俺の女装で世界がヤバい

碌星らせん

第1話「はじまりは出来心」

 数日前は、人生最悪の日だった。学校では男のクラスメイトから告白されて。その帰り道、何処かの不良に絡まれて。勝手に女と間違われ、男だと分かった途端に殴られて。

「そうだ、いっそ女装しよう」

 そう思ってしまったその時の俺は、それでも何処かおかしかったと思う。後から考え直せば、ほんの序の口の出来事だったのに。それでも、多分未来が変わるのは、そういう選択をした時なんだと思う。



 『女の子みたい』

 それは、俺にとって呪いの言葉だった。

 俺は……そもそも、この俺という一人称もコンプレックスから使い始めたものだ。小さい頃は病気がちで、あまり外に出なかった。色白で、痩せ気味。「女みたいなやつだ」と馬鹿にされ続けていた。

 スポーツでもやれば良かったのかもしれないが、レギュラーになれる体力も運動神経も無かった。それでも中学生になれば、背も伸びて、筋肉も付くと思っていた。

 ……だが、甘かった。確かに背は伸びて、少しは筋肉も付いた。でも、クラスメイトはもっと、ずっと、大人の男と女に近づいていた。

 それは高校に上がっても一向に変わらず。むしろ運動への苦手意識からインドアに寄っていた趣味のせいで更にひどくなって、女子からも男子からも「かわいい」と言われ続け、挙句の果てには同性のクラスメイトから告白され(思わず蹴り倒して逃げた)、俺の自尊心は最早修復不能だった。

 平たく言うとヤケになっていた……もちろん興味が完全に無かったわけじゃない。それならやらない。それでも、こうなったのはやっぱり逃避のようなもので。

「……どうするんだコレ」

 貯めていたお年玉を引き出し、親に知られないよう通販とコンビニ受け取りを駆使して……気が付くと目の前には、きっちり一セット分の、フリフリの女物の洋服が揃っていた。

 黒のフリルに、白いレースのあしらわれたワンピース。確かゴスロリとか、そういうやつだ。無論、下着とウィッグもある(下着のサイズはよく分からなかったので、適当に見当をつけて買った)。

「本当に着るのか……これを」

 両親は留守。揃って旅行に行って、あと一週間は帰ってこない。目撃される心配は無し。準備が全て整い、いよいよという状況を前に、俺はほんの少しだけ冷静さを取り戻していた。

 このまま行くと、何かの階段を、一段上ってしまうような。もしくは下ってしまうような。取り返しのつかない領域に踏み出してしまうような。


 ……よし、決めた。一旦風呂でも浴びて落ち着こう。別に人知れず女装したからといって、世界が滅ぶ訳でもあるまいし。買ってしまった以上……流石に着ないのは、勿体ない。そして、せっかくの服を汗で汚すのも勿体ない。

 まだ女物に袖を通してもいないのに、何だか風呂好きな女心が少しだけわかったような気がした。


-----------

「……ふぅ」

 風呂場で吐くため息一つ。シャワーのお湯が、体を伝う感触。

「なんでこんなことに……」

 俺は、早くも自分の決断をちょっぴり後悔しはじめていた。曇りと水滴を拭き取り、鏡を覗く。

「かわいい……のか?」

 自分で見ても整った顔立ち、中の上か上の下くらいだとは思う。色も白い。背が低いといっても、女子と比べれば多分平均より上くらい。

 でも、俺が欲しかったのはもっと男らしい身体なのだ。流石にムキムキまでは望まないが、せめて人並みの身長と肉付きが欲しい。

「……複雑だ」

 ちなみに中学時代、密かに鍛えたこともあったが、筋肉は付かず、寧ろ腹回りがくびれた。何故だ。

 ため息を吐いて、シャンプーを探す。目に付いたのは、母親の使っているシャンプーと石鹸、その他。小さい頃は、何だか無性に気になって使ってみたことがある。その咽るような匂いを嗅いで、母親の「安心する匂い」の元がこれなのだとは、どうしても信じられなかったのだけれど。

 今こそが、これを使う時なのかもしれない。今ならわかる。これは母親の匂いでもあるが、女性の香りの元でもあるのだ。女装する時に使わないで何時使うのだ。

 何より、もう服を買ってしまったのだから勿体無い。勿体無いのだから仕方ない。

「別に、世界が滅びる訳でも無いんだし……」

 そう、口に出して。シャンプーのボトルに手を伸ばした時。


 すぐ隣の浴槽で、

『ドゴーン!』

 という、聞いたこともない程大きな音がした。直後に上がる、水柱。いや、大きな音なんてものじゃなかった。それは最早小さな爆発だった。風呂蓋が宙を舞い、バチバチという放電音と火花。

