暗がり

@nakazawa99

暗がり

 白い蜘蛛と青い人間と顔と人間と白くて滲んだコーヒーカップとカブトムシの黒く長い角と弓なりになった黒い四肢と身体の中に入り込んだ寄生虫の端っこのほうが白くて出た液体が臭くて、指の中でドロドロと溶け合うような人間と脂の切れ端がいろいろな形をしてるけれど、エミリーは暗く沈んだ顔をしながら男の死体を弄っているのを、私は見たのかもしれなかったけれど、あああ、あああ、とうめく姿はなんだか楽しげ、臭いのはコンビニ弁当をレンジで温めたせいなのよ、待っててね、とうそぶく鼻の穴の白い分泌液と、白い鼻毛、もう何年も外に出ないで、家の中にいるのはエミリー、エミリーのこと、でも彼女じゃなくたっていいから、私でもいいじゃない、私でもいいじゃない、黒くて白くてドロドロ、ドロドロ、助詞は完璧、冠詞はいらない、これで私も話せるじゃない、そうやってここまで来たじゃない、蜘蛛が這って、人間が去って、白くて黒くて、どっかんばっかん、ああ今日もいい感じだった、て私のこと何も考えてないくせに、なにがお前も良かったろ、だ、頭の中がどうにかしてるのよ、あの男、死体と寝たほうがましね、死体と遊んでいたほうがましね、誰もあんたの言いなりになんてなってない、指の重いのがお腹にのって、一番太くて短い指が腰骨に埋まるくらい肉を圧して、残った指を背中に回すと、がちがちに凍えたみたいに身動きが取れない気分、あんたで遊んであげてるだけ、蜘蛛の指が女をしっかり掴み込んで、放さないようにしながら、細長い口から白い息を吐き込んで、ああ、ああ、揚げ物が鉄に晒されて臭い、ブロッコリー、アスパラガス、鳥、鳥、鳥、白いご飯にぶっかけられた斑点模様のゴマ、毛むくじゃらの指の隙間に漏れた白い蜘蛛の死骸、蜘蛛、蜘蛛の、うるさい、黙れよ、お前は喜んでる、それで全てだ、それが全てだ、お前の価値何てそれだけだ、黙れよ、黙れ、うるせえ、打撲は脚と腕、隠せる場所にやるのがいいの、あなた本当は殴ったことないんでしょう、ははは、人を欲しいようにしたいだけ、臭い分泌液が鼻から漏れると今度は真っ赤、赤くて、湿って、期待した?、期待した?、生きてるだけの人間が、何か、価値あるものと期待した、私もあんたも同じよ、刃物なら怖い、刃物なら死ぬ、でも別にいいでしょ、死んでも、死ななくても、コンビニ弁当食べなくちゃ、直ぐ虫が集るのよ、この季節になると、ああ、ああ、ああ、別にいいじゃない、変な顔、私が言ってることがわからないの、何のために生きて来たの、白い指先に膿んで赤紫に溜まった傷が青黒く固まって、透明な汁を垂らしてるのを男はへたったように見ている、舐めたように見ている、何もできないだろ、お前なんて、お前なんか、死んでも生きても、変わらない、生きてても良いことなんてなけりゃ、死んでも誰も悲しんでくれない、そんな当たり前のことを考えているに決まってる、興味なんてないのよ、生きても死んでもなんて、興味ないのよ、この世界なんて興味ないの、鳥肉の焦げた鉛臭さとか、夏の汗ばむ室内だとか、こいつの一本一本が性器みたいな指とか、ああ、ああ、好きよ、好きよ、肌が重なったときの重々しい感じ、髪が混じり合って、汗と唾液が混じり合って、油蝉とカナブンとハエと犬と風と、そんな誰かさんたちの声と、生きてる人間の、アスパラガスの声が、ああ、ああ、ああ合わさって、水と野菜ジュースが出しっぱ、これじゃいけない、いけない、イってもいいなんて童貞みたいなこと言って、期待した、気持ち悪い積乱雲。

