歩いて帰ろう

 攻めるようなことはしない。ただ守るだけだ。平穏な日々を送れればそれでいい。僕には何の変化も必要ない。目立つようなことはしない。そう決めていた。

「快くん」

 放課後、僕が帰ろうと学校の玄関を出ようとした時だ。誰かが背後から僕の名前を呼んだ。振り返ると、そこには氷川喜与味が立っていた。上にある蛍光灯の光で、彼女の頭は光り輝いていた。昨日の黒沢アカネといい、いったい僕に何の用なのだろう。できれば彼女とはあまり、関わりたくない。目立ちたくないからだ。

「先生が言ってたよ。二人以上で帰るようにって」

 おそらく、さきほど職員室で担任にそう言われたのだろう。

「別にいいだろう。家までそれほど距離も無いし」

「だめ。不審者がうろついてるかもしれないでしょう?一緒に帰る友達がいないなら、あたしが一緒に帰ってあげるよ」

 僕が知っている氷川喜与味は、こんなことを言うタイプではなかった。控えめで口数が少なく、こんな積極的に男子に話しかけるようなことは有り得なかった。やはり彼女の身に何かが起こり、それが彼女を変えたのだろう。

「一緒に帰るって、氷川さんバス通学だよね?」

 僕は氷川喜与味に話しかけたことが無かった。なので彼女のことをどう呼べばいいのかわからず、とりあえず『氷川さん』と呼んでみた。すると彼女は、まるで渋柿でも食べたように眉間にシワを寄せた。

「余所余所しい呼び方しないでよ。喜与味でいい。あたし、あまり苗字で呼ばれるの好きじゃないの。重要なのは苗字ではなく、下の名前のほう。苗字なんて、嫁入りすればどうせ変わっちゃうんだから」

 なるほど、と僕は思った。しかし初めて話すのにいきなり呼び捨てもどうかと思うので、とりあえず敬称をつけることにした。

「喜与味さんってバス通学だよね。なんでバス乗らなかったの?」

 僕が『喜与味さん』と呼んだのがまたしても不快だったのか、またしても彼女は眉間にしわをよせた。しかし妥協したのか、元の平然とした顔にもどった。学校前で停まる路線バスが出発してから、既に十分ほど経っていた。

「バスに頼るのはもうやめたの。自分の足で歩きたいの。今朝もバスに乗らないで、歩いて来たんだ。学校に着いたらちょっと感動しちゃった。誰の力でもない、自分の力で歩いてこれたことに。学校へ来るのに、私にはバスなんて必要なかったんだわ」

 つくづく思う。彼女の身にいったい何が起こったのだろう。自分の部屋を荒らしたり、頭を丸めたり、十キロ以上はあるかもしれない距離を歩いて登校したり。しかし不思議と、彼女のそれらの行動に僕は、爽快感のようなものを感じた。

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