キヅキの森

 僕は怒れない人間だ。いままで僕は、人前であまり感情的になったことはない。何事にも無関心。ひとは自分が興味のある人間、もしくは物事には感情的になれる。怒ったり悲しんだり喜んだり。それが僕には無い。何事にも興味を持てない僕には感情的になることなどできないだろう。

 いま目の前で、自分のスマートフォンを末永に壊された。いま自分にとって一番大事なものであるかもしれないスマートフォンが、瞬く間に粉々になった。しかし僕は、感情的になれないでいた。普通なら怒るだろう。「なにするんだ!」の一言くらいはぶつけてもいいはずだ。しかし僕はそれをしなかった。僕の怒りは、巨大なハンマーを持った末永に対する恐怖心によって覆われてしまっていたのだ。威圧されたのだ。

「どうした小僧?なにか言ったらどうだ?わしはおぬしの大事にしている機械を壊したんだぞ?わしに対して何のことばも無しか?え?」

 末永は、僕が感情的になるのを期待しているのだろう。しかし今の末永の言葉で、僕はますます何も言いたくなくなった。というより、言葉が見つからなかった。

「なるほど。おぬし、相当な臆病者だな。こんな老婆を相手に、一言も怒ることができないのか?それとも、わしが壊したこの機械はそれほど大事なものでもなかったのか?」

 そんなことはない。しかしそれ以上に、僕が知りたいことが目の前にあった。臆病者と言われると、そうなのかもしれない。僕は恐れていただけなのかもしれない。いや、格好つけていただけなのかもしれない。本当は関心があるのに、格好つけて関心がないふりをしていただけなのかもしれない。今まで、まわりの人間に対しても、目の前の物事に対しても。

「それとも、今わしが持っているこの木槌が何なのか、気になるのか?」

 末永が発したその一言に、僕は思わずうなずいてしまった。

 今、末永が持っている、僕のスマートフォンを壊した木槌。おそらくそれが、さっき読んだ喜与味の原稿に出てきた<キヅキの木槌>なのだろう。以前、学校の校門に立っていた黒服の男が持っていたのと似ている。さっきまで末永は、その木槌を手に持っている様子は無かった。僕のスマートフォンを壊そうとするときに突然、その木槌は現れた。常識を超えたものが、僕の目の前にある。

「この木槌は<キヅキの木槌>。己の中に眠る破壊衝動を具現化した木槌だ。この<キヅキの森>で得た力だ」

 いつのまにか、末永が持っていた<キヅキの木槌>は消えていた。そして末永はさらに話を続けた。

「自己紹介がまだだったな。わしの名は末永弱音。そして理解しがたいと思うが、この森は幻想と現実の狭間。この森で起こったことは幻想であり現実でもある」

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