第21話:少年は■■■へ手を差し伸べる



 なにも見えない。なにも聞こえない。なにも感じない。

 苦しみもない。悲しみもない。絶望もない。

 怒りと憎しみの渦に溶けた意識は、とても穏やかな気分だった。

 己の名も忘れ、ただただ怒りを燃やす炎と化した魂たちの坩堝。

 フレイだったモノは今や、巨大な負の集合意識を構成する思念の一つでしかない。

 なにに対してこんなにも憤っているのか。

 その理由を考えることさえやめ、ただひたすらに怒りを叫び続ける。




「【――――】」




 ふと。

 怨嗟とは別のなにかが、赫炎だけの世界に響く。

 大海に一滴の水を落としたかのような、あまりに小さな波紋。

 しかしその弱々しい音色は、驚くほどの強さでフレイだったモノの心を震わす。


 ………知っている。

 自分は、私は、俺は、この音色を知っている。覚えている?


【憎い】【憎い】【殺してやる】【壊してやる】【それでいい】【それだけでいい】


 音色をかき消そうとするように、呪詛の叫びが嵐となって吹き荒んだ。

 それでも音色が途切れることはない。

 いくつもの波紋が響き、いつしかフレイという名の意識がハッキリと鼓動を打ち始める。




「【――――】」




 そうだ。これは、じいちゃんから教わった草笛のメロディだ。

 吹けるようになるまで何日も、一日中だって練習した思い出の音色。

 でも、少しだけ違う。この音色は、草笛を鳴らしたものではない。

 これは、歌声?




「【――――】」




 知っている。この声を知っている。


 出会ってまだ一ヶ月足らず。きっと知っていることより知らないことの方が多い。

 美人だけど意地の悪い性格で、頭はいいけど得意分野は悪知恵。

 あざとい態度で自分を振り回したかと思えば、素でも可愛いところを見せてきて。

 その身を異形に変える一族の中でも、一際異彩で異端のキマイラで。


 そして……こんな人でなしと一緒に生きたいと言ってくれた、愚かで愛しい大切な人。


(ミク、ス)


 ミクス。ミクス。ミクス。

 反芻するように繰り返し、三文字の名前を何度も呟く。

 呼んでいる。ミクスが俺を呼んでいる。

 しかし、なぜだろう。

 この弱々しい声はまるで、今にも消えてしまいそうな――


(ッ!)


 フレイは思い出す。

 自分が何者なのか。なにをしてきたのか。なにが起こったのか。

 燃え落ちる街。部族の皆の死体。嘲笑う勇者の仲間。

 一度は赫炎にくべて灰にした記憶が、鮮やかに蘇る。


(ふっ、ぐ……!)


 同時に蘇った喪失感がフレイを苛むが、構ってはいられない。

 現実世界に戻らなくては!

 赫炎の外側へと手を伸ばす。

 炎の一部となっていたフレイの意識が、赫炎の外に出た手のひら分だけ、生身の形に戻る。

 しかしその手を、鋭利な刃物でズタズタに引き裂かれるような痛みが襲う。


(ぐああああ!)


【止めておけ】

【戻ったところでなんになる】

【どうせまた失うだけだ】


 仄暗い響きで囁きかけてくるのは、赫炎を構成する数多の魂たち。

 彼らがフレイを逃がさないため攻撃を仕掛けている、わけではない。


 この痛みは元々、フレイの中に刻み込まれていたモノだ。

 大切な人々を踏み躙られ、失った心の傷。

 赫炎の一部となることで忘れ去ったそれが、フレイという個に戻ることで蘇っていくのだ。


【人間でいるだけ苦しいだけだ】

【だから僕はバケモノでいい】

【壊すだけのバケモノで】


(ああ、そうだ。俺だって何度も思ったよ。こんなに苦しいなら、こんなに悲しいなら、人間なんて辞めてしまいたい。なにも考えず、なにも思わず、なにも望まない。ただ憎いモノ全てを破壊するバケモノになれたら、どんなに楽になれるだろうって……!)


