魔王と囚われのお姫様

定命ていめいの者よ、か弱くはかない者達よ……さあ、我が前に勇気を示せ」


 静かに、しかし良く通る声が響く。玉座にもたれていた影は、ゆらりと気だるげに立ち上がった。薄暗い王の間へ、一瞬で殺気が広がってゆく。その圧倒的な重圧プレッシャーに、僅かに怯む闖入者ちんにゅうしゃ

 迫る姿は人の形を成してはいるが、本質はまごうこと無き魔の眷族けんぞく。負の力を繰り悪の限りを尽くす、異界の魔神……魔王の中の魔王。

 大陸全土へ余すところなくとどろく、その名はラドラブライト。

 神が見守る人の世を、混沌へ落としめんとする世界の敵。


「どうした? 遠慮はいらぬ……せいぜい足掻あがいて私を楽しませるがいい」


 冷たく凍れるような、薄い笑みを伴う声。

 無防備に、しかし確かな歩みで迫るラドラブライト。集う男達は皆、口々に気勢を張り上げ剣を抜いた。魔物の巣食う迷宮を踏破し、数多の困難を乗り越え魔王の玉座に辿り着いた……彼等こそが今、囚われの姫を救う勇者だったから。


「伯爵、覚悟っ!」

「今日こそ姫をお救いする……このっ、我々の手で!」


 高い天井に輝くステンドグラスより差し込む、僅かな光を反射して閃く剣。

 だが、勝負は一瞬で決した。強力な武具を携えた、手練の戦士達が相手でも……魔王ラドラブライトは苦も無くそれを退ける。持余す魔力を一片も使わず、みなぎる暴力をほんのわずかばかり振るうだけで。

 襲い掛かるなり指先で吹き飛ばされ、男達は圧倒的な力の前になす術無く屈服した。


「バッ、バケモンだ……噂に違わぬバケモンだ!」

「だから言ったじゃないですか、まだ挑むには早いって!」

「畜生、イけると思ったのになぁ? やっぱバランス悪いわ、このパーティ」


 緊張感が弾けた。

 闘争の空気が消え去り、男達は一目散に逃げ出す。まるでそう、命の危機など最初から無かったかのように。

 確かに戦われたのは、互いに退けぬ光と闇の最終決戦……などではない。ごく有り触れた、この土地で……辺境の小国、トリヒル王国で繰り返される、毎度御馴染みの日常風景に過ぎなかったのだから。


「あっ、あのぉ! ちょっと、出来れば所持金の半分を……」


 豹変ひょうへんしたのは場の雰囲気だけでは無かった。脱兎だっとの如く逃げ出す男達を、ラドラブライトは慌てて追い駆ける。既に魔王の威厳も無く、遠ざかる足音に今はオロオロとうろたえるばかり。


嗚呼ああ、逃げられてしまいました。ここまで到達した冒険者は久しぶりだというのに……」


 落胆の色もあらわに、ラドラブライトは肩を落とす。女々しく恨めしそうに、男達が消えた廊下をしばし見詰め、溜息を吐きながら仰々しいドアを閉じる。足取りも重く、彼は定位置へと引き返した。華美な装飾と悪趣味な髑髏どくろをあしらった、過剰演出な玉座へ。


「ふぅ、これはいけません……いけませんよ。パッと見、期待出来そうな強面こわもてでしたがね」


 今日も本懐を遂げ損ねた。

 そればかりか、自らが己に課した責務も全う出来なかった。

 後者に関しては仕方が無いとしても、前者に関しては毎度ながら、悔やんでも悔やみきれない。今日も魔王は、勇者に討伐され損なったのだ。

 神が創りたもうた、生けるもの全ての世界。唯一にして無二の大陸、ゆいくに。数多の国家が乱立する人間社会は、常に闇の軍勢に脅かされていた。神に仇為あだなす、邪悪な魔物……その頂点に君臨する魔王達によって。当然、ラドラブライトもその一人なのだが、今は辺境トリヒル王国の片隅に引篭ひきこもり、毎日玉座で待ち侘びている……自分を倒しうる、真の勇者の到来を。


「あの、おじ様? もうお仕事は終わりました?」


 不意に小さな声が、落ち込むラドラブライトの耳朶じだを打つ。その声に振り向けば、玉座の影からエプロンドレスの少女が、哀れなこの城の主を覗き込んでいた。紅茶色の髪が広く輝く額に掛かる。

 あどけなさの残るその顔立ちには、気遣いの表情がありありと浮かんでいた。思わず心配させまいと、ラドラブライトはぎこちなく微笑んでみせる。


「久しぶりのお客様だったので、お茶をお出ししようと思ったんですけど」

「……姫、シトリ姫。貴女はそんなに気を遣わなくてもいいんですよ」

「でも、折角せっかく苦労なさって、私を助け出しに来てくれたのですし」

「すみません、精一杯手加減してみたのですが……今日もダメでした」


 幼く可憐な少女の名は、シトリ王女。悪の魔王ラドラブライトに赤子の頃さらわれ、トリヒル王国が威信を賭けて救い出そうとしている囚われの姫。

 彼女はしかし、落胆に暮れるラドラブライトを慰めるように、ピョコリと魔王の前に飛び出した。ティーポットを片手に。この城に囚われてより十余年……物心付く前より、魔物に囲まれて育ったシトリだから。些かの緊張感も恐怖も無く、魔王をいつもおじ様呼ばわり。


