煙草を吸いすぎると体が怠くなり、能率も落ちるし、何となく知識が頭にはいらないような気がした。

 今までも、何回も止めようと思ったが、止められなかった。どうやったら止められるか。方法はない。ただ吸わなければよい。これは真理である。


 気を取り直し、帰宅しようと校舎の玄関を出ると 陰から

 「後藤さん」

と女性の声がした。 振り向くと、吉田さんである。 俺のことを待っていたらしい。 聞くと、 俺と同じJR線で俺の降りるW駅の四つ手前のK市に住んでいるとのことだった。そこで、一緒に帰ることとなった。

 通勤では会ったことがない。

 「アルバイトしているの?」

と聞くと、

 「えぇ。でも会社には内緒ですから、云わないで下さいね。禁止されていますから」

と一寸はにかんだ。

 「ふーん。偉いね」

というと、

 「 好きですから、 この仕事」

彼女は、今日は紺のダブルのスーツを着ていた。

 中央学院は、駅の近所である。駅まで歩いて5分ほどで駅についた。そこでJRの電車に乗った。二人とも通勤途中であるので、定期券である。自動改札であるが、これもコンピュータだと、妙な所にも気がつくようになった。駅のホームは人であふれていた。この駅の近辺は専門学校のメッカで、同時刻に授業が終わるらしくラッシュになるようである。


 電車がきて人混みに押されながら何とか乗り込み、並んで吊革につかまりながら何となく顔を見合わせた。

 「ところで後藤さん、どうしたんですか? 後藤さんみたいに実力も実績もある人が今更?」

と怪訝な顔で問いかけてきた。 そこで俺は、 ここに至った経過と心境の変化をかい摘んで話した。 彼女は、一瞬無口になり下を向き、 次にこう云った。

 「実は、 これは内緒にしていて下さいね。 今度の社長は、 若いけどやり手で、デジタル化・電子化による合理化を会社経営の柱として、それに対処出来ない社員に対し管理職社員の指名解雇や一般社員に希望退職を勧めるか関連会社へ出すことを考えていて、古参の社員でいかに実績があっても手加減はしないと云っているんですよ。少数精鋭主義だとも言ってますよね」

といった。

 彼女の勤務する、ICT推進室は、実は社長直轄なのである。そこで彼女は、社内のICT化の計画立案と推進するチームのリーダーをやっており、コンピュータ関連では、ずば抜けて優秀らしい。何でも、社長が人事部長の時、母校の教授に頼んで研究室から引き抜いてきたらしい。そのためもあり、社長の秘書みたいなものもやっていて可愛がられている様である。

 今度は俺が、一瞬無口になった。

 「 いつから始まるのかな。?会社の大改革は」

と何となく探るように聞く自分が、一寸いやであった。

 「なんでも、創業者一族役員のうるさ方が年度内くらいで一掃できるので、その時、一気に進めたい、と云っていました。 だから、後藤さんも今頑張ればもしかしたらいい処へいけますよ。なんといっても実力あるわけですから」

となんだか見透かされたような、 励まされたような妙な気持ちになった自分が、ちょっぴり哀れに思えた。

 「 今度、パソコンを買おうと思っているんだけど、 どんなのがいいか教えてくれますか?」

話を変えると

「えぇ、よろこんで 」

といつもの明るい顔に戻り答えた。

 電車は混んでいた。彼女と肩を付けながら、顔をつけるぐらいにこそこそと話をしなければならなかった。しかし、そんなことを気にしていられないくらい深刻であった。

 途中で彼女は下車したが、挨拶も上の空だった。俺は家へ向かった。約一時間の行程を今日ほど短く感じたことはなかった。

 もっといろんな事を聞きたいと思った。自分が社内のことにいかに疎いかを認識させられた。

 いつもの通い慣れた駅から、自宅までの十五分ほども上の空であった。気がつくと自宅の玄関にいた。


 家に着くと、 女房も子供達も妙にかしこまって「お帰りなさい」といった。いつもは作ったことのない夕食を、

 「まだ食事が済んでいなければ、何かあり合わせで作りますよ」

といったが、 食欲が無く疲れたことを告げるとビールをおいて、

 「後はお風呂でも入ってゆっくりしてくださいね。私は寝ますから 」

といって二階へ上がっていった。女房の情報収集マシンは、俺よりもっと詳しく社内の情報を入手したようである。

 風呂へ入り着替えた後、テーブルに向かい、ビールをグラスに注いだ。 いつもとは違い家の中も静かであった。煙草を探す手つきの自分が情けなかった。家の中にあった煙草と持っていた煙草は全部捨てた。