 実際にバケモノになって、その考えは正しかった。

 全てを忘れ、身も心もバケモノとなって暴れ狂うのは、生きる苦しみに比べれば天国のように安らかだった。己の無力を呪い、喪失の痛みに苛まれ続ける人生より遥かに満たされた。


 今すぐにでも赫炎の中に還って、なにもかも忘れてしまいたい。

 しかしフレイは、さらにもう一方の手も赫炎の外に出した。


(でも、駄目だ。嫌なんだ)


【なにが駄目なの】

【なにが嫌だっていうんだ】

【そんなにもお前は苦しんでいるのに】


(苦しいよ……。亡くしたことが耐えられないほど、苦しくて堪らない。でも、それは大切だったからだ! こんなにも大切だったから、どれだけ時が経っても失った傷が痛むんだ! この痛みを忘れるために、大切な思い出まで失うのは嫌なんだ!)


 痛い。辛い。苦しい。

 赫炎から離れるほどに、人の形を取り戻すほどに、心が傷つき血を流す。

 でも、この傷は、この痛みは、決して失ってはいけないものだった。


 悲しいのは、壊される前の光景があまりに美しかったから。

 痛いのは、傷が塞がらぬほどに失った存在があまりに大きいから。

 苦しいのは、二度と取り戻せない笑顔があまりに愛しかったから。


 怒りも憎悪も悲しみも絶望も、全ては大切な思い出に繋がっている。

 それがかけがえのない輝きだったからこそ、心に差す影はかくも深く暗い。

 だからフレイは、捨てた涙を今一度拾い上げる。

 たとえ結末が絶望に締め括られようと、それがどんなに心を苛もうと。

 決して忘れてはならないし、忘れたくなんかない。


 ――友達と二人でかけっこした坂道を照らす、鮮やかな夕陽の茜色を。

 ――初恋の少女が自分の贈った花冠を手に浮かべた、愛らしい笑顔を。

 ――憧れの先輩を乗せて自転車で駆けた、眩い夏の日差しを。

 ――祖父と共に過ごした、生命溢れる大自然の生活を。


 この身を焼く憤怒と憎悪の根本にある、かつての希望と想いをもう見失いはしない。


「それに……好きな人ができたんだ。もう一度、人を好きになれたんだ。俺はあいつを、ミクスを守りたい! もう二度と、大切な人を失いたくない! この怒りも憎しみも、守るために燃やすと決めたんだ!」


 ついに上半身までが赫炎から這い出し、人の形を取り戻す。

 しかしフレイを引き戻そうと、赫炎が絡みついてきた。


【無駄だと言ったじゃないか】【なにが守れるものか】【余計に苦しむだけだ】

【ここにいればいい】【私たちと一つに】【全てを破壊する災禍に】


「嫌だ! 俺は俺だ! フレイでいたいんだ! だって………!」


 苦痛は伴わない、安楽という名の呪縛に歯を食い縛って抗う。

 そしてフレイはありったけの想いを込めて、







「だって俺はまだ――まだミクスと初夜も迎えてねえんだぞ、ゴルァアアアア!」


 欲望のシャウトを轟かせた。


【【【え、ええええええええ!?】】】

【【【そこおおおおおおおお!?】】】







 肉体があればひっくり返っているであろう、素っ頓狂な絶叫が空間に木霊する。

 負の集合意識とは思えない、それこそ、ただの人であるかのような叫びだった。

 赫炎の拘束が脱力したように弱まり、フレイは完全に分離し外へと弾き出される。

 視界がグルリと回って、人の姿を取り戻したフレイは黒と赫の世界に着地した。

 上空も、前後も、左右も、なにも見えず無明の暗闇が広がるばかり。

 足元には先程までフレイが同化していた赫炎が、まるで赤い大海原のごとく水平線の向こうまで続いている。


【えっ、ちょ、え、えー】

【強き意志を示したかと思えば】

【理由がただのスケベ心とか】

【ちょっとないわー】

【控えめに言ってドン引きです】

【これだから童貞は】


「うるせえ童貞舐めんな! いや好奇心に負けてムフフな店行きましたけども! それ以外の経験ねえから! 所詮素人童貞だから! 俺だって恋人との愛あるアレコレに対する幻想とか憧れとかあるんだよ! あんな美少女お嫁さんにもらえるチャンス、生まれ変わったって二度とないだろうが!」


