26.トレイン・マン
「あなたの写真はどれ? どうせまた電車なんでしょ」
板張りの廊下にコツコツとヒールの音を響かせながら妻が笑う。
私たちがこの小さな美術館に来たわけは、私の撮った写真が地元新聞社の主催する写真展で入賞し展示されることになったから。
妻も写真を趣味としていて電車を撮ることもあるのだが、私みたいに電車を主役にするのではなく、主役はあくまで空や山や田園風景。
電車はたまたまそこを通過する通行人Aか、皿の端に気持ち程度に添えられた刺身のツマのような存在で、要するに主役ではない。でもまあ仕方ない。人の好みは人それぞれなのだから。
「うるさいなあ、好きなんだから、仕方ないだろ」
そう言いながら、私は昔の事を思い出していた。
あれは私がまだ独身で、アパートで一人暮らししていた時のことだ。
夜勤明けでフラフラしながら帰宅していると、アパートの真正面にあるごみ捨て場の前に、一人の少年が泣きはらした顔で小さな鉄道模型を手に立ち尽くしていた。
「どうしたんだ? こんなところで」
私が尋ねても、少年は返事をしない。
「それキハ58系だろ?」
私がクリーム色に赤いラインの入った鉄道模型を指さすと、少年は黙って頷いた。
「僕の宝物なんだ。でも、お母さんが捨ててきなさいって」
悲しそうに言う少年。私は目を見開いた。
「なんでお母さんはそんなこと言うんだい?」
「電車ばっかり見てるとオタクになるんだって。オタクは暗くてクラスでも馬鹿にされていじめられるからダメだって」
少年は涙ぐむ。
「山手線の駅名を全部言えるような子供は生意気で可愛くないんだって。そういうことをしている暇があったら勉強しろって」
私は声を張り上げた。
「お母さんはそんなこと言うのか? そんなの気にしなくていい。夢中になれるものがあるってのは素敵なことだよ」
「でも、お母さんはこれを捨てないと家に入れないって」
「じゃあこうしよう。そのプラモデルはおじさんが預かる。いつか必要になった時に取りに来るといい。それでいいだろ?」
少年は泣きながら頷いた。
「うん、そうする」
「いいかい? 好きなものや夢中になれる物があるってのは素敵なことなんだ。それを簡単に捨てちゃいけない。鉄道模型はおじさんが預かるけど、心の中の鉄道模型は捨てちゃいけないよ。君の大切なものは、つらいときに君の支えになってくれる。」
私もまた、幼いころに自分の大切なものを捨てられ続けてきた。大事にしていたセミの抜け殻、アニメのシール、切手の収集、そして鉄道模型。
私は親の言うがままにそれらを捨て、勉強し、進学し、就職した。だけれども、僕の心は空っぽだった。本当に大事なものは捨てられたものの中にあったのだと気づいたのは最近のことだ。
「分かったよ。ありがとう、おじさん」
少年は笑った。
あれから十年以上が過ぎた。結局、あの時の少年は鉄道模型を受け取りに来なかった。きっともう忘れてしまったに違いない。あるいは鉄道への思いが、年とともに薄れてしまったのかもしれない。
そんな時だった。あの写真を撮ったのは。
私と妻は一枚の写真パネルの前に立った。私の撮った入賞写真だ。
「あら、あなたが電車以外を撮るなんて珍しいのね」
妻が目を丸くして言う。そこに写っていたのは、真新しい制服に身を包んだ若い車掌。
目をキラキラと輝かせたその表情は、あの日見たあの少年の横顔によく似ていた。
もしかして、他人の空似かもしれない。別の電車少年かもしれない。それでも、たぶん、きっと――私はそうであると祈らずにはいられない。彼の大切なものが磨かれ、成長して、花開いたのだと。
「彼は電車だよ」
私は写真を見上げた。
「自分の好きな場所に、どこへだって走って行ける電車なのさ」
きっと彼はどこまでも走っていく。青空の下、菜の花の咲きわたる野を超え、美しい新緑をたたえた山を越え、煌めく摩天楼を越え、太陽の沈むオレンジ色の海を越え、どこまでも走っていく電車なのだ。
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