「でっ、でもっ! 冒険者の皆様を退けたって事は、沢山お金が……」

「逃げられてしまいました。協約きょうやく上、全滅に……全員戦闘不能にしないとダメなんですよ」


 もしくは皆殺しにするか。しかし幼い姫を前に、そのことは敢えて伏せるラドラブライト。


「そうでしたの……でもっ! 今日もおじ様が無事で何よりでしたわ」


 元気付ける筈の一言がトドメとなって、ラドラブライトは肘掛に突っ伏した。そのまま動かなくなってしまった。邪悪な覇気もどこへやら、余りに情けない醜態にしかしシトリは驚かない。

 これが素の、彼女にとっていつものラドラブライトだったから。


「私、今度来たら言って差し上げます。勇者の癖に逃げるなど見苦しい! って」

「いいんですよ、姫。いろいろやりようはあった筈ですから」


 その匙加減さじかげんが難しいのだと、と内心苦笑するラドラブライト。逃した悲願への未練を、精一杯気取られないように、努めて明るく振舞いながら。ラドラブライトは、目の前でアレコレと思案を巡らすシトリに目を細めた。


「それより姫、貴女にはもっと人質らしくして戴かないと」

「まあ! ではおじ様、牢獄とか手枷てかせとかを作って下さいな。私、大人しく座ってますわ」


 頬を膨らませて、シトリが無理難題を言い放つ。それ自体は協約に違反しないが……こんな薄気味悪く辛気臭い城へと、連れてこられて十余年。そこまでしてはシトリがあまりに不憫ふびんと思えたから。城の中では最大限の自由を許したのはしかし、今では失敗だったのではとラドラブライトは振り返る。

 彼には、魔王ラドラブライトには、トリヒル王国と取り交わした協約がある。シトリ姫をさらい閉じ込め、奪い返しに来る者達に絶対の勇気を期待しながら……願い叶わず年月を重ねた末の協約が。

 故に彼は、彼が望む瞬間が訪れるまで、悪の権化を演じ続けなければいけない。唯つ国全土の救世の為、王国の経済の為、彼自身の願いの為。

 何より、小さなシトリ姫の為に。


「姫、外の世界へ……トリヒル王国へ帰りたくは無いのですか?」


 撫で付けられた黒髪をクシャクシャ掻き乱しながら、ラドラブライトは恐る恐る尋ねた。物心付いた頃から魔物だらけの環境で暮らし、一日の大半を薄暗い迷宮内で育ってきたシトリ。故国へ帰りたいと泣き濡れてもおかしくは無い。しかしシトリは気丈な、それ以上に物好きな娘だった。


「あら、おじ様はわたくしに帰って欲しいのですか?」

「うーん、取り合えずトリヒル王国は困るでしょうね。僕を討伐する理由が無くなってしまう」


 そしてラドラブライトも困る。彼はか弱くも儚い人間達の、勇気ある挑戦に期待しているから。


「でも、協約がある以上は、このお城は冒険者の皆様には魅力的な筈ですわ」

「それはそうなんですが……やはり、囚われの王女を救出というのは欠かせないでしょう」


 辺境の弱小国とは言え、シトリはトリヒル王国の王女だ。助け出したとなれば、富と名声は思うがまま。まして、あの伝説の魔王ラドラブライトの討伐という、英雄的な偉業で讃えられるのだ。故に、大陸全土から冒険者達が、我こそはとこの地に集い……トリヒル王国とラドラブライトは一つの協約を取り交わした。


「姫がこの城に居てくれるお陰で、トリヒル王国の沢山の人達がとても助かっているんですよ」

「それはわかっています。だからもう、帰りたいかなどとお聞きにならないでくださいませ」

「解りました、この話はこれっきりにしましょう。城の者達も皆、姫を慕っておりますしね」

「……おじ様も、わたくしにこのお城に居て欲しいですか?」


 じっと真っ直ぐにラドラブライトを見詰め、シトリが真剣な表情で問う。それは囚われの姫君が、悪の魔王に対して発する言葉では無かったが。しばし考え込んだ後に、ラドラブライトは静かに肯定する。


「ならいいですわ、わたくしが側に居て差し上げますっ!」


 シトリ常々、言ってくれるのだ。数多の魔物を束ね、邪悪なホムンクルスを何人も従えても……自分が居なくば、ラドラブライトは独りになってしまう、と。唯つ国全土で恐れられながらも、その実どうしようもなく頼りない魔王を見ていると、ついつい親身になってしまうのだ。

 冒険者が挑んで来る度に、ラドラブライトは恐るべき魔王の仮面を身に付ける。今まで幾度となく、彼はそうして自称勇者達を退けてきた。

 しかし、その素顔を知るシトリは、その振る舞いに見え隠れする、色濃く暗い影を敏感に察知していた。それが何かはまだ、はっきりとは解らないが。僅かばかりでも良いから、育ての親とさえ言えるラドラブライトの力になりたいと彼女は健気なのだ。

 魔王ラドブライトと、シトリ王女。それはとても複雑で奇妙な関係。


「まぁ、いいでしょう。お互い次の勇者様に期待しつつ……お茶にしましょうか? シトリ姫」

「はいっ! 大丈夫です、次はきっと上手くいきますわ。私が保証して差し上げます」


 シトリがコロコロと笑う。その笑みは、暗く澱んだラドラブライト城の空気に、まるで大輪の花が咲いたようで。しかしラドラブライトは、眩しい笑顔を前に溜息を一つ。彼女が優しく笑う時、決まって思い出される懐かしい面影。

 月日が経つ程に、シトリは彼女の母親に似てくる。

 それもまた、ラドラブライトの胸中を穏やかならざるものにしていた。

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