額装少女
詠野万知子
第1話 海の書架
かたん、かたん。かたん……。
申し訳程度にクーラーがきいた埃っぽい図書室に、書架に本を入れる音だけが響いている。
かたん、かたん。
重たい紙の束と木製の書架の衝突音は、無骨というほどでもなく、どこか柔らかみを帯びているように思う。
図書室にはいつもより生徒が訪れて、明日からの長い休みに備えて資料や文芸本を借りていく姿が見受けられた。
夏休みの間は、いつもと違って休みの間中の貸し出しが認められる。
その長さ、一ヶ月半。いつもの三倍だ。なんとなく、心が躍らないかな?
俺だって、いつもなら、長い休みは大歓迎だ。でも、今年はそうじゃない。
「海の生き物、好き?」
「え? あ、うん。木下さんも?」
俺の隣で書架整理をしている木下さんは、今、海の生物や科学を扱う棚に行き着いたようだ。
海の写真が表紙を飾る冊子を手にしている。
海の青は、涼しさを通り過ぎて厚ぼったく、圧迫感があった。
「うん。好き。海の生き物って、見てると楽しいの」
「あ~。確かに、クラゲって見てて飽きないな」
「うん。可愛いよねっ。キレイだし」
木下さんの繊細な指が分厚い図鑑に触れる。
俺はずっと、吸い寄せられたみたいに、砂浜のきれいな白亜の珊瑚みたいな木下さんの指先に目を奪われていた。
木下さん。木下
俺のクラスメイトで、おなじ委員会の仲間だ。
そして俺は本音で言うと、それ以上の関係になることをいつからか憧れていた。
「あ、それ、持つよ。重いでしょ」
「いいの? ありがとう」
「女の子には重いでしょ」
カラー図鑑を受け取って抱えなおす。
とても木下さんには任せられないような重量感だ。
「図書委員って、案外力仕事だよね分担しよう。重いの俺。軽いの木下さん」
「うん」
頷くと、木下さんのきめ細やかな髪がふわんと揺れて、俺の心も浮き足立った。
きれいな髪。触ってみたいと思ったのは一度や二度じゃない。
「……にしてもさ、夏休み前日にこんな仕事入れるなんてさ、図書委員も案外楽じゃないよな」
「そうかもね。でも、わたし、こういう作業キライじゃないよ。
……って、重たいの任せちゃってるから楽してるのに、わたしが言えることじゃないね?」
「いいって、こんなの重たいうちに入らないよ」
と言いながら、木下さんに頼もしいと思ってもらえたかどうか、気になって俺は落ち着かないのだった。
俺たち図書委員に課せられた仕事。
それは、一度空っぽにした本棚に、本を並べ換える作業だ。
蔵書の数を確かめること、蔵書を所定の位置へ正しく収めることが目的。
この作業は一年に何度か行われて、長期休暇の前には必ず入れられているのだ。
たまたま夏休み前日のシフトに、俺たち二年C組の委員が当たってしまったのだ。
俺はこの仕事を、終わらせたくない。
終わると、夏休みが来てしまうからだ。
「香村くんは、夏休み、どこか行く?」
「うーん。どうかな。あ、部活の合宿がある」
かたん、かたん。
「美術部の合宿? 絵を描く合宿?」
「そう。えーと、長野県だったかな。大きな樹があるから、それを描くんだって」
かたん……。
会話の間を、小気味良く、本が書架を打つ音が響く。
「へえ。大きな樹、いいなぁ~」
「登山するんだよ。絵を描くのに、わざわざ」
「でも、きっと、気持ちいいよ」
「そうかな? そうかも。楽しんでくる」
「うん」
かたん、かたん。
重たいものを木下さんから取り上げて、木下さんの手の届かない段へと収める。
かたん、かたん。
「木下さんは? どこかへ行く?」
「家族旅行だけ。毎年、温泉街に出かけるの。今年は有馬温泉」
「へぇ~! 渋いな。意外」
「みんな好きなの。旅館とか、あと、ご当地もの」
「いいね。楽しそう」
かたん、かたん。
書架が埋まるたび、俺と木下さんの距離も縮んでいるのでは、と錯覚してしまうほど、会話の弾みが楽しかった。
「おみやげ、買って来るねっ」
「うん。……あっ!」
本棚がぴっちり埋まった。
俺たちが担当する区分はこれで終了だ。
「うん?」
「ううん。なんでもない」
仕事は終わり。もう、家へ帰ってもいい。晴れて夏休みだ。
夏休みが待ってるのに、俺がこんなに憂鬱なのは、木下さんのせいだ。
「あ。仕事、終わっちゃったね……」
「そうだね。俺らの担当部分はキレイになった」
