27.乙姫の玉手箱
清らかな朝日に目を細め、老人は海を見つめていた。
傍らには錆びついた古い釣り道具。白く染まった髪を潮風になびかせ、よく焼けた肌を日光にさらし、微動だにせず岸壁に佇むその様は、まるで彫刻のよう。私は思わず足を止め、老人に声をかけた。
「釣れますか?」
老人は静かな波間を見つめたまま首を横に振る。
「釣りに来ているのではない」
「ではなぜここに? 散歩ですか?」
「いや。僕はね、竜宮城からの使いを待っているんだよ」
老人は自らを「浦島太郎」だと名乗った。
この時、どうして老人のこの荒唐無稽な話を素直に受け入れられたのか、未だに分からない。おそらく、疲れていたんだと思う。
「見ない顔だな。最近ここに越してきたのか」
「はい。生まれはこの村なんですが、東京の大学に進学してそのまま就職、結婚として。今は離婚してまたこの村に戻ってきたんです。この辺りも、だいぶ変わりましたね」
そう、私は疲れていた。離婚に伴う色々なことに、完全に参っていたのだ。
「浦島太郎の顛末は知っているね? 乙姫様にもらった玉手箱を、開けてはいけないと言われたのに開けてしまった。それでこのざまさ」
老人は遠い目をする。
「どうして乙姫は僕に玉手箱なんて渡したのだろう」
「さあ……。もしかすると、試していたのかもしれませんね。約束を守るかどうかを」
「かもしれない」
私は唐突に思い出す。見てはいけないと言われた夫のスマホをついのぞき見てしまったときのことを。私もまた、開けてはいけない箱を開けてしまったのだ。
「もう一度、私を迎えに来てはくれないものか」
老人は小さなため息をつく。
聞けば、老人は再び竜宮城へ行けるよう、海のゴミ拾いをしたり、浜に打ち上げられた魚やイルカを助けたこともあるのだが、一向に迎えは来ないのだという。
「きっと迎えを待っているだけじゃ駄目なんですよ。自分から会いに行かないと」
私は何の気なしにそんな風に答えた。老人の灰色の目がじっと見つめる。
「そうかもしれん」
それから数日後、海で水死体が見つかった。あの老人だ。
「ほら、あの自分を浦島太郎だとか言ってたへんな爺さん」
古びたアパートの前で近所の人たちが噂する。
「乙姫様を追って、竜宮城にでも行こうと思ったのかねえ」
背筋がぞっとした。もしかすると、老人の死は自分のせいじゃないか、そう思うと気が気ではなかった。
その晩、私は夢を見た。
紺碧の海の中、ゆらゆらと林のように揺れる昆布。桜色に輝く珊瑚。鮮やかな魚たちの舞い踊る中たどり着いたのは、朱色の大きな柱と白亜の壁の竜宮城。
そこには一人の若者がいる。姿こそ若いが、すぐに分かった。あの老人だ。そしてその横には、美しい黒髪の女性がいる。乙姫様だ。二人は無事、再開したのだ。
老いも苦しみもない竜宮城。美しく、鯛やヒラメが舞い踊る。私は老人とともに、おいしい料理と酒、美しい景色の歓迎を受けた。
私は乙姫様に言った。
「乙姫様、私もここに住まわせてくれませんか? 下女でも何でもします」
乙姫様は首を横に振った。
「それはできない。あなたには大切なものがあるでしょう?」
落胆している私に、乙姫様は手のひらサイズの小さな玉手箱をくれた。
「もしも、どうしても必要なときはこの箱を開けて。迎えに来るわ」
私が玉手箱に手を伸ばすと、どこかで赤ん坊の泣き声がした。
私は布団の上で目を覚ました。隣で赤ん坊が泣いている。離婚した旦那との子供だ。どうやら変な夢を見ていたようだ。
しかし子供のおむつを替え、辺りを見回すと、古びた畳の床に小さな玉手箱が置いてあった。夢じゃなかった?
私は玉手箱に手を伸ばしかけた。――が、それを開けるのはやめ、押し入れの奥深くにしまいこんだ。
それから十年が過ぎた。そういえばあの玉手箱はどうなっただろうと思い押し入れを探したが、影も形もない。
老人と出会ったあの日、私は身も心も疲れ切っていた。このまま海に落ちて死んでしまえば楽になれると考えるほどには。
だからあれはもしかすると、疲れていた私の心が見せた幻覚だったのかもしれない。だけれども私はこう考える。
あの玉手箱は、ひょっとしたら乙姫様がもういらないと判断して回収したのかもしれない。元気に外を走り回る娘を見ながら私はその生のまぶしさに目を細めた。
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