兄の部屋から

伊達隼雄

兄の部屋から

 兄を持つ身なら、分かってくれる奴も多いだろう。いつからか、兄を兄ではなく、名前で呼ぶようになった。我が家の場合、弟である俺の方が身長を抜いちゃったこともあり、たまに俺が兄だと思われることもあった。

 それでもやっぱり、兄弟関係は変わらない。少なくとも、弘人が高校を出るまでは、俺たちの関係はずっとこのままだと思っていた。


 弘人が用事から戻ってくるまでに、少しはあいつの部屋を綺麗にしてやろうと思ったのは、我ながら殊勝だと褒めてやりたい。これからここは、主をなくし、きっと、俺や父さん、母さんの物置になっていくのだろう。それまで積み重ねられた時間はそんな、どうでもいい荷物に埋もれてしまう。

 ふと、俺は弘人が初めて真美さんを連れてきた時のことを思い出した。

 弘人は見た目もいいし、性格に至っては文句をつけようものならバチがあたるレベルだ。どうしようもない女に付きまとわれる心配はあったけど、俺はなぜか、弘人はいつかいい人を見つけ、いい人と一緒になると予感していた。神様に平等を求めたのかもしれない。こんなにいい男なんだから、ちょっとは褒美をくれてやれ、と。


 控えめな人だと思った。事実、そうだった。どこか似た者同士に思え、これからの心配が二倍になる気がした。

 気のせいだった。二人は本当に、よく合っていた。

 いずれ、真美さんが義姉になると思った。弘人は本気に思えた。

 だから、改まった格好で、結婚について両親に話す弘人の姿は、俺にとっては意外でもなんでもなかった。


 報告が終わり、真美さんと一緒に家を出る弘人の背中を見た時、なんだか俺は、そのまま弘人が帰ってこないんじゃないかと思ってしまった。そんなことはありえない。まだ、ありえないというのに。

 真美さんの可愛らしい手を引く弘人。

 子供の頃は、俺が手を引かれていた。

 弘人は変わらない優しさでそこにいる。


 俺はどうだろう? 何か変わったか? 何も変わらないか?


 これから、俺たちはただ兄弟であった頃から変わってしまう。一緒に住むのも、すぐに終わってしまう。弘人は新たに家族を得て、そこで新たな関係を紡いでいくのだろう。

 俺と弘人が兄弟であることは変わらない。それでも、変わってしまうものがあるんだ。生きている限り、何かをしようと思う限り、それは止められない。

 寂しい気持ちは、俺にとっては当たり前だ。

 もう、ただの弟ではいられない。これからは真美さんの弟でもあるんだ。旦那の弟という立場には、相応しい意識が求められるだろう。弘人に心配をかけたくないし、真美さんを困らせたくもない。俺はその立場を精一杯全うするつもりだ。


 荷物を運び出すうちに、この部屋には俺の思い出も多いことに気づく。その思い出にはすべて、弘人が絡んでいた。

 いなくなるんだなぁ……。



 * * *



「片付け、やってくれてたんだ」

「旅立つ兄へ、弟からのせめてもの贈り物だ」

「他に何かくれよ」


 笑いながら、弘人は俺から段ボール箱を受け取った。その重さに一瞬よろける。どうだ、筋力は俺の方が上だぜ?


「家に残しとくものとかないの? ゲーム持ってかないだろ? 真美さん持ってるし」

「ああ、そうだな……欲しいならやるよ」

「マジで? 太っ腹だな」

「旅立つ兄から、弟へのせめてもの贈り物」

「なんなら金目のものは全部置いてってくれよ」

「無駄遣いしちゃうだろ」


 他愛ない話を繰り返しながら、弘人の部屋の片づけは進む。子供の頃からずっと弘人を育てていた部屋は、成長したその子と弟によって、役目を閉じようとしていた。


「部屋って切ないよな。家が残っても、そこを使う奴がいないと死んでるみたいに静かでさ」

「お前がこの家に残るなら、いずれ使う時もくるさ」

「嫁さんにやるかぁ」

「子供が生まれた時に、子供部屋にしてやってもいい。俺は有効活用してくれれば、それでいいよ」


 がらんとしていく部屋に立つと、葬式の時みたいな虚無感が到来する。


「弘人、怖くねーの?」

「怖いって?」

「これから、新しい人生始めることとか。俺は、ちょっと寂しいぞ。俺は変わってないのに、弘人は大胆に変わろうってんだから。このままだったらどうしようって、怖い」


 弘人はちょっと考えて、


「このままじゃないよ。お前だって新しい人生だ。俺が近くにいない人生。人が変われば、自分にも必ず変化がくるものだよ。変わるもいいし、変わらないのもいい。ただ、実感するだけでもいいんだ。そうやって人は人と繋がっているって。寂しくないだろ? 怖くもない。どっちにしたって、また日が昇れば変わった明日が来るんだから。新しく繋がれる明日だよ。面白いと思う」


 温かな風のように、口笛を吹くように軽快に、弘人は喋る。

 だからだろうか。すっと沁みて、すぐ消えていく。



 * * *



 弘人が我が家からいなくなって三ヶ月。

 俺は、自室に置き切れなくなったCDの山を一部、弘人がいた部屋に移すことにした。


「邪魔するよ」


 端っこに雑に置いて、俺は窓から外を見た。

 そこから見える景色も、昔とは少し違う。

 明日も違うだろうか。


 弘人がいない寂しさは、消えたかどうか分からない。

 最近は、考え方も変わった。

 俺が変わらなかったり、変わったりで、俺は誰かに何かを与えているのだろうか。あるいは、俺が――


 悩みではなかった。

 ただ、ちょっと、風を吹いてみたくなるような、午後の一時。

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兄の部屋から 伊達隼雄 @hayao_ito

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