2-8
石をパンに、水をぶどう酒に。ダンが幼い頃に教会で聞かされ育った、
「少年、大丈夫かね? 汝がこれほどまでに弱いとは知らなかったぞ」
「しょうがないじゃ、ないですか……だって……」
ダンは酒を飲むのは、生まれて初めてだったから。
体が燃えるように熱いのに、全く力が入らない。
努めて陽気に振舞われた酒宴が終わり、一人、また一人と自分の部屋へ乗客が帰ってゆく。彼等彼女等を見送りながら、アナエルは自分の契約者に溜息をついた。
「やれやれ、では私が守護天使の務めを果すとしよ――」
ダンの身が不意に起こされ、僅かに軽くなった。しかし未だ、アナエルは右手にグラス、左手に酒瓶である。
甘い体臭を感じて、ダンは間近にリーチェの顔を振り返った。
「では、私は飲みなおすとしよう。リーチェ、適当に部屋に放り込んでくるといい」
天使の乾杯に見送られて、ダンはリーチェに肩を貸されながら歩き出した。おぼつかない足取りで。
食堂車を出るともう、客室が並ぶ廊下は明かりが落とされていた。しかし不便は無い。足元に灯る誘導灯もあるが、何より眩しい月が夜空に輝いているから。
「すみません、こんな……重く、ないですか?」
リーチェは静かに、ゆっくりと歩く。ときどきよろめきながらも、ダンに寄せて密着させた身体を離そうとしない。
うまく思考が結べぬ頭に代って、胸中を巡る浮き足立った気持ちが強くなるのを感じた瞬間。カンカンと鳴る踏切を通過して、僅かに列車は揺れた。外の景色は一瞬だけ、寂れた寒村を映し出し、無人の駅が高速で後方へと飛び去ってゆく。
体勢を崩した刹那、ガラスの窓に咄嗟にダンは手をついた。結果的に彼は、胸の内にリーチェを見下ろし呼吸が止まる。両腕の間で切なげに、リーチェは
長い間そうして、二人は彫像のように固まったまま。どちらも再び歩き出そうとしない。
「リーチェ……!」
気付けばダンは唇を寄せていた。だが――
不意に、固く瞳を閉じて顔を背けたるリーチェ。
余りに突然の、予期せぬ反応にダンは驚いた。その脳裏を、あの夢の光景が何度も過ぎる。
カーテンの隙間から朝日を浴びるベッド。打ち捨てられたような肢体。白い肌。紅いゼロ……罪の記憶が断片的に浮かび上がり、それが夢か
それは反射的な反応だったのだろう。少し間を置いて、ハッと瞳を開くと。拒んだ事を詫びるような視線で見詰めてくるリーチェ。
しかしダンは見てしまった。リーチェの
「す、すみません……もう、一人で歩けますから。すみません……」
咄嗟に身を離したつもりだったが、酒の回った身体は鈍重で。グラリと世界が揺れて、ゆっくりとダンは逆側の壁にもたれかかった。心配そうに伸べられるリーチェの手を、思わず振り払いそうになるダン。
しかしダンは力なく、黙ってまたリーチェの肩を借りて歩き出す。彼の脳裏を、一人の男の存在が過ぎった。
リーチェの約束された幸せを握り潰し、ずっと己の手の内に閉じ込めていたファミリーのボス。リーチェから声さえも奪った男と今、同じ事をしようとしたのではとダンは己を恥じた。
そして疑念はより強くなる。既にもう、ボスと同じ事をリーチェにしてしまったのでは、と。
二人は先程とは温度の違う静寂を連れて、黙って自分達の部屋を目指した。
やがて、二人を今夜別つ扉の前に到着する。
「じゃ、おやすみなさい……さっきはほんと、すみませんでした」
未だ
最後にリーチェが何か言いたげに口を開いたが……その声がダンに伝わる事はなかった。
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