【クトゥルフ神話】さまよう老体

夜乃偽物

第1話

 この日記を読む人に、最初にこれだけは言っておきたい。

 ここに書き記されたことは、全て私が体験した事実であり、なんの誇張も虚偽も無い。

 私の、いや、人間の理解の範疇を越える、悍ましい事件の数々が記されているが、全てを真実として受け止めて欲しい。

 これは、私の最後の研究成果なのだから。


 私は、三須加登二句みすかとにく大学という私立大学の教授として職をいただいている。学生に家政学を教え、私自身も、家政学の研究で、学会からそれなりの評価をいただいていた。

 ある日、私は友人の教授と、大学の研究室で煙草を吹かしていた。

 学生の倫理観の変化や、家庭内不和の解消方法について、興味深い話しを展開し、日々の暮らしに忙殺されかけていた私にとっては、安楽椅子に腰掛け、リキュールとクッキーを喫しながら議論を交えるのは、至福の娯楽であった。

 しばらく自分たちの本文を忘れた論題を挙げ、うつらうつらしながら生産性の無い会話を続けていると、友人は突然新しい話題を挙げた。


「田丸さん、徘徊老人って知ってるかい?」


 徘徊老人。痴呆症、今は認知症と言うが、その患者である老人が、何の断りも無く外出する行為である。

 行方不明者も多数確認されており、高齢化が進むこの国で、対応を考えるべき社会問題に成っている。

 友人は最近、その徘徊老人の論及に興味があるらしく、少しでも興味があるのなら、君、少し調べてみないか、と言ってきた。

 歓談の合間に、本格的な研究の話しをするのは少し煩わしかったが、学会の発表論文として編集するのも悪くない、と考え、承諾した。

 正直、徘徊老人という人種には、昔から関心があったのだ。ほろ酔いとはいえ、安直に答えたのはそういう訳があったからだ。


 後日、酔いが冷めた私は、気詰まりな気分を抱えながら、徘徊老人の実態を調査しようと、下調べをすることにした。

 痴呆症患者を抱えている家族の下へ赴き、話しを訊こうとした。

 しかし、彼らはそれを拒み、柔らかな口調で私に帰宅を勧めた。二軒、三軒であるのなら、痴呆症の家族を他人に見せたくない、という防衛心と、一種の羞恥心からの拒絶と考え、私も納得しただろう。

 しかし、それが十軒以上も続いては、話しも変わってくる。仕事を蔑ろにされ、私は少し頭に血が上った。軽んじられ、侮辱されたような気分になったのだ。


 憤った私は、少々強引な手に出ることにした。

 痴呆症患者を抱える家を見張り、徘徊に出かける所を後方から追いかけよう、と思ったのだ。

 要するに、無許可で尾行をしようと思ったのだ。

 思い立ったら即実行、私はちょっとした仕度を済ませ、翌日、取材を試みた家の前に居座り、痴呆症患者が外出するのを待った。

 短気な私は、意地悪な激情のままに、早朝から待ち続け、ようやく外出する瞬間を目に捉えた。

 汚らしい外套、はげ散らかした頭、甲殻類のように曲がった腰。

 確認もするまでもない、あれが徘徊老人だ。やっとこさ実態をその目に捉え、意地悪を成し遂げた子供のような、ちんけな達成感を感じた。


 飛び出して、すぐにでも取材を行おうとした。

 しかし、老人は私には目もくれず、ふらふらとおぼつかない足取りでどこかへ歩き出して行った。

 引き止めようかと思ったが、少し考え、予定通り後ろをつけることにした。自然体の徘徊老人を見てみたいし、それに、ぼけけた老人に話しかけるのは、少し気が引けたのだ。念のため地図を携え、黙って道行きを見守ってみた。


 数十分、危なっかしい老人の背中を見続ける。自分と十も二十も歳が変わらない人が、あんな醜態を晒しているのを見るのは、少し複雑であり、予期せず苦笑が漏れ出てしまった。

 しばらく追いかけて、気づいたことがある。最初、老人は当ての無い場所へ歩を進めていると思っていた。

 しかし、長く観察して、老人がどこか確かな場所に向かっているのがわかった。あっちこっち、夢遊病患者のような足取りなのだが、その身体が向かう方向は、一貫していた。

 迷子の子供のようでいて、母親の居場所がわかっている、と言う訳だ。


 三十分ほど歩き、老人は郊外にやって来ていた。

 付近に湖があり、湖畔の涼し気な風が気持ちいい、避暑地のような場所だ。

 老人は、街道の外れに建っている、真新しいの老人ホームに、吸い込まれるように入って行った。

 なぜ、自宅に住んでいる老人が老人ホームに行くのか、中々に疑問だったが、ホームに居る友人にでも会いに行ったのか、無理矢理に納得した。

 三十分ほど待って、出てくる気配が全くしなかったので、私は帰ることにした。

 出待ちのような、ストーカー同然の所行をするのは、さすがに気が引けたのだ。

 調査はあまり捗らなかったが、また別の日別の老人で調べれば良い、と楽観もしていた。


 異変に気づいたのは、三日後のことだった。

 

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