 最初に思い浮かんだのは、給湯器の故障だった。冷静に考えれば給湯器の故障であんなことにはならないことくらい分かりそうなものだが、慌てた時の思考なんてその程度だ。

 飛び散る水飛沫。靄が充満する風呂場。その中で、シルエットが浴槽からむくりと起き上がる。


 目を凝らすと、そこには裸の少女が居た。


 一糸纏わぬ姿。濡れたまつげ。茶色い瞳。朱色の唇。黒髪から滴り落ちる水滴。

 ……それより下に視線を下げるのは憚られて。思わず、顔を背けた。その時の俺は、はっきり言って混乱していた。緊張のあまり、心臓が早鐘のように打ち始めるのを感じていた。少女が何かを喋っている。言葉が意識を滑る。それでも何とか、注意を向ける。

「……風呂場を破壊したのは謝罪します。ですが、いわゆるタイムマシンは物体の四次元逆写像によって同質量の物質を必要があるんです。その際、空間位相とエントロピーの差によってこのような現象が……」

 先生、電波な美少女が降って来ました。

 こういうのは、漫画とかの中だけで、もうお腹いっぱいです。

「聞いてます?」

 いきなり訳の分からないことを言い始める少女。俺に話を聞く余力は無く、当然返事もままならない。だが、かろうじて耳が捉えた単語、『タイムマシン』。

「……座標誤差が想定範囲を超えていますね……何かしらかの外力の干渉があったのでしょうか?」

「あー、わかるよ。タイムスリップかワープ系だろ?君は未来人?それとも宇宙人かい?」

 いきなり現れてよくわからないことを喚くのは、大抵宇宙人か未来人か異世界人かマッドサイエンティストだ。だいたい前二者であることが多い。もしくは、ただのおかしな人だ。漫画で読んだ。

「なぜ私が未来人だと分かったんですか!?」

「テンプレだから」

 異常な事態を前に振り切れてしまったテンションで、俺はうっかりそう答えてしまった。成立したようでしていないコミュニケーション。偶々歯車が噛み合っただけだ。

「……理解不能です。納得の行く説明を求めます」

「未来ならいざしらず、21世紀初頭の日本だとよくあることなんだよ、美少女が突然現れるなんてのは」

 フィクション限定だが。このやり取りになると、俺の頭にも欠片ほどの理性が戻り始めていた。ついでに、自分が全裸であることも思い出し始めていた。

「なるほど。いずれにせよデータ不足、ですか……」

 なぜか美少女は、俺の全身を舐め回すように見てからそう呟いた。

 何かのプレイですか?

 などと思う余裕もなく、俺は自分の股間を洗面器で隠しながら風呂場を飛び出て、そのままバスタオルを掴んで慌てて戻る。この辺の咄嗟の機転は、自分をほめてやりたい位だ。もうちょっと機転が働けば、自分のパンツを履いてくることも出来たのだが。

「……手術痕なし。少々貧弱ですが、十代男性の体型から大きな逸脱は認められず、ですか」

 状況変わらず。彼女の言うところの俺の貧弱な裸体は、バスタオルを少女の無遠慮な視線に晒される。身体を見まわして、彼女はそう言った。余計なお世話だ。

「それと……」

 いや、状況は悪くなっている。さっきまでは二人共全裸だったところを、今は相手がバスタオルを羽織っている。結果として、紳士的行為で逆に変態度が上がってしまった。

「何だ?」

 お返しとばかりに少女の顔を見つめ返す。彼女は戸惑い気味の表情をしている。何だろう……見たことの無い顔ではあるけれど、誰かに似ている気もする。

 だが、そうして密かに露骨に見つめあっていると。少女は視線を下げて、気まずそうに口を開いた。

「……少し、小さいですね」

「よくも人が気にしていることを!!」

 そして色々な意味で言ってはならんことを!

