わたしは九九が覚えられない

 わたしは発達障害(ADHD)ではないかという疑いを、自身だけでなく係わった周囲の多くの他人からも指摘される人間です。


 興味のある事は10時間でも連続的に集中して行えますが、興味の持てない事は10分でも持続させる事が出来ません。仮に強制的にその事柄に向かわせても無駄で、絶対に記憶しません。脳みそが「不要」と判断している限り、記憶しないのです。


 九九は、小学生の頃から苦手でした。毎晩、お風呂に入って湯船に浸かった時に暗誦したし、授業でも担任の先生は熱心に毎回一度は生徒全員で大合唱をさせました。


 それでも覚えなかったのです。覚えられたのは日常的に使える、2・3・5の段だけです。他は不要と断じていたので、絶対に覚えられませんでした。もちろん未だに諳んじることは出来ません。


 親や教師がいくら、「これは必要なものだ、」と理屈を説いて教えても、わたしのこの思考を覆すことは出来ませんでした。親達のいうその理屈が覆せることをわたしは喝破していたからです。屁理屈と取られそうだったので、言いませんでしたが。


 シャーロックホームズはきっとADHDです。彼がワトソンに述べた、「太陽が東から昇ることなど覚えておいて、何かわたしの仕事に役立つのかい?」という理屈、これをまさしく正論だと思う者は、ADHDであるか良き理解者でしょう。


 九九を覚えるなど、わたしにとってはナンセンスです。そんなもの、日常で役立つ機会などたかが知れている。電卓機能の付いていないケータイなど最近は見当たらないし、ケータイを持ち歩かない人も少ない。第一、日常ならドンブリ勘定で済ませた方がよほど効率的です。どこで、九九を使用するのか? 6の段やら7の段を。それが必要だという限られた職業に従事する者だけが覚えていればいいだけの知識で、そうでない者は必要に応じて調べれば事足りる程度の、さほど重要でない知識だ、と。


 この理屈を覆されない限り、わたしは九九を暗記出来ないということなのです。皆が当たり前に諳んじられる? 出来なければ恥です。確かに。けれど、感情的優位などというものにそもそも価値を覚えないのです。


 なので、一時的には恥ずかしいと感じても、それが行動の起爆剤に繋がる事はないのです。皆が出来るのに自分が出来ないのは恥ずかしいから出来るようにならねば、とは感じていない。その系統は全滅です。化粧だとか流行だとか、右に倣えな思考は沸いて来もしません。


 例え爆発的ヒットを飛ばした映画で、観てないとちょっと恥ずかしいというモノがあったとしても、自身が興味を覚えねば観たいと思うことはないし、観に行かないでしょう。たとえそれで爪弾きにされたとしても。感情的優位に興味が無いということは、他人に大して学術的興味以外を持っていないという事なのです。


 多くの人は、他人と比較して行動を決めているものだと感じますが、中にはわたしのように他人は本当に無関係だという人々も居るわけです。そういう人は、社会生活が極端に苦手なのです。わたしは社会の落伍者です。


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