「夢中になっちゃった。本棚の整理って好きだな」
「ああ、分かる! なんか、この、きれいにそろった背表紙の感じ」
「ね。達成感。気持ち良い~っ」
「うん」
本棚を眺めてみる。ぴしっときれいに背表紙がそろっている。
海の科学に関わる部分だからか、青みがかった色が多い。
さっきまでは乱雑に並んでいたから気づかなかったけど、整頓すると一目瞭然に、海の本たちだって分かる。
「じゃあ、帰ろうか」
「あ……うん」
夏休み中、木下さんと会う口実なんてないよな。
図書委員の仕事は終わっちゃった。部活も違う。お互い補習もないし。
そうなると、九月まで、会えないんだ。
……嫌だな。
「あのさ。木下さん」
「なに?」
こっちを振り返る、木下さんの長い髪がまたふんわりと揺れ、胸元へ落ちる。
生まれつきに色素の薄い茶色っぽい髪を、木下さんは無意識に、控え目な仕草で肩の後ろへ払った。
「えっと。あのさ……」
……俺、何を言おうとしたんだろう。
咄嗟に、引き止めてしまった。
木下さんがじっと見上げてくる。
その不思議そうな眼差しに、余計に何も言えなくなる。
――良い夏休みを。おみやげ楽しみにしてる。
――事故に気をつけて。夏風邪ひかないように。
そうじゃなくて……。
「好きなんだ。木下さんのこと」
え? という顔をする、木下さんの無防備な唇が可愛かった。
そう思うと、改めて木下さんのことが好きだって気持ちで頭がいっぱいになる。
「一年のときから気になってた。……俺と、付き合ってくれませんか」
時が止まったみたいに木下さんの表情が固まっている。
もう、このまま逃げようか。
答えを聞くのが段々怖くなってきて、体中が冷え切って、それなのに汗が噴出している。
「……」
木下さんは、こっちをじっと見ている。
思考停止してるのかな。
言葉の真偽を探るような、まっすぐな眼差し。
それに射抜かれて、どきっとする。
だけど自分の言葉が真実だという自信があるから、見つめ返した。
勇気が続いたのは一瞬だけだ。
「あのっ、ごめん、今すぐ答えなくていいから……」
「いいよ」
「えっ?」
「いいよ。付き合うの。だけど、条件があるの」
「え?」
「あのね。わたしの絵を、描いて欲しいの」
一歩、木下さんが歩み寄った。
ふいの接近に胸がバクバクして、だけど本当はもっと近づいてくれることを期待している。
「付き合うのは、それが出来上がるまでの間だけ」
もう一歩。期待通りに、木下さんは足を踏み出した。
「絵を描くことは、二人だけの内緒。……それでも良い?」
パニック状態の俺の頭が理解できたことは二つ。
付き合ってもらえること。ただし、絵を描くこと。
「えっ、……絵? うん! 良いよ。描く!!」
「約束ね」
「あ、うん……!」
木下さんが小指を差し出す。気づけば自分の小指を絡めていた。
彼女の小指。
白亜の珊瑚を思い起こす、ちょっと冷たい指。
クーラーで冷えたのかも。
「あのね……わたしも、好きだよ。香村くんのこと。ずっと、本当は、好きだった」
「ほっ、本当っ!?」
「うん。だから、嬉しい」
頷いた拍子につむじが見える。小さな頭。髪の毛、つやつやだ。
片想いだと思ってた。嬉しい、だって。その言葉が嬉しい。
心臓がまたバクバクしてる。
だけど、さっきと全然違う。ほっとした、ような。
今すぐ全力疾走したい気分もあって、でも、このままずっと小指をくっつけていたいような……。
「あっ、ごめん……」
って、指、繋いだままだった。
「あっ、ううん」
「あのさ。あの……、これから、よろしくね」
「うん。こちらこそ」
握手を求める。応じてもらえた。
はじめて握る、木下さんの手。
小さくて、薄くて、なんか、折れそうで怖い。
触れてるともっと胸がばくばくして、もう、限界だ。
「と、とりあえず……帰ろうか」
「うん、そうだね」
こくん、と頷く。
それが可愛くって、うわぁ、もう。なんか、もう。うわぁ。混乱してきた。
俺、付き合うんだ。
木下さんと、恋人になるんだ。
何度も思い描いたみたいに。それが、現実になったんだ。
だけど――あれ? なにか引っかかる。何だっけ。
条件?
絵を描き終わるまで?
絵を描いている間だけ、付き合うって……一体、どういうこと?
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