始まりのエリュシオーネ.01

 地球温暖化にともなう、例年の激減した積雪量が嘘のようで。青森市と日登町ひのぼりちょうへだてるとうげの、一時間に一本のバスが通る停留所に降り立てば……辺りは一面の猛吹雪。毎年この日に展望台で眺める市内の街明かりも、今は全く見えない。

 こんな季節のこんな日の、しかもこんな天候。冬季は何も無い停留所に降りる客を、いぶかしげに見詰めて首を傾げながら。それでも発車オーライを呟き、運転手はバスを青森市内へと向けた。そのテールランプが消え去るのを見送り、小鳥遊タカナシエリは歩き出す。


「あの日も確か、こんな吹雪だったよね……もう七年、早いなぁ」


 年が明けてからのここ数週間は、雪らしい雪は降らなかったのに。ここが北国である事を思い出させる猛吹雪は、もう既に随分と降り積もって。足跡一つ無い展望台を歩けば、ブーツに僅かに入り来る雪が凍るように冷たい。それでも白い闇の中を、エリは独り言を呟きながら歩く。もう居ないと誰もが忘れた、大切な人へ語り掛ける様に。


「もう七年だぞ?ねえ由亜紀ヨシアキ君、君は何処どこで何をしてるの」


 その名は高校の同級生、昔からの古い友人…ひょっとしたら好きな人だったかもしれない。定義は曖昧あいまいだったが、それを確かな物にする前に、富矢由亜紀トミヤヨシアキという少年は忽然こつぜんと姿を消した。当時はちょっとしたニュースになったものだが……今はもう、最初からそんな人物など居なかったように、誰もが彼の存在を忘れて生きている。エリ以外の誰もが。

 七年前の、やはり猛吹雪の夜。青森市で由亜紀に振り回され、慌しくも何気ない時間を過ごしていたエリはこの場所で別れた。日登町へと帰るバスから、由亜紀だけはこの場所で降りたのだ。約束があるから……確かにエリにそう言って。

 思えばあの時、どうして一緒にバスを降りなかったのだろう。月曜日になればまた、卒業を控えた教室で嫌でも会うから?それもある。約束という言葉に、何か引っかからなかった?考えもしなかった。由亜紀とエリとは幼馴染という腐れ縁で、余りにも互いが当たり前に存在していたから。彼の奇行は有名だったし、アニメや漫画にゲームといったサブカルチャーへ傾倒する、いわゆるオタク少年だった事も手伝って。彼はずっと側に居る、いつもいつまでも……そう思ってた無邪気な自分を、今は少し小利口こりこうだとエリは笑った。


「アニメをチェックしたり、新作ゲームに並んだり。忙しいんだよね、きっと」


 コートのえりを立てながら呟く、その白い吐息は強風に掻き消え。横から殴りつけるような雪は激しさを増し、エリは思わず風下へ顔を背ける。

 二十代も折り返しに掛かった、それでもまだまだうら若いと言い張れる自分。それが何のつやめいた話も無く、一年に一度のセンチメンタルに耽る一方で。毎日を忙しさに翻弄ほんろうされながら生きている。彼女はそうして周囲の人間同様に、喪失感を失う事が少し寂しかった。

 当時は由亜紀の趣味にも、適度に付き合ってはいたが。今はもうすっかり距離を置いてしまった。彼が好きだったアニメも漫画も、小説も声優もほとんど思い出せない。こうして人は過去を忘れたり、思い出に昇華させて懐かしむものかと。妙に老成した事を考えながら、エリはかじかむ自分の手を握る。


「また来年、絶対に来るね。約束する、またね」


 そう言って静かに微笑みエリは踵を返す。来た道はもう、自分が刻んだ足跡が全く見えない。ますます深まる雪をキシシと踏んで、彼女は日登町へ帰るバスを待つべく、停留所の小さな待合小屋まちあいごやを目指した。

 例年通りの行事を粛々しゅくしゅくと終え、明日からまたいつもの日常が始まる。それまでの僅かな時間、自動販売機の熱い缶コーヒーを飲みながら、もう少しだけ追憶に浸りたかった。

 肩を竦めてコートのポケットに手を突っ込み歩く。その背に容赦なく、吹き荒ぶ風が氷雪を叩き付けた。

 いよいよ強さを増す吹雪に、帰りのバスを心配しながら。ごうと鳴る風に、微かに混じる異音がエリの耳朶を打つ。徐々に近付くそれに、心なしか歩調が速まって。気付けばエリは、空気を沸騰させる轟音に走り出していた。


「何?この音、飛行機!?やだ、ひょっとして落ち…!」


 そう叫んで振り返る、エリの予想は半分だけ的中。彼女の頭上に突如、大質量の物体が落ちてきた。飛行機ではない何かが。そして意識はそこで突然途切れて。小鳥遊エリは肉体的に完全に死亡してしまった。全く不条理で理不尽な死はしかし……不思議で不可避な新しい生の始まりに過ぎなかったが。


                  ※


『開戦は避けられそうもないというのに、何という失態。降下早々に協約違反きょうやくいはんか』


 小鳥遊エリは声を知覚した。若い女の、少女の様な声だ。その可憐な響きにはしかし、物騒な言葉が踊る。今はしかし、その声だけしか感じられない。寒くも暑くも無く、眩しくも暗くも無い。


