第6話
「どうしたんだ?槙。元気ないじゃないか」
練習が終わって水飲み場で顔を洗っている槙の背後から、克也は声をかけた。
村上の報告を聞いた直後から、練習中もずっと槙は言葉少なげで覇気が無かった。
「ん……、そう?」
タオルに顔をうずめて表情が見えないが、声にも明らかに張りがない。
「何か心配事?俺じゃあ力になれないかもしれないけど」
いつもと様子が違う槙に、戸惑いを隠せない。
それにしても、心ここに在らずのままで練習に挑むのは危険だ。
思わぬ怪我に結びつくこともあるだろう。
これからのために、そのことはしっかり伝えなくては。
「槙、あのな……」
「克也、今日このあと時間くれる?」
話し始めようとした克也の声に、槙の声が被さった。
「え、あ、あぁ、別にいいけど……」
「時間遅いけど、うち来てもらってもいいかな」
「えっ」
槙の家に呼ばれるなんて初めてだ。
本当に一体どうしたというのだろう。
断る理由もなく、克也は槙と一緒に電車に揺られた。
5つ目の駅で下車して、閑静な住宅街を黙々と抜ける。
10分ほど歩いたところで、槙はスッと門の中に入っていった。
初めて訪れる槙の家は、想像していたイメージとはずいぶん違った。
今どきのシンプルでスタイリッシュな家だろうと思っていたのに、目の前に建っているのは瓦屋根の昔ながらの家屋だ。
2枚扉の引き戸玄関なんて久しぶりに見た。
門から玄関先へのアプローチに、形よく整えられた松がアーチを作っている。
「よく手入れされてるなぁ。この松なんか、何年もかかっただろう?」
克也は感心したように見上げた。
「こういうの、分かるんだ?」
槙は新しい克也に出会ったような新鮮な気持ちになった。
じっと見つめてくる槙に、克也は照れたように応える。
「あ、俺の爺さん、庭師なんだよ。小さい頃から爺さんのウンチク聞きながら育ったから」
克也と庭師のイメージが妙に一致して、槙はクスッと笑った。
ようやく見られた槙の笑顔に、克也はほんの少しホッとする。
玄関を入って一番最初に通されたのは、卓で溢れている座敷だった。
「すごいな、オマエのお父さん」
克也はぐるりと部屋を見渡して、感嘆の声を上げた。
その中心に仏壇が設えてあるのを見て、キュッと唇を噛む。
そっと近づいて、ゆっくり手を合わせた。
「克也ありがとう、父さんに会ってくれて」
「え、今日ここに呼んだのはそのためだったのか?」
「そういうわけじゃないけど、克也に父さんに会ってほしかったのもあるよ」
「そっか。で、何か話があるんだろ?何?」
槙の視線が揺れた。
二人は畳に向かい合って座りながら、沈黙した。
何から話そうかと思案しているようだ。急かさずゆっくり待つ。
しかし、いつまでも話を切り出さない槙を見かねて、きっかけを作るように克也から話を振った。
「村上先輩、ホントすごいよな。良かったなあ、推薦が来るなんてさ」
「克也、俺、ちょっと悔しい」
「え?」
聴き間違い?
思いがけない言葉に、克也はまじまじと槙の顔を覗き込んだ。
「村上先輩の大学、父さんの出身校なんだ」
槙は箱根駅伝の写真を手に取った。
「父さんは4年間、そこで箱根の2区を任されてたんだ。村上先輩、父さんに憧れてあの大学に行きたがってた。そこで箱根を目指すんだって」
「いい話じゃないか、なんで悔しいんだよ」
「父さんの場所……」
槙はこらえきれない様子で写真を抱きしめると、拳を畳に叩きつけた。
初めて見る槙の衝動に、克也は驚いた。
「何だよ、どうしたんだよ」
「なんでかなあ、俺には長距離は絶対にやらないでほしいって母さんが言うんだよ。陸上始めたときも、そういう約束になっててさ」
「…………」
「俺、陸上なんか大っ嫌いだったし、何でもいいやって思って始めたけどさ。コーチは父さんの世界を見ろって言ったけど、長距離と短距離じゃ見える世界は違うよな」
「転向、今からでも遅くないんじゃないか?」
「ダメだよ、母さんを悲しませたくないんだ。父さんが居なくなって、俺まで裏切れない」
槙は目を伏せて肩を落とした。
「父さんのこと、なんとも思ってない人だったら良かったんだ。でも、先輩はずっと父さんを目指してきたって。そのためにずっと長距離をやってきて」
こういう時、なんて言ってやったらいいんだろう。
上手い言葉が見つからない。
克也は黙って槙の話を聞いていた。
「俺が行けない場所に、先輩は行くんだもんな」
俯(うつむ)いて髪に隠れた隙間から、小さな滴がゆっくり畳に零れ落ちた。
それはどんどん速さを増して、イ草の畳に丸い水たまりを作っていく。
「槙、俺、なんかちょっと寂しいな」
しばらくゆっくり槙を泣かせた後、克也は静かに呟いた。
弾かれたように、槙が顔を上げる。
「槙、スプリンターになったの、後悔してんの?」
「え……」
