第1話


新緑が眩しい5月半ば、放課後の校庭は部活や雑談をする生徒たちで賑やかにざわめいていた。

入学からひと月余り経った新入生は、そろそろ学校に慣れてくる頃だろう。

この桜ヶ丘高校は名前の通り小高い丘の上に建ち、桜のトンネルが校門まで花道のように続いている。

入学式の後は、たくさんの2.3年生がこの花道で新入生の部活勧誘をするのが恒例だ。

陸上部にも今年は12名の新入生が入部してきた。

新顔たちはみんな中学からの経験者で、即戦力になる成績を残している者も少なくない。

すでに先輩に並んでタイムを競う者もいる。


「よぅ、槙。もうストレッチ終わったか?」


他の部員と話をしていた須藤槙の背後から、猪瀬克也が声をかけてきた。

夏のインターハイを8月に控え、今日は選抜メンバーの発表の日だ。

2年の槙と克也は共にスプリンター、タイムは辛うじて克也の方が成績がいい。

というのも、槙は陸上経験が浅いため、まだ克也に追いついていないからだ。

去年、中学陸上部からの引き続きで入部してきた者たちに交じって、槙だけは陸上の経験が全く無かった。

中学時代は特に何もしてなかったと言う槙に、何故陸上?と克也は不思議に思ったものだ。

“なんとなく……。俺、運動不足な気がするし”と天然めいた発言で入部してきた槙は、入部テストの測定でいきなり好タイムを叩き出した。

荒削りながらも素質があるとコーチがつぶやいた通り、槙はどんどん頭角を現してきた。

ひどくハードなトレーニングで元々体幹力の高い身体を更に鍛え、槙はどんどん短距離走者に必要な筋肉を身につけていく。

油断していると、あっという間に追い越されるに違いない。


「あー、あと足首やんなきゃ」

「そこ、一番大事なところだろ?しゃべってる場合じゃないだろう」

「そだね。克也、手伝ってよ」


槙と話していた部員は、3年の先輩に呼ばれて行ってしまった。

コンクリートの上に座って、槙は克也に右足を差し出す。

克也は黙ってその足首をつかむと、ゆっくりと回しはじめた。

微かに感じた引っ掛かりを、少しずつほぐしていく。


「ちょっと硬いな」

「ん、やっぱり?なんとなくそう思ってたんだけど、なんでかなあ」


原因が思い当たらないという風に、槙はのんびりつぶやくように言う。

ふと槙を見上げる。

ほんのりと日焼けしたその顔に浮かぶ笑みはまだ若干幼さを残していて、人を和ませる雰囲気を醸し出していた。


「何だよ?顔に何かついてる?」


訝しげに顔を傾けた槙の言葉に、じっと見すぎていた自分に気付いて克也は思わず目を逸らした。


「相変わらず競技者とは思えない発言だな、と思ってさ。もっと自分の身体に気遣えよ」


瑞々(みずみず)しい肌に閉じ込められた筋肉は、独特のしなやかさを見せている。

的確な指示のもとに行ったトレーニングの成果が、すべてこの身体に集約されているようだ。

そして、飄々(ひょうひょう)とした槙がスタートラインに立った時の射抜くような視線は、まるで獲物を狙った獣だ。

争い事は好まないような顔をしておきながら案外好戦的な奴なのかもしれないと、いつも克也は思っていた。

足を左に代えて再びゆっくり回す。

こちらは大丈夫そうだ。

ということは、若干右足に負担がかかっているのかもしれない。


「槙、明日も右足に違和感あったら、ちゃんとトレーナーに診てもらえよ」

「え、そんなに?うーん、そこまでかなあ」

「こういうのは足首だけの問題じゃないことも多いんだぞ。腰から来てることもあるしさ。症状が軽いうちに治しておく方がいいんだ」


身体の一部分に負担がかかると、無意識に庇おうとしてフォームが崩れてしまう。そうなると、なし崩しにあらゆるところに無理が来て身体が悲鳴を上げてしまう。


「そうなんだ、分かった」


槙は納得したように笑って頷く。

陸上に関しては初心者だという意識が未だに強いらしく、アドバイスに対して反発することが無い。

槙を急成長させているのは、そういう素直な部分なのだろう。


「おーい、集まれー」


コーチが呼ぶ声がした。

散らばっていた部員たちが一斉に駆け寄ってくる。


「克也、ありがとう」


槙はサッと立ち上がると、足踏みをして感覚を確認してから軽く走り出す。

克也も追いかけるように駆け出した。


「全員揃ったな?」


部員たちの顔を見回して、コーチは一枚の紙を取り出した。

いよいよ選抜メンバーが言い渡される。

全員の顔に緊張が走った。


「まずは……」


一番最初に挙がった名前は、3年の村上拓だった。

スタミナ抜群の長距離ランナーの彼は、中盤からの追い上げに強い選手として他校からも一目置かれた存在だ。

何名かの3年の出場選手を呼び終えると、呼ばれなかった先輩たちはあからさまに肩を落としている。

どんなに頑張っても、実力が全ての世界はやっぱり残酷だなと槙は横目で見ながら思った。

2年からは、まずは村上と競い合えるほどの実力を持っている長距離ランナーの鈴木凱斗が呼ばれた。

スプリンターの椅子はあとふたつ。

2年には3人、1年には4人いる中で誰が選ばれるのだろう。

コーチがチラリと克也を見た。


「猪瀬、それから山本」


克也と共に選ばれたのは同じく2年の山本大樹だった。

ふたりとも中学時代からコツコツと努力を積み重ねてきた人間だ。

喜びと同時に、選抜としてのプレッシャーがふたりを襲った。


「やったな、克也」


槙が嬉しそうに肩を叩いた。

2年のスプリンターの中でたった一人メンバーに選ばれなかったというのに、槙のイイところは相手の功績を素直に喜べるところだ。


「あー、俺ももっと頑張ろうっと」


腕を高く上げて伸びをしながら、槙は歌うように言った。

そうだよ、来年だってあるんだし……と言いかけて、克也は慌てて口をつぐんだ。メンバーに入れなかった3年の前で、それは禁句だろう。

しかし、克也が気遣ったところで状況が変わるわけではなかった。

槙の一言が、すでに彼らの逆鱗に触れていたのだった。

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