MILK

マサキチ

序章 憶昔の夏

第1話

「ただいま」

 投げかけた言葉に、母親の由紀子は台所で包丁を使ったまま、振り向きもせずにお帰りと答える。

「夏ももう終わりなのに、まだまだ暑いよなぁ」

 冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、ざわつく気持ちを押さえつけ、殊更さりげなく尋ねた。

「お袋、なんか仕事で嫌なことでもあった?」

 敢えて口にしてはみたが、的外れなことはわかっていた。

 週に二、三日パートに出ている母は、元来の明るい性格のおかげで上司や同僚にも恵まれ、未だかつて仕事に関する愚痴など聞かされたことはない。

「別に。なんにもないわよ」

「…ふうん」

 応じたものの、彼女が一心不乱に台所に立ち、料理以外に目を向けようとしないのは、決まって何か悩みがあるときだと彼は知っていた。

 冷たい麦茶を入れたグラスに水滴が生じ、雫がぽたりぽたりと床に落ちてゆく。

 普段なら黙っていたところで気にすることもない。だが、沈黙がいたたまれないとでも言うように、母はかすかにため息をこぼした。

「仕事はなんにも問題ないんだけどね…でもねぇ」

 そう呟いて、まな板の上の材料を鍋に放り込んで火をかける。

 そして、何かの儀式でもあるように包丁を丁寧に洗うと、乾いたタオルで拭き上げ、シンク下のポケットに差し込んだ。

「お父さん、会社を畳むことになるかもしれないんだってさ」

 ゆっくりと振り向いたその顔は、いつもと同じ笑みを浮かべていた。

 …やっぱり。

 極力自分に聞かれないよう、二人が努力していたのは知っていた。

 だが、狭い家である。旧年来の友人と共に経営していた会社で、友人の使いこみが発覚し、借金を押し付けて出奔してしまったという父と母のやり取りなど、断片的にでも耳に入らないわけがない。

 かもしれない、なんて言葉でごまかしてはいるが、相当に旗色はたいろが悪い状況なのだというのは、その顔を見れば訊くまでもなかった。

 けれど彼は、何も知らなかったように問いかける。

「どうしてそんなことになってるんだよ。順風満帆ってほどじゃないけど親父の会社、そこそこの経営だったはずだよな」

「お金が遣い込まれていたことに、最近気づいたみたい。一緒に代表をやってた義郎よしろうさん、逃げちゃったんだって」

「ヨシおじさんが…」

 ヨシおじさんこと高村義郎は、父の彰が小学生に上がる前からの幼なじみだった。それこそ彼が生まれるずっと前からの、互いの家族ぐるみの付き合いである。

 そんな義郎とも、数年前に向こうが妻子と離婚した辺りから、交流はほとんどなくなっていた。

「親父、なんて言ってた?」

「さっき電話をもらっただけで何も。色々なところに頭を下げに行くから、しばらくうちには戻れなさそうだって」

「辛いだろうな…」

「あたしもそれを心配してる。倒れなければいいんだけどね」

 母は体を壊さないか気にかけているようだが…彼の呟きは、今回のことで彰が半世紀近くを共にした存在を失くしてしまったことを思っての言葉だった。

「辛いだろうな…」

 共に重ねてきた時を一方的に切り捨てられてしまうというのは、どんな気持ちだろうか。

 そのことを思うと、今この時間も会社や従業員のために走り回っているだろう、父の姿を想像するよりも切なかった。

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