パンドラの匣
TKMR
ハート型ウイルス
「よし、完成した」
肩まで伸ばした髪を一つにまとめ、化粧もせずにのっぺりとした顔の白衣姿の女は、興奮した声を上げた。辺りには、一般の人は普段目にすることがないような怪しげな薬品や容器が散乱し、異様な匂いを発している。恍惚とした表情で、試験管の中を覗く女の笑顔は、醜く歪んでいた。彼女は、慎重に中の蛍光色のピンクに近い色をした液体を小さな瓶に移す。
「ハート型ウイルス、そう決めたわ」
我が子を慈しむように、小さな瓶を頬に擦り寄せ、青色をした台形のポシェットにしまい込んだ。彼女が、この薄暗い研究室に引きこもり始めたのは丁度四年前のことであった。
家族は四人家族、父母に妹そして自分を入れて四人である。決して裕福ではないが、平均所得は超えているし、生活に不自由することはなく、普遍的な一般の家族像であったと思う。しかし、長女である彼女は取り柄というものがほとんどない。低身長の割に肉付きはよく顎は二重に重なり、一重の眼は細く吊りあがり、団子鼻に腫れぼったい唇。おまけに、運には恵まれておらず、運動神経も下から精々よくて二番目くらいだ。小中高では、クラスメートから陰湿ないじめを受けたことはないものの、彼女の存在はないかのように全ては進んでいった。彼女にとっては、いじめられて注目を浴びたほうがよほど幸せであった。対照的に妹は、大和撫子の如く全てが彼女とは逆で、両親からも溢れんばかりの愛情を受け育てられた。まるで私の存在はないかのように。自分という存在を他者から受け入れてもらえない人生は、彼女の心に大きな深い傷を生んだ。彼女も、世間では何も変わらない女の子。恋愛をしたり、友達とたわいもない話をして遊んだり、青春を普通に送りたかったのだ。高校二年生の冬に、意を決して好意を抱いていたクラスメート男子に告白をした。そこでの返事は、一言。
「お前、誰だっけ」
悪気はなかったのかもしれないが、彼女にとっては人生最大のトラウマになったのは死ぬまで忘れられないだろう。
注目してほしく、朝から晩まで取り組んだ勉強のおかげで成績だけは、誰にも劣ることはなかった。大学受験も苦労したという苦の字もなかった。そんな彼女は、理系の知識人が集まる学部へ進み、やがては研究室での研究に勤しむようになる。勿論、友達や恋人などできることもなく研究に没頭するようになった。ある日、同じ研究を目指す年上の男性に恋に落ちた。きっかけは、少女漫画によくあるようなワンシーン。資料を印刷しに向かう最中、研究室でアルコールランプの火を消し忘れていたことに気づき、慌てふためきながら資料を抱え戻る最中、曲がり角で誰かに衝突した。その瞬間、スローモーションのように手元から真っ白な紙が宙を舞う。視界が白く遮られて前はよく見えないが、よろける私の腕を壊れ物を扱うかのように、だがしっかりと大きな温かみのある手で包み込んでくれた。床に散らばった資料をサッとかき集め、彼女に優しい笑顔で手渡す男性。その笑顔には、歪みはなく、その瞬間に彼女は彼に恋をしていたのだ。
しかし、彼女には過去のトラウマが付いて回り、どうしたら振り向いてもらえるのだろうかと試行錯誤を繰り返し続け、最終的にはいつも自分には縁のないことだと言い聞かせた。人間の本能なのだから、恋をしてしまうという衝動を避けることはできない。なら、科学的に恋させることはできないのだろうかと考えるようになる。実際、恋愛科学というものも現代では発達しており、彼女の聡明な知識のもと不可能ではないという結論に至る。それから、四年間という歳月をかけて、彼女は少女のような願いを抱きつつ研究に没頭し続け、ようやく成し遂げることができたのだった。
早速、彼女の計画は実行された。好意を寄せる男性は隣の研究室に所属していることは知っていたので、居場所を特定するのに時間はかからなかった。真っ赤な口紅を唇に塗ったのは、初めてのことである。これは、彼女なりのお洒落であったのだろう。小瓶が入ってることを再度確認し、最後の仕上げとして自分の、涙を一雫垂らした。これは、自分に惹きつけるためには欠かせない最終要素である。涙は彼女の心の傷を熱を持って刺激した。
「私を見て欲しい」
意を決して、部屋を飛び出た。隣の扉をノックする。聞こえてくるのは、彼女の心臓の音と扉を叩く音。がちゃりと扉の取っ手はゆっくりと回る。左手に構えていたスタンガンが小刻みに揺れる。顔を上げると愛おしい彼の姿が彼女の視界を支配する。反射的に左手のスタンガンは、鈍い音を立てながら彼の身体に触れていた。彼女はすかさず、小瓶のピンクの液体を彼の口元に流し込んだ。失敗してしまったらどうしようか、もう死ぬしかないなと考えながらも、目覚めるのが待ち遠しい。一時間も経たないうちに、ゆっくりと目を覚まし、重い体をけだるそうに起こす。