『意識はこれでいい、次は記憶と人格か。これはまた随分な容量だな、戦闘データパターンの大量破棄もやむを得ないか』


 次第に鮮明になる意識は、聞き覚えの無い声に不安を感じながら。同時に、今の自分に何が起こっているのかを把握するべく、少しずつ記憶の糸を辿る。

 自分は今日、いつも通り仕事を終えて。青森市内へと向うバスに乗り、峠の展望台で下車。毎年恒例の個人的な行事を猛吹雪の中敢行かんこうした。だが、その後の記憶が曖昧で。何が我が身に起こったのかは思い出せず、新たな事実が発覚する。我が身と今呼んだ肉体の、その感覚が全く無い事に驚愕きょうがく


『不味いな、戦闘力の損失が五割を上回った。選択できるオプション兵装も全て使用不能』


 相変わらず良く通る声は、忙しく数字を読み上げながら独り言を零す。理解不能な、まるで呪文のような専門用語のいくつかはしかし、エリには聞き覚えがあった。遠い昔に聞いたような、そんな感触が薄っすらと浮かんでは消える。それは遠い昔の、アニメや漫画の記憶。

 そんな時間が暫く続いて、結局エリは比較的妥当な結論に辿り着く。即ち、これは夢なのだと。そうであれば何もかもが説明が付くし、どうして夢を見るような状態になったかは、夢から覚めてから確認すればいい。そう自分に言い聞かせれば、多少は納得出来たが。無情にも先程からの声がそれを全否定する。


『まるで悪い夢だな、これでは。夢であればと、どれ程に思う事か』


 少なくともどうやら、声の主にとっては耐え難い現実のようで。しかし何が出来る訳でも無く、黙ってエリは時間が経つのを待った。思い切って少女に語り掛けてみようとも思ったが、それはどうやら物理的に不可能らしい。


『中身はこれでいい、後は外見とサイズだな……待機モード、リセッティング。ユニバーサルリアクター、ハーフドライブ。フィジカルコンバート、スタート』


 小さな溜息が聞こえた。どうやら少女が挑む難題には、一応解決の目処が立ったらしい。もしそうならひょっとしたら、彼女のほうから自分に何か説明があるかもしれない。静かになってしまった辺りに耳をそばだてて……もっとも、耳が有るかどうかも解らないが意識を集中して。現状の進展を望むエリは意外な言葉を聞いた。


『やれやれ……ヨシアキと造ったこの機体、どうやら前途は多難なようだ』


 不意に飛び出して来た名前。それはエリを唐突に揺さ振った。何より自分以外に、その名を覚えている人間が居る事に驚く。訳も解らず込み上げる奇妙な感慨はしかし……まるで己の腹の底から響くような、耳をつんざくメカニカルノイズに掻き消される。気付けば肉体の感触が戻っていた。


『エリュシオーネ、再起動』


 その声はどこか泣いている様で。か細く弱々しいその声の主に、エリは思わず呼び掛けた。彼女はもう、言の葉を発する口を動かす事が出来たから。同時に呼吸が自然と促され、自分が生きていると実感するより早く。彼女は手を伸べ叫んでいた。


「待って!貴女あなた、由亜紀の事を知っ、て……い、る……の?あれ?」


 見慣れた天井へ伸びる自らの手。呆然とかざすそれを見詰める、ぼんやりとした視界の焦点が次第に鮮明になると。エリはそれを裏返しててのひらを顔に向け、確認するように何度か握っては開く。確かに自分の手であり、その感触はいつも通り。


「あれ、私どうして。やだ、裸で……どうやって帰って来たんだろ」


 布団を抜け出てベットに身を起こす。周囲をぐるりと見渡せば、そこは間違いなく自分のアパートで。しかし記憶は混濁としており、意識は漠然と思惟を巡らせる。確か自分は、毎年恒例の…と思い出して、その作業が二度目だと感じるエリ。一度目はそう、夢の中で確かに反芻はんすうしていた。

 今の状況に至る過程が思い出せず、しかし現状はエリに追想を許さない。枕元の目覚まし時計は既に七時を回っており、それを目にしたエリはすぐさま現実感を取り戻した。このままでは間違いなく、確実に遅刻である。そして彼女は常に、遅刻をいましめる側の人間だった。


「いっけなーい!急いで準備しなく、なく、なく、なくちゃ……くしゅん!」


 謎の一夜も今は忘れて、迫る現実に否応無く対応を迫られるエリ。彼女はすぐさまバスルームに駆け込みボイラーのスイッチを跳ね上げると。なかなか熱くならないお湯に凍えながらも、慌しくシャワーを済ませる。

 既に考えている余裕は無い、時は一刻を争う……手早く濡れた髪をかしてドライヤーで乾かし、着替えと化粧を済ませて朝食はパス。コートに袖を通しながら玄関に躍り出ると、ブーツに足を突っ込むエリ。


「コートもブーツもある、服も下着も洗濯篭せんたくかごの中だった。分別してないけど……ふむ」


 やはり昨夜自分は、ちゃんと帰宅したのかもしれない。記憶の一時的な欠落を経験する程、多忙過ぎる日々とは思えなかったが。そんな事もあるものかと、今はもう気にも留めず。勢い良く玄関を飛び出るエリの脳裏に、突如として声が響いた。


『遅刻の際はトーストを口にくわえながら、これが定石セオリーと聞いたが。例外もあるという事か』


 慌てて周囲を見渡し、誰も居ない事を確認して。同時にそれが、夢の中のあの声だと思い出すエリ。やはり仕事で疲れているのだろうか?僅か一教科を担当するだけでこれでは、担任教師となってクラスを受け持つ事など、夢のまた夢で。

 パシリ、と頬を張って気合を入れ直すと、彼女はドアを施錠してアパートの階段を駆け下りる。既に登校する学生達の姿もまばらで、その全てが足早に去る中……エリも職場であり母校でもある、私立白台学園しりつはくだいがくえんへの道を走り出した。

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