廃案 草稿 短編

@nakazawa99

第1話 虫

 嫌だ嫌だ嫌だ、と隣で寝ていた女が言う。三十を過ぎ、暗闇の中で髪は輝きを消し、肌は割れて、瞳と唇はくたびれたように黒く乾き、顎を震わしながら遠くを見て、怯えたように白い息を吐く。わたしが何をしたろうか、わたしが何をしたろうか。繰り返しながら、細い二の腕は骨ばって黒い痣の斑点のほかは奇妙に白く、床にうつ伏せたでかい腹に肘をる。虫のようだ。足の短い多足類、あれに似ている。教室の端、職場のロビー、コンビニ、博物館、人の往来溢れる場所に現れる嫌われ者、あれに似ている。虫は腹這いに蜜を出す。泡立つような熱い体液、夕陽の紫に滲んだような、嫌なにおいのするのは生きているからか。ああ死ねるものなら、死ねるものなら。夜半の声は白けたようにくうを切る。沈黙は良い。言葉など無い方がいい。いっそ舌を切ってしまえばいい。嫌だ嫌だ、まだ死ねない、死ねるものかと、女は言う。なぜ死ねぬ。死ぬは容易く、いくは難い。この世は嫌だと言うなら死ぬのが道理だ。もぞもぞと赤く腫れた顔を揺らし、ちりちり髪が擦れあう。目はくうを切り、鼻はうつろに向いている。言葉は通じないものと覚えるが、道理は嫌いだと聞こえて、これはひとつ面白い、話してみようと決める。どうして道理が嫌いだ。知れたこと、道理がなくても人は死ぬから嫌いだ。男は男、女は女。人差し指は薬指に変われぬ。だから嫌いか。女は顔を床にこすりつける。泥が鼻をすすぐ音がした。だから嫌いだ。女は身をよじる。右の内腿うちももを床にすり、左手を前へ伸ばす。左の内腿を床にすり、右手を前へ伸ばす。その時、突き出た腹を引っ込め、左右へ振り動かす。そうして小足で半歩ほどの長さ、擦れた腕はほこりにダニに油に汚れ、仕舞には溝色どぶいろに染まる。虫が虫を踏んでいると笑うと、ははは、はははと可笑しいように笑うのが進歩だ。さっきまで死にたいと言っていた喉から歓喜の息が漏れている。これが進歩だ。いいえ、これは退化です。何も考えず、気狂いきぐるいのように笑っていられたらどんなに楽でしょうか。ああ嫌だ。つらいか。いいえ。いいえ。つらくないならどうして這う。つらくないから這うのです。ははは、バカ、それが道理というものだ。バカはそちらです。バカはそちらです。右の太腿ふとももを泥にすり、右手を精一杯伸ばし、右の尻を四つん這いに堪えて上げて、左の太腿を泥に埋める。泥は顔にも飛べば、髪にもつく。黄色い泥は沼のようだ。ははは、やはりバカだ。お前はバカだよ。どうして泥を見ずに前へ進めるものか。そこでじっと死んでしまえば良かったのに。生きるとは、そういう事だ。じっとりと湿った泥は女の垂れた胸をぎゅるぎゅる濡らし、つややかな肌はとても死ねなさそうだ。バカはそちらです。生きるのが嫌だから、死ぬのが道理です。つらくないから、死ぬのが道理です。道理道理と五月蠅い女だ。お前は結局、道理の逆を行っているだけではないか。それが道理というものなんだ。全く、お前はバカにも程がある。女は泣きながら、手足を泥に切りとられ、無残に芋虫になる。どうして、どうして。あなたに何が分かりましょう。わたしが何をしたろうか。まったく壊れた玩具おもちゃだ。一ついい話をしてやろう。男は男だ。女は女だ。人間は人間には変われなかろう。しかるにこれを以て道理といい、理屈という。何かは何かに変われない。しかし、軽薄なことに、お前がお前でなくても、良いのはこの道理だ。女の顔が吃とこちらを向く、頸だけを腹だけの身体から起き上がらせて、眉は黄色く汚れ、赤く腫れた頬は小さな種状の穴が点々と窪んで、底に茶褐色の液体が噴出している。胴体は色黒く、胸のあった部分には、ほんのりと白い突起が平板な所についており、それは腕や脚の根元に付いた細まった皮膜の切れ端に似て、殆ど死んでいるように見えたが、血色は良く赤く噴出した体液が踊り、皮膚上の小さな凹凸、脂の凝った毛穴や、発疹ほっしんの黒い隆起物を彩って、くびあごにアーチ状に掛かった脂肪の餅はハエが集ったたかったようにぐじゅぐじゅに中身が食い破られ、空洞したように胸元で潰れ、声を出すときに咽喉の動きとともに上下しては、痛みに悶えようとする。これでも死ねない。道理に従えば、すぐ死ねる。だがお前は決して死ねない。それが道理の逆だからだ。暗闇の中は光が差さない。だが光が差さなければ暗闇はできない。暗闇に光が差せば、暗闇は光になる。それが道理だ。女は声も出ない。息ができない。しかし、死ぬこともない。道理の逆を巡って行っても、遂に来るは道理の果て。この世は環状線だとつらく言えば、悄然と前に立つ女がいる。白肌は照って、目は燦然と猛り、緑髪は花の香り、裸体に暗闇を着て、道理も不道理も知らぬ顔、ただ立って、指を黒い身体に付して、嬌声を上げる。醜いものなどなく、美しいものもない。嫌だ嫌だ嫌だ。このまま死んでしまいたい。生きていても仕方がない。これならまだ虫のほうがましだ。人の往来は女の裸体をしげく嘗め回す。胸は張り、脇からぴっしり形が良く、先っぽの薄紫はまだ誰も触れていないようだが、湿っぽく、上乳はなだらかな曲線、豊満な肉感が空気さえ弾き返すようで、下乳へ圧し掛かる重さは確りとして、付け根に寄った影が色濃く、まんこに向けて先細る楕円のお腹はぽっこりと女児のように突き出て、子宮の大きさまで分かるかのようで、上気した肌は日照りの映る新雪のようだ。一人の男が鼻をまんこに擦りつける。濡れたまんこは味わい深く、舌の上に落ち着く。切れ目から両開きになっている中心に突起物があり、その奥に子宮を結ぶ管がある。ざらざらとした舌は、黴の色をして、青緑のまんこの血色に黄色を混ぜ込んでいく。女は声も上げず、自分の舌を噛んでいる。目は燦然と男たちを睨んだままだ。どうして嫌だ。こんなに綺麗じゃないか。綺麗だから死にたいのです。ははは、とうとう落ちたな。それこそ、本性だ。醜いから生き、美しいから死ぬのであろう。そんなバカ話をしたかったのか。明滅する暗闇と光の間で女は如何様にも形を変え、纏う男の影を身体を開いて入れていく。目を押っおっぴらいた男たちの群れを喰らうように、顎をさげ、わなわなと鼻を震わせ、赤く濡れた歯を見せびらかしているのは猛々しい。身体は幾つ吸い込んでも虚ろな音を鳴らして、光輝いている。帯のような闇はするするとほどけて、せせこましい教室の一隅でせみの抜け殻が絵の具に濡れているのが残り、女生徒たちの気持ち悪いと汚穢の声が上がった。

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