暗い森にひとり

「幻想と現実の…はざま?」

 その言葉の意味をすぐ解釈しようにも無理があった。末永の言葉を、痴呆の進行が進んだ老婆の戯言だと解釈して聞き流すべきか、それとも信じて真面目に聞くべきか。しかし先ほどまで末永が持っていた<キヅキの木槌>が突然消えた。それを見てしまった時点で、信じるしか選択の道がない。さきほどの喜与味の原稿に書かれたことも、末永のこれから言おうとしていることも。知らず知らずのうちに僕は、入り込んでしまっていたのだ。アカネや喜与味に導かれ、<キヅキの森>という未知の領域に。

「さっきあなたが持っていた木槌は、空想のものなのですか?」

 そう末永に尋ねると、末永は首を横に振った。

「言っただろう。ここは幻想と現実の狭間だと。<キヅキの木槌>は幻想のものでもあり現実のものでもあるのだ。本来、何かを破壊したいという人の気持ちは存在するが、人の目に見えない。人が作った物語は幻想もしくは空想のものであり現実ではないが、それを考える人間の思考は存在する。ここは存在しないものと存在するもの、もとい目に見えるものと見えないものの狭間、境界線なのだ。今まで存在はしていたものの、見えなかったものが、何かのきっかけで見えるようになる。それが<気付き>だ。この森には、あらゆる<気付き>が潜んでいる」

 目に見えるものと見えないものの境界線。そう言われると少しは理解できそうだ。人と人とが隣り合っているとき、その間には本来、物理的には<壁>など存在しない。しかし心理的には存在する。物理的な壁は目に見えても、心理的な壁は目に見えない。末永が言う幻想と現実の狭間、目に見えるものと見えない物の狭間とは、おそらくそういうことなのだろう。

「わしはお前の持っていた機械を、<キヅキの木槌>で壊した。物理的に壊した。しかし、わしが壊したかったのは、機械だけではない。お前のその機械に対する、<執着心>を壊したかったのさ。<依存心>と言ってもいいだろう」

 たしかに、末永にスマートフォンを破壊されてしばらくすると、スマートフォンなどどうでもよくなった。これが、破壊されずに末永に奪われたままだったとすれば、取り返そうと必死だったかもしれない。きっと僕の心の中で、諦めがついたのだ。スマートフォンが破壊されたことで。

「少年、お前はいま、この<キヅキの森>に閉じ込められた。帰ろうとしても帰れないだろう?この森はお前のような、自分を偽って生きているような奴を閉じ込めたがる。この森を抜け出したければ、自分の中に隠している本来の自分をさらけだすしかない」

「本来の自分?何を言っているのかわかりませんよ。だいいち昨日はちゃんと帰れましたよ」

「それは一人ではなかったからだ。お前一人で帰ろうとしていたら、おそらく今のように森を抜け出せず、さまよっていただろうな。さて、わしからの説明は以上だ。今のお前は<偽りの自分>を表に出している。この森から抜け出したければ、<偽りの自分>を捨てて、<本当の自分>と向き合え」

 そう言うと、末永は去っていった。まだ末永に聞きたいことは山ほど残っている。しかし追いかけようとしたが、既に末永の姿は無かった。ほんの一瞬、まばたきをしたあと、忽然と姿を消した。まるでいままで、幽霊とでも話していたような感覚。いや、本当に幽霊だったのかもしれない。ここは幻想と現実の狭間。末永の存在そのものが幻想だったのかもしれない。

 暗い森にひとり取り残されている。こんなことならブックカフェを一人で出たりしないで、喜与味やアカネと一緒に帰ればよかった。森を抜け出す道は勿論のこと、どこをどう行けばブックカフェに戻れるかもわからない。喜与味とアカネは、僕を探してくれるだろうか。僕の両親は、息子の帰りが遅いのを心配するだろうか。この森から抜け出せず、僕はこのまま飢え死に、骨になるのだろうか。そんなことを考えながら、僕は暗い森を歩いた。ひとり、歩いた。

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