第3話 彼女の部屋

 瀟洒な、という言葉をはじめて意識したかもしれない。

 未織の家はちょっと裕福そうな、そして上品な佇まいの一軒家だった。

 恋人になって二週間足らず。

 デートもまだ一回しかしていないのに、ご自宅訪問なんて、許されるんだろうか。


「じゃあ……どうぞ」

「うん。お邪魔します」


 未織がポケットから鍵を出し、ドアを開いた。

 あ。なんか、いい匂い……。よその家って感じ。

 綺麗な玄関だ。

 廊下に廃品回収に出す雑誌束とか、並んでないし。

 来客用スリッパとか、用意してあるし。

 ますます緊張する……。


「今日は、両親、留守だから。

 ……今日はっていうか、割といつも、共働きで忙しいの。だから、気楽にして」

「えっ、あ、うん。そうだね。いや、でも、無理かも。緊張するよ」

「わたしだって……。緊張してるよ」

「そ、そうなの?」

「うん……」


 俯いた未織の顔は、ちょっと赤い。

 お互いに緊張していて、余計に緊張して……、なんだかぐるぐるしている。


「と、とりあえず、入ろ?」

「あ、ごめん。お邪魔します。あの、これ、お土産。一応……」

「そんなのよかったのに。ごめんね、ありがとう」


 地元の駅で慌てて買った菓子折りを預ける。

 両親が居たらどうしようと思って、ろくに思考も働かないまま選んだものだ。


「お茶入れるから、二階で待ってて。階段上ってすぐのところが、わたしの部屋」

「うん、わかった」


 未織の部屋は、更にいい匂いがした。

 ここへ至って、妙に後ろめたい気分になる。

 誘われて来たっていうのに、なんだろう。

 下心があるのか? それで後ろめたいのか?

 だめだ。今日の目的は、絵を描くことだ。

 未織のデッサンを取りに来たんだ。

 目的を履き違えるな。未織はそんなつもりで招いたんじゃないんだ。うん。

 ……うん。なにかで気を散らそう。

 本棚くらい、見ても叱られないよね。


「おまたせ。お土産のお菓子、頂くね」

「あっ、わっ」

「あ。なにかいたずらしてた?」


 未織の言葉はからかい混じりだ。俺の取り乱しぶりを笑う。


「や、ううん、そんなっ。本棚、気になったから」

「あはは、冗談だよ。いいよ、見ても。

 あ、荷物、ベッドの上置いて。画材、重かったでしょ」

「わかった。ありがと。画材はいつも部活で運んでるし、平気」

「そっか。今日はごめんね、無理言って」

「ううん。約束だし」

「うん。……まずは、ちょっと、ゆっくりしよっか」

「うん」


 ローテーブルを挟んでお茶にする。しばらくとりとめのない雑談を交わした。



「……」


 デッサンを始めてもう……一時間くらいか。

 うーん。やっぱり、俺、人物上手くないな。静物画は好きなんだけどな。

 難しい。


「そろそろ、休憩、する?」

「かなたが疲れたなら。わたしはじっとしてるだけだから、平気だよ」

「そっか……。じゃ、もう少し」

「うん」


 でも、不思議だ。未織がモデルだと、静物画を描いてるみたいだ。

 ほんとにじっとしてる。疲れないのかな。でも、集中できてありがたい。

 クロッキー帳が未織で埋まっていく。

 好きな人をこんなにじっくり観察する機会って、ちょっと貴重かもしれない。

 今までも、隙あらば盗み見てはいたけれど……。

 ちっちゃい顔。ちょっと低めの鼻。バランスが難しい。

 でも目は大きくて、描き易い。

 ただ、誇張して描いちゃいそうなので注意が必要。

 口元を描くと、なんかドキドキする。

 今日の服は、丸襟のブラウス。夏らしくていいな。うん。

 うん、可愛い。……。


「ごめん。ちょっと休憩させて」

「うん、いいよ。あ、飲み物持ってくる」

「うん。お願いします……」


 ちょっとだめだ。気分転換しないと。

 あんまりじっくり見てたら、ちょっと誘惑されてきた。

 これは結構、大変な仕事なのかも。好きな人の絵を描く、って。



「はー、気分転換できた。紅茶、美味しいね」

「ママが凝ってるの、紅茶。わたしにはよくわからないんだけど」

「へー。うちの母さんとは無関係な世界だな。

 この時期ならパックの麦茶だよ。しかも一リットル用を二リットルで薄めるし」

「豪快なお母さんなんだね」

「がさつだよ、父さんのほうが掃除上手いんだ」

「へぇ、お父さん、器用なんだ。かなたは、お父さんに似てるのかもね」

「器用ってこと?」

「絵、上手だから」

「うーん。器用なのかなぁ、それって? 褒めてもらえて嬉しいから、まあ、いいか」


 笑いあって、お菓子を食べて、一息ついて。

 それからちょっとだけ、緊張感が降りる。


「……。じゃあ、再開しようか」

「あ、うん。お願いします」

「はい。こちらこそ」


 そうして俺は新しいページをめくって、未織はデッサン人形になる。

 気分が乗ると、いくらだって描いていられそうだった。

 未織の頬の曲線や唇の厚さを段々手が覚えていく。

 俺のものになっていく、そんな支配欲にもちょっとだけ浸った。

 つまり、この時間を楽しんでいた。


「……あ。ごめん。どれくらい経った?」

「ん、一時間とちょっと。集中してた?」

「うん。つい、夢中になってたみたい」

「ここから見てて、そんなかんじだった」

「ごめん。疲れたでしょ。でも、おかげで、ちょっと描きなれた」

「ほんと?」

「うん。今日はとりあえず、終わりにするよ」


 未織が立ち上がってスカートの皺を伸ばす。


「じゃあ、お茶、入れてくるね」

「あ、うん……」


 残されて、いつのまにか残り枚数の減ったクロッキーを改めて眺めた。

 描いている時は、そうは思わなかったのに、こうして冷静になって眺めると、へたくそだ。


「……」


 未織はがっかりするかもしれない。

 俺に絵を描いて欲しいなんて要望を取り下げるかも。見せたくないなぁ。

 ほどなく彼女は戻って来て、紅茶を注いでくれた。

 それから居住まいを正して「ねえ」と呼びかける。来た。憂鬱な時間だ。


「……絵、見てもいい?」

「あ、うん。 あー……あんまり、期待しないでね」

「ううん、するよ」


 意地悪でもなく言うのが憎い。


「はい、どうぞ」

「わぁ」


 クロッキー帳を受け取って表紙を開く。

 絵を見つめる嬉しそうな顔を、今だけは素直に喜べない。

 なんだろう。体が重い。技術不足を実感しただけじゃなくて……。

 絵を描くことは、別れを近づけさせること。

 そう意識すると、体が潰れそうになる。

 嫌だな。描きたくない。だけど、これが約束だ。

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