 どうやら今日も終わったみたいだ。

「どうだった?」

ママ―、今日も先生とお話ししなくちゃいけないの、僕嫌だよ、あの先生、気持ち悪いもん。青いシャツを着た小学生に入ったばかり位の年の男の子が看護師に手を引かれて、扉の中に入っていった。母親は見送りながら、息を吐いて、口を閉じ、笑顔を崩すと、顔全体が弛緩して皺くちゃに潰れた。目尻に細い線が重なって、五本が二本になり頬はすっかり顎のほうへ肉を分与して垂れ込み、下膨れにはほくろが幾つも付いている。顎と首は下膨れのせいで、殆ど同化しているが、皮質が点描で、ほんのり赤く腫れていることで境の見分けがつく。顔がすっかり落ち着いてから、目の前に背の低い女に気付いて、驚いたように身を椅子に沈めた。す、すみません、と母親は歯をカチカチ鳴らしながら隙間風のような声をだした。

「どうだった?」

 しらない、と小さな声だ。

「どうして知らない?」

女は唇を震わせ、唾をまき散らしながら、身を抱え込むように手を前で合わせる。

「言えよ」

 多分、先生のせい。

「なんで先生のせいかを言え、と言っているんだ」

女の目は下を向いているが、それは自分の組んだ腕の指先の微かな動きに注視しているわけではなく、床のタイルの境に意識を置いているわけでもなく、ただ単に何も見ようとしないようにしているようだった。目蓋の隙間から白い膜の間に黒い膜が包まれているのが分かり、水のように透明な分泌液が張って、睫毛が美しい水草のように生えている。

「どうした。黙っていたって、始まらない。考える必要はないんだ。ただ言えばいい。ほら言えよ」

 多分、先生のせい。

「ほら、質問を忘れてるぞ。だから早めに言えと言ったのに。仕方がない。どうして先生のせいなんだ」

女の鼻は筋の通った小さく、いい形をして、整った鼻の孔からは真黒な深淵が下向きに覗いて、色も悪くなく、鼻頭にも小鼻にも傷もない。毛穴は赤くなく、黒くなく、ただ子どものように真っ白なままだ。

 どうして、わからない。

「わからない事はないだろう。お前の問題だ。お前のことなんだから、お前にしかわからんだろう。まったく、先生のせいにするな。それでどうだったんだ」

「わからないわ」

「ふざけるなよ。言ったよな。お前の問題だって。なんでわからない。人に迷惑ばかりかけやがって。お前、自分でなにを言ってるのかわかってないのか」

「うん。うん。わからないの。わからない」

女は男のほうへ身を捩って進んで、転げた。凄まじい音とともに女の鼻から真っ赤な血がぺたりと床を流れていく。

「もう、そこまでにして下さい」とさっきの母親は男に向かって言う。看護師たちが見下ろしながら、女は引きずられていくが、男は母親に構って動けない。

「あんた何なんだよ。出しゃばりやがって。人のことにかまけている暇があるのか」

母親の髪は灰色混じりに行ったり来たりして、ねじれている。慌ただしく腕を大きく動かして、先程までの光景を見せられた苛立ちを表現しようとする。

「どうして、どうしてとあなたはそんなものが気になるのですか。この世にはどうすることもできないことだってあるんですよ。例えば今ここで大災害が起きたら、この建物は拉げて、くるくると人間は回されて、辺り一帯悲鳴のなかで、火や風や、雷や雨や、あらゆるもののせいで、傷を負って、病気になって、お腹がすいて、私もあなたも死ぬでしょう? ほら、どうすることもできません。それなのに、どうして起こった、どうして起こったなどと在らぬ理由を詮索し続けて、本当に大切なことに立ち向かわないでどうするのですか」