「あれ、僕何してるんだ。」
頭が冴えないのだろう、彼女が何をしたのか覚えていないようであり安堵の息をつく。すると、彼は慌てふためきながら顔を赤くする。
「あなたのためなら、あなたを手に入れるためなら何でもします」
効果は抜群である。顔を赤くした男は、彼女の手をきつく握りしめた。彼女は、自分の研究が大成功を収め、念願の彼を手に入れることができたことにこの上ない喜びを感じ、人生最大の幸福を感じていた。自分を見てくれる人がいるこの幸福は、誰も理解することはできないのだと。
その日から、不自然な出来事は立て続けに起こるようになる。一番最初に起きた出来事は、何人もの研究所の男性が彼女に言い寄ってきたのだ。このような経験は、初めてで怪しむ以前に喜びに陶酔していた。そして、次に所長が彼女を秘書に抜擢したのだ。あの日から、立て続けに不運な彼女には珍しく転機が訪れるようになった。しかし、徐々にエスカレートをしていくことに気付いた時にはもう手遅れの末期ガンと同じような道のりを歩み始めていたのである。きつく手を握りしめてくれた彼と、付き合い始めて一ヶ月の頃に彼の交友関係が何となく分かるようになってきていた。しかし、その取り巻く友人は、揃って皆彼女に好意を抱くのだ。そう彼女が、大成功を収めたと思っていたあの薬には大きな落とし穴があったのだ。あの薬は、ウイルスそのもののように強い繁殖性を帯びており、感染して人から人へ伝わっていくという副作用があったのだ。そして、薬の効果を断絶する処方箋は存在していない。半年も経たないうちに、彼女は街を歩けば大物のスターがやって来たかのような歓迎を受け、断り続けたとしてもテレビの取材は引っ切り無しに行われた。数え切れないほどの男女に言い寄られては、求婚を求められては、慕われる。やがて、それは街から地区全体そして隣接する地域にも見られ始める。当初は、こんなに大勢の人から注目されたことがない彼女は優越感に浸っていたが、それが不安へと狩られるような出来事が起こった。彼女を、自分のものにしようと揉めた男性間で殺人事件が数件起きたのだ。そこから、全国へと彼女への崇拝じみた愛の感染は一気に広まる。都心の地下鉄の通りには、彼女の顔が堂々とコピーされたポスター。
「みんな平等、みんなのもの」
と印刷されたものが壁一面を覆っている。彼女を巡って起きた事件の加害者は即刻死刑にされた。その頃の彼女は、薬で手に入れた恋人とも引き離され、城のような外見をした屋敷に大勢の警護のもと隔離されていた。彼女が街を歩くと大変なことになる、彼女の身に何かが起こってからでは遅いと政府が決めた愛ゆえの決断であった。部屋の中に置かれているテレビが、海外メディアを報道する。
「政府間での女神と称される女性を巡る争いが全国規模になりつつあるそうです」
「速報です、日本が防衛に当たり武力を行使するとの発表が政府でなされました。」
彼女は暗い部屋で、一人自分の犯した重罪を目の当たりにする。アインシュタインが世界を滅亡させる原爆を生み出したように、彼女もパンドラの箱を開けてしまった。この過ちに誰も気づくことはなく、世界中は彼女の虜と化していく。世界は注目している、しかし本心で彼女という存在を感じ取ってくれる人間は結局一人もいないのだ。一時的な偽りの幸せと代償に人間の自由な幸せを奪取している。彼女は、この暗い部屋で天に向かい、いくら祈っても許されない大罪を犯してしまったのだ。ハート型ウイルスは彼女の心の傷を治癒することはできなかった。
「私は悪魔の娘、私の存在を消せば人類は幸せになることができるのだろうか」
自分の幸せを犠牲にして、他人の幸せを祈ることができる人はほんの一握りだ。しかし、彼女はそれ以前に耐えることに限界を迎えていたのかもしれない。どれほど善良な行いをしても不幸せな人間はその螺旋から抜けることは一生できないのだ。神様はそんなに優しい実態ではない、存在するかさえ確証はない。ニーチェは、宗教は弱者が強者にルサンチマンを抱くがゆえに生み出されたものだと述べた。弱者がいくら足掻いても、結果は同じことなのだ。彼女という人間は、賢すぎたゆえにそのことに随分と早い段階で気づいてしまっていたのかもしれない。その辛い現実を目の当たりにして、目を背けるために走り続けたのだ。
「私なんて生まれてこなければよかったね」
彼女は最後に、ほろりと一言漏らし手に握っていたカプセル状の薬のようなものを口元へ運ぶ。花のように散るための、人生最後の決断。次の瞬間には彼女は無になっていた。
彼女が、姿を消したその後の世界は生涯誰も知ることはできないだろう。
パンドラの匣 TKMR @dousurutkmr
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