 ビールの泡を見ながら今日までのことを考えた。地方都市の斜陽産業につとめる貧乏サラリーマン家庭で、三人兄弟の真ん中で生まれたこと。アルバイトをしながら工業高校を出て、バブル成長期の波に乗り、運良く有名な会社に入社できたこと。働きながら大学の二部を卒業し、 必死になって働いてきたこと。社内で社長表彰されたこと。すぐ数え終わるくらいの恋愛のまねごとや、結婚して子供が出来たときのこと。少しローンは残ってはいるが、一戸建ての家を郊外に持てたこと。同期や前後の社員より少しは出世をした事でいい気持ちだったこと 等々。

 しかし、今度の社長が俺より年若く、いわゆる一流大学を出ていること。バックに、親父が頭取をしていた銀行や財界の知故を得ていることに考えがいきつくと、自分の近い未来が、 まだ子供も自立できていない自分が、風に吹き消されそうなローソクに思えて愕然とした。が次の瞬間、負けてたまるかと思った。

 「キーボードが怖くてサラリーマンやっていられるか」

 猛然とコンピュータの勉強にたいして意欲が湧いてきた。 仕事をそこそこにして、 ともかく勉強してやる。吉田さんにもよく教えて貰って、むしろ、エキスパートになってやる。

  一瞬、吉田さんの、その聡明できれいな顔が浮かび、混んだ車内で体をつけてしゃべっていたときの彼女の香りが過ぎった。が、それを振り払うように、ビールを一気に飲み干した。

 一日も休まず通ってやる。そして、 新たな技術を身につけ、 会社に残ってやる。 いや、残れなかったとしても俺が去った後、俺という人材を失ったことを後悔させるぐらい頑張ってやる。仕事がなくなることは、サラリーマンとして死を意味している。死んでたまるか。

 忘れていた泥臭い青春の風を久しぶりに嗅いだような気がして残ったビールをラッパ飲みにした。


 翌日から専門学校通いである。会社の同僚には、コンピュータを習い始めたことなど話していない。まして、会社にも通知していない。本来、入学証明書と費用の領収書を出せば、会社からはかかった費用の半額を援助してもらえるはずである。しかし、今までの経緯からして、申し出たくはない。こんなところにもまた見栄が出てくる。


 それはともかくとして、今までの仕事で使用している鞄では少し小さいので、大きめの新しい鞄を買った。古い鞄は総革製で片手で持てるなかなか立派なものであった。二十年も経ったので色が変わり、型くずれしているが、まだまだ使えるものである。だが、教科書や参考書を入れるにはあまりにも小さすぎる。大きさは、B5版程度で伝票など書類入れとして愛用していたものである。この際と思って買い換えた。

 この鞄選びも、結構楽しいものであった。仕事で出て歩いていてもこんな鞄なんか売っている店に関心が無く、知っているのは飲食店だけであった。長いことこんなもの売る店に目がいくことは無かったから使用材料とデザインの豊富さに圧倒された。


 今度は前のと異なり、合成皮革の黒いやつにした。何故この鞄にしたかというと、まず、大きさが適当である。取っ手が付いている。ショルダーベルトが付いていて、そのベルトを調整すると背中に背負えるようにもなるのである。実は、結構教科書が重たいのである。客先からの帰り道に鞄を買った。会社へ着くと目ざとい若い女性社員が

 「後藤さん、何かお土産ですか?」

と何時もの様に寄ってきた。こういう時だけ声を掛けてくるのである。おしゃべり女めと思いながら、前の鞄が古くなったので買い換えたというと、つまらなさそうな顔をして去っていった。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る