「では聞きますがね」男は床に座り込んで、椅子に座る母親を上目で嫌そうに見る。

「その、本当に大切なこと、というのはなんなんですか?」

「ほら来ました。あなた得意の質問ですね。全くお笑いコントですよ。例え私が本当に大切なものの中身を言ったとしたら、あなたは、それは実におかしな話だ、なにしろ私はそれを本当に大切なものとは認めていないからだ、と論点をすげ替え、ご自身の正当性を主張するお積りなのですから。ですがそうはいきません。あなたはあの女の人をどうにかしたいだけで、良くする気などさらさらないのですから」

男はそのまま床に倒れ伏して、すやすやと寝息を立てるようにして、どうにも話が通じない、それにしても、あいつはどこへ行ったろうか、まあそれもいい、ところで、良いとはなんだろうか、もし良さは悪さの対立にあるとすれば、俺があいつを悪くしようとしているとでも、言うのだろうか、しかしだ、あいつが悪くなろうが、それはあいつの問題でしかないし、問題はなにもかわらない、もし仮に良くしようと心を尽くしても、結局のところ、問題はあいつが占有しているのだ、こう考えてみれば、俺があいつの心づもりを聞く理由はまさに善意からなせるものではなかろうか、なあ、聞いているか。

「ええ、聞いていますとも」

頭を起こしてみると、白い扉が、その白さにうろたえるように青ざめて、重々しく閉まっていた。照明が青いのか、と得心したように男はかぶりをふる。嫌だ、いやだ、いやだよー、と耳を上下左右に裂くような叫びが上がる。もうすこし、もうすこし、話そうね、と医者は言うと聴診器をその小さな胸にあてる。男児のおっぱいの先には丸く円をかいた小さなぶつぶつが咲いて、中心の乳頭を囲んでいる。薄桃色の先は赤く引き伸ばされて、指で触れればピクリと反応してしまうように敏感に発達している。腕の付け根は黒く滲んで、汗疹と一緒にのこぎりを引いたような痕がある。脇腹には真っ赤な傷穴がバラのように咲いて、内臓系の膨らみの腹は浅黒い。

「大丈夫だよー、少し痛むけど、我慢して」

白い扉の前で男は母親に振り返り、にやりと笑みを迸らせた。玉を転がすような悲鳴の後、真白な沈黙が浮かび上がってくる。母親はそれを切り落とした。

「わたしはあなたのことを認めません。確り責任を果たすべきです。それが人間として生まれた役割です」

「人間として生まれたから責任を果たすのですか、それは人間のせいですね」

「そんなことばかりで、いいんですか。少しは何か実になることが言えないのですか」

男が口を開きかけると、扉が開いて、下を向いた男の子が出てきた。目が暗色を称え、指先は震えている。目をしばたいて、自分のお腹をさする。頭を上下にふって、ありがとうございました、ありがとうございました、と誰かに陳謝する。髪には白い液体がべったりと付いている。

「これがあんたの責任ってことなのか。それなら、お断りだな。正直、あんたの言ってること何もわからないし、見当違いだと思ったよ。あんたは死ぬ前にどうにかして責任を果たすことが大切だと思い込んでるようだが、生きることも死ぬことも、ここじゃ問題じゃないんだよ。勝手な憶測と浅薄な考えでなにかを言った気にならないでほしいな。あんたの言っていることはいつでも場違いで、見当違いで、安心させようとするだけだ。それじゃどうにもならない。自分の不快な気分を誰かに押し付けて、自分が正しいと思いたいだけなんだ。あれはあいつの問題であって、あんたの問題じゃないんだよ」

母親は立ち上がり、男の子の手を強引に取って、陽気な顔をして、麗らかな歌を歌いながら、立ち去って行った。


楽しい夏が来た


またとない季節だ


今までの自分とは


おさらばして


白い砂浜と


青い海で


あの人に


会いに行こう


声は遠くなり、いつの間にか木霊さえ消えた。

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