「えーと……すみません、背が低い、と言われていい気はしませんよね」

 …………

 ……何やら盛大な自爆をした気がするが、セーフ。

 俺も多少は落ち着きを取り戻していた。

 よく見れば、この女の子。

 ……綺麗だ。

 整った顔立ち。俺と同じか、僅かに高いくらいの身長。バスタオル越しでもわかる、無駄のない身体のライン。濡れて乱れた黒髪。微かに香る、甘い匂い。

 何の前提も無しに彼女と出会ったら、モデルか女優なのではないか、と思ってしまうと思う。それぐらい、華がある。

「……一つ、確認したいのですが。君の恋愛対象は女性ですか?男性ですか?」

 だから、そう言われて、一瞬だけ、ドキっとした。

 いや、これはあれだ。多分吊り橋効果とかストックホルム症候群とか、なんかそういう感じのやつだ。

 女性のハダカなんて、母親と画面の中くらいでしか見たこと無いし。そう、ハダカにドキドキしただけだ。

「女性です」

 俺は、緊張しながら答えを口にする。

 もっと言うなら、貴方のような。

 とは、流石に言えながったが……俺は別に「あっち」な趣味は持っていない。女装と同性愛は別の趣味だ。まぁ、仮に持ち合わせていたとしても、初対面の人間にいきなりカミングアウトはしないだろうが。

「そうですか……」

 考えこむ女の子。何だか安心したような、がっかりしたような。複雑な表情をしている。

「ひとまず、話が長くなりそうですから。ここから移動しましょう」

「ちょ、ちょっと待っててくれ!」

 俺は全裸だ。そして、彼女もバスタオル一丁だ。家の中とはいえ、色々不味い。

「服、持ってくるから!」

 俺は慌てて風呂場を駆け出す。

「えっと、服……」

 何か着る物を持って行かなければ。

 できれば女物の。俺のお古を貸すのは気が引けるし、第一そんなに予備がある訳じゃない。母親の服は何処にあるかわからないし、勝手に使ったら怒られる。

 寝間着ならまだマシか、今晩はジャージでも使えばいいし。と考えて。ベッドの上に目をやると。 

 ……

 …………あるじゃないか。女物の服。

 自分の機転を一瞬呪った。でも、女性ものの服で、一式揃っていて、勝手に使っても怒られなくて、しかも新品だ。

 悩んでいる暇はない。

 俺は、それを丸ごと掴んで風呂場へ駆け戻る。

「こ、これを着てくれ!俺は先に部屋に戻るから!」

「別に大丈夫ですよ?それに、貴方も裸です」

 揉み合う内に、出て行く機を逸してしまった。というより、出入口を塞がれた格好だ。うちの脱衣場は、片付けが苦手な母親のせいで狭い。俺が出て行くには、半裸の彼女の横を通らねばならない。

 彼女は俺に構わず着替え始める。何故だか追い詰められたような気分で、慌てて後ろを向く。覗く度胸なんてない。

「うーん……下着のサイズが合わないんですけど……」

 衣擦れの音。意思とは無関係に、耳を澄ませてしまう。

「そ、それしか無くってだな……!」

 俺の声は裏返っている。一応、俺も男なのだ。未来だと羞恥心はないのだろうか。倫理観が違うのだろうか。

 ……そうだ。俺も服を着ないと。

 服といっても、いつもの普段着。Tシャツとズボンだ。さっきまで女物に袖を通す決心をしていたせいか、なんだか拍子抜けな安心感がある。脱衣籠は、幸い風呂場の入り口近く。彼女に触れることなく手が届く。

 なるべく後ろを見ないようにしながら、脱衣籠からTシャツを引っ張りだし、無言で裏表を返す。作業をしている間は、後ろを気にせずに済む。

 まず靴下。次にパンツ、Tシャツを被り、最後にズボンを履く。

 着替えは、一瞬で終わってしまった。男物の服のパーツの少なさが憎い。

 そして。その後は必然、後ろの方へと注意が向く。 

 衣擦れの音。何かの金具を付け外しする音。

 自分以外の誰かの、風呂上がりの匂い。

 ……

 …………

 なんだこの空間!

「石だ。俺は石になるんだ……」

 精神統一。精神統一だ。心頭滅却すれば火もまたなんとやら。

「この、ウィッグは何でしょうか……」

 精神統一は、あっさりと崩壊した。

「あ、慌ててたから!お袋のやつだよ!後で戻しといてくれ!」

 うっかり、服だけじゃなくウィッグまで持ってきてしまったようだ。なんとか誤魔化すことに成功した、と思う。多分。俺の表情は見えていないだろうし。

「……えっと、着替え終わりました、よ」

 そう声をかけられて、ゆっくりと振り向く。そこに立っていたのは、

 妖精だった。現実世界に居てはいけない生き物だった。

 あの服、完全装備だとこんな風になるのか……と。そんなことを考えながら、俺には彼女を呆然と見つめることしかできなかった。

 しかし……フリフリだ。思った以上に、フリフリである。

 これを、あと一歩間違えれば……いや、正しければ。自分で着ていたのか。人間、ヤケになったときのテンションは恐ろしい。美少女が着ているから辛うじて絵になるが、これを自分が着ている姿を想像すると、だいぶ辛いものがこみ上げてくる。 