【あー】

【それはわかる気がするわー】

【いやわかんないわよ】


【男って馬鹿ばっか】

【あ? 女だってさっぶいヒロイン願望抱いてるだろ】

【ぶっちゃけ男より女の方が腹の中ドロドロでエグイよな】

【それな】


【男女差別よ!】

【訴えてやる!】

【そっちこそ性別に胡坐かいて被害者面すんなや!】


 狼狽を表すように激しく蠢きながら、支離滅裂に声を上げる赫炎。

 というか、なにやら男女間の相互不理解による泥沼議論に発展しつつあった。

 放置されてしまったフレイが途方に暮れていると、






【我らから逃れられると思っているのか? 矮小な人の子が】






 一際、巨大な存在感の声が降ってきた。

 炎の海面が膨らみ、形を成しながら鎌首をもたげる。

 太く鋭い五本角。漆黒の甲殻。ズラリと並ぶ牙から火の粉を漏らす顎。

 見上げるほどのそれは赫炎で形作られた、大いなる龍の姿だった。


 ――伝説の邪龍《ヴァーリ・ド・ラース》の存在を、フレイは知らない。


 しかし一度は同化までしていたからわかる。直感的に悟る。

 この龍こそ全ての始まり。

 炎と化した魂たちの長とも言うべき、赫の世界の支配者だと。




【逃げられはしない】【貴様は我らと同じ】【怒りと憎しみこそ我らが本質】

【破壊こそ我らが願い】【我らを受け入れよ】【己が憤怒と憎悪を受け入れよ】

【誰も逃げられない】【貴様を逃がさない】【誰一人逃げられはしない】




 龍に準ずる強い力を持った声たちが、フレイを押し潰さんばかりに圧し掛かる。

 それこそ龍の手で鷲掴みにされるような重圧の中――フレイはふてぶてしいまでの不敵な笑みを浮かべた。


「逃げる? 勘違いするなよ。言われなくてもわかってるさ。この怒りと憎しみは、お前たちからの浸食でも呪縛でもなんでもない。お前たちを呼び、目覚めさせたのは、壊すため殺すための力を望んだ俺自身だ。それは今も変わらない」


 物語の主人公なら、このドス黒い感情を悪として断ち切るのだろう。

 しかし自分にそんなことはできないし、したくない。

 なぜならフレイにとってこの怒りと憎しみを否定することは、その根源にある大切な人たちの存在をなかったことにするのと同義だからだ。


 あの人たちがこんなにも大切だったから、それを奪った連中がこんなにも憎い。

 なかったことになどできない。過去などと割り切れはしないし、させはしない。

 そしてこれ以上、何一つとして奪わせはしない。


「だから――一緒に連れて行く!」


 殺意が、そして決意が、漆黒に燃え上がってフレイを包む。

 身に纏うのは、赫炎よりも眩い黒で世界を照らす闇色のオーラ。

 フレイの《闇》が強烈な引力を発し、赫炎を吸い寄せ始めた。

 龍は抵抗するように身を捩るが、その身を構成する炎までもがフレイの《闇》に呑み込まれていく。




【馬鹿な!?】【吸い寄せられる?】【呑み込まれる?】【取り込まれる?】

【有り得ない】【たかが小さき人の子に】【そんなこと、できるはずが――】


「お前たちが言ったんだろ? 俺たちは同じだって。そうさ、一度は同化したからわかる。大切なものを守りたいという欲望! 大切なものを傷つけるヤツへの殺意! お前たちの怒りと憎しみの根っこには、俺と同じ想いがある。今はそれを奪われて、思い出せなくなっているけど、確かに大切なものがあったんだ!」




 同化したとき、彼らの記憶を垣間見ることでフレイは知った。

 世界の隠された真実の一端を。自分が真に討つべき大いなる敵を。

 故にフレイは誓う。


「俺一人だけの怒りと憎しみを晴らすためじゃない! お前たちの奪われたものを、大切な光を奪い返すために俺は戦う! 怒りと憎しみを共にし、温かな想いを分かち合い、俺はお前たちと共に生きる! だから頼む、俺と一緒に戦ってくれ!」


 かつてミクスに対してそうしたように、フレイは赫炎の龍へ手を差し出す。

 恐れる必要などどこにもない。

 彼らは邪悪であっても敵でなく、同じ痛みと怒りを共有する同志なのだから。




【【【――――】】】




 フレイにはおおよそでも計り切れない数の思念が、一斉に息を呑んだ。


 抵抗をやめた赫炎が、フレイの発する引力に吸い寄せられていく。

 むしろ、自らフレイの下へ集まっているようだった。

 あたかも、己が主に忠誠の意を示すかのごとく。


 よくよく見ればフレイの《闇》は、赫炎を呑み込みはしても消し去ってはいなかった。

 漆黒と赫の炎が絡み合いながらも共存して、フレイを包み込む。


 そして閉じられた世界が砕け、『彼ら』は産声を轟かせて現実世界へと飛び立った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る