「槙、言ってくれたよな。俺のおかげで陸上に対する気持ちが変わったって。スプリンターじゃなかったら俺とはほとんど接点が無かったんだ。その方が良かったってこと?」
「そうじゃな……っ」
「うん、そうじゃないって分かってるよ。でもさオマエ、本当は長距離やりたかったんだって自分でも気付いてるんだろ?」
「克也……、違う、違うよ、俺は……」
「いいんだ、認めろよ。目を背けなくていいんだ。俺、オマエの事情も気持ちも分かりきってやれないけど、ホントにやりたかったコトに気が付いて、悪いことなんか無いだろ?」
克也はニコッと笑った。
「なあ、槙。それでも俺、スプリンターのオマエが好きだよ?カッコイイよ」
「克也……」
「それにオマエ、陸上憎んでるなんて言ってるけど、ホントは愛してんだよ。だって陸上はお父さんのすべてだったんだろ?そんなの、憎めるわけないじゃん」
槙は身じろぎもせず、克也を食い入るように見つめた。
「オマエも村上先輩もすごいよ。俺は純粋に村上先輩は良かったって思うよ?だって誰だってできることじゃないんだ。お父さんだって、自分を目標に頑張ってる先輩の活躍、喜んでいるんじゃないの?」
もちろん、槙、オマエの活躍もな。
「……っ」
克也を見つめていた槙の顔が、切なく歪んだ。
「俺、長距離やりたかった!父さんと同じ大学で、父さんの走った2区を走りたかった!俺が目指したくて俺がやりたかったこと、村上先輩ができるなんて悔しいよっ!悔しいっ!」
いつもの穏やかな声色から一変して、あの時と同じような鋭い声で槙は叫んだ。
肩で息をしながら、迸(ほとばし)った激情を抑え込むかのように唇を噛んだ槙を黙って見つめる。
重たい沈黙が続いた。
やがて虚ろ気な目を向けた槙の肩に、克也はそっと手を置いた。
「ちょっとスッキリしたか?ホントの気持ち、しっかり声に出せたぞ?」
「あ……」
「俺は誰にも言わねぇよ。俺にだけ、ホントのオマエをぶつけたっていいんだ」
「う……っ」
再び槙の目から大粒の涙が溢れだした。
鼻水も止まらないのか、しきりに袖口で鼻の下をぬぐっている。
なんだ、子供みたいだな。
克也はフッと笑って触れた肩をゆっくり撫でた。
「克也ぁ、俺、みっともないよなぁ。泣いてばっかでゴメン」
「いいんじゃね?でも、いっぱい泣いたら、前見ろよ?」
ますます槙は子供みたいに泣きじゃくった。
全く、仕方ねぇなコイツ。
克也はわざと大笑いする。
ひとしきり泣いたあと、槙は腫れぼったくなった顔を両手でパンパンと叩いた。
そして急にそそくさと姿勢を正して、ペコリと頭を下げた。
「克也、ありがと」
「どういたしまして。あ、でもな、長距離やらない理由がお母さんだなんて、そりゃ言い訳だぞ?」
「気が付いたよ。俺、逃げてたんだよな。ホントは父さんの背中を追いかけたかったのに、追いつけないかもしれない自分を見たくなくて。母さんがどういうつもりで長距離をやらせなかったのかは分からないけどさ。俺はその言葉に都合よく乗っかって、全部母さんのせいにしようとしてた」
「そっか」
「父さんの見た世界って、どんなだろうな」
「いいじゃないか、お父さんと見える世界が違ったって。って、俺が言うことじゃあないだろうけど。オマエはお父さんと違うフィールドでさ、新しい道を進んでいけばいいんだよ」
「俺もそう思う。それにもう、ホントに今更転向は考えられないんだ。俺、短距離で頂点目指すよ」
「決めたんだな?大丈夫だな?」
確かめるように槙の目を覗き込むと、槙はキッと睨み返してきた。
「克也、トレーナーになるんだろ?俺の専属になるんだろ?ずっと、見ててくれんだろ?」
畳みかけるように槙が迫ってくる。
その気迫に仰け反りながら、克也は何度も大きく頷いた。
「なら、俺はずっと大丈夫だ」
キリッとした笑顔で、槙は頷く。
そして、自分に言い聞かせるように拳を胸に押し当てた。
「長距離は村上先輩に任せる。うん、そうだ」
槙、オマエは強いよ。
大丈夫、オマエならこの先迷ってもきっと自分の道を選んでいけるよ。
槙はフフッと克也に笑いかけて、次の瞬間ハッと何かを思い出したように急に立ち上がった。
「克也っ、せっかく来てくれたのにお茶も出さずにゴメンっ」
……ん?ナニイッテンダ?
こんないい場面(シーン)で……お茶?!
こんな事言い出す槙はやっぱり天然だ。
一瞬呆気にとられた克也は、次の瞬間体を折り曲げて爆笑した。
槙は気まずそうな顔をしてお茶を淹れるために部屋を出て行こうとしている。
「気ぃ遣わなくていいって。ここに居ろよ」
槙、こんなオマエをずっと見ていたいよ。
ずっと、俺の隣で走ってくれよな……。
克也は眩しいものを見るように、再び目の前に座り込んだ槙の顔をしみじみと眺めた。
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