 これ以上はいけない。一度、仕切り直さなければ。


--------------

「コホン……知ってるかもしれないが、俺は角筈つのはずあきらだ」

 俺達は居間へと移動し、改めて自己紹介をしていた。眼の前には、クッションの上にちょこんと腰掛けたフリフリ姿の彼女。

 しかし……改めて見ても、可愛い子だ。

 でも、なんでだろう。こんなに可愛い子と二人っきりで向かい合っているというのに。


 あまりこう、ドキドキしないのは。恋のトキメキ的な意味で。

 さっきの一瞬のドキドキは、気の迷いだったのだろうか。

「はい。呼び方は、れ……玲さんで大丈夫ですか?」

「好きに呼んでくれ」

「改めて、初めまして玲さん。私の名前は愛璃子アイリスです。既にお話した通り、未来から来ました」

 ご丁寧に三つ指ついて挨拶をする、未来少女改め愛瑠子。日本人……だよな?この子。

「何のために?」

 まずは、そこだ。もしも目的が俺の裸体を観察するためだったら、死んでも死にきれない。

「順にお話しましょう。未来では、性別の定義を巡って大問題が起こっているのです」

 そんな俺の不満を他所に、愛璃子はそう切り出す。

「性別って……そんな大問題になるようなことがあるのか?」

 そういえば、同性カップルの扱いが云々とか、性別不適合が云々、みたいな話をニュースで聞いたような気もするが……確かに大問題なのかもしれないが、それと過去に戻ることがいまいち繋がらない。

「21世紀に入り、性別は多様化の時代に入りました。セクシャルマイノリティが市民権を獲得し、多様な性が許容される風潮が広まる一方……その変化を危惧する人々も居ました」

 記憶の底から、なけなしの知識を引っ張りだす。言われてみれば現代でも、程度の差こそあれ社会問題になっている事柄だ。テレビで以前、同性愛とか性同一性障害とかそういう人に関する特集を見た記憶がある。確か、それに反対する勢力というと……

「えーと、確か……宗教団体とか?」

「はい。方針こそ軟化はしていますが、本来大多数の世界宗教にとって同性婚はタブーなんです。それ以外にも、今までの社会が崩れるんじゃないかと考える人達は沢山いて……私のいた未来は現在、性別と社会の在り方をめぐって大変なことになっているんですよ。正直言って、あと一歩で第三次世界大戦が起こるレベルです」

 ……俺は、思わず頭を抱えた。

「ここまでは大丈夫ですか?」

「いや、うん……大丈夫だ。予想だにしなかった未来が待ち受けてて、ちょっと混乱してるだけだから」

 本当にこんな未来が待ち受けているのだろうか?と言っても、こいつの主張を確かめる方法は無い。

 ……よし。性別の定義が世界大戦に繋がることは、一万歩譲って、辛うじて良しとしよう。ここを認めないと、話が先に進まなそうだし。

「で、それとオレにどんな関係が?」

 だが、そこに一介の高校生である俺が絡む余地が見当たらない。

「……そうですね。本来の予定とはずれましたが、『君』に事情を知らせないことには事態は動かないですからね」

「なんか微妙に嫌な予感がするんだが」

「……コホン」

 何やら勿体ぶった様子で、愛璃子は咳払いを一つすると。

 カポっと、俺の頭に余っていたウィッグを被せて、

「あなたは近い将来、女装に目覚めます」

 ビシィ!と俺を指さして、そう言い切った。

「……うっ」

 俺は硬直した。自分のしようとしていたことを、見透かされたかのような。そんな気がしたからだ。

 いや、ばれては……いない筈。彼女が今着ている服の出処を知ろうとさえしなければ。少し考えれば、限りなく危ない橋だとわかる。というか、ウィッグが転がっている時点でアウトな気もする。

「そして女装した状態で原宿おそとを歩いているところをスカウトされ、アイドルデビュー。大ブレイクしてしまう」

「おい待て」

 何だか話がおかしな方向に転がり始めたぞ!?

「そして、人気絶頂の時、あなたは性別をカミングアウト。それが社会に一石を投じ、私の居た未来へと至る訳です」

 オーケーオーケ、落ち着こう。

 色々と端折られた気はするが、自分に関するところだけは異様にはっきりと分かった。

 つまり、俺の女装で未来がヤバイ。


 ……なんて。なんて、ふざけた未来だ。

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