神上店長の文化人類学

梅屋 啓

詐欺師の老婆

1-1

大理石調の白いカウンターを挟んで、天野香苗あまのかなえは老婆と対面していた。腰が曲がっている所為か実際の身長より二十センチは小さく見える。年齢は八十代半ばか、もしかしたら九十を超えているかもしれない。耳がかなり遠いらしく、かなり顔を近づけて話しかけても同じことを二度三度繰り返す必要があった。老婆の瞳が分厚いレンズのはめ込まれたメガネの向こう側から、瞬きすることを忘れてしまったのではないかと思うくらい、じっと香苗の目を見つめたまま数十秒が経過していた。この難局を如何にして乗り越えるのか。これは神様が与えた試練。さらなる成長への布石であると、そう自分に言い聞かせて納得という名の諦めを決めた。香苗は幾度となく投げかけた質問を、言葉を慎重に選びながら、大きな声でゆっくりと発した。

「セットのお飲み物は、温かいお茶で、よろしいですかー」

 老婆は香苗の言葉を、その硬くなった鼓膜から脳内へゆっくりと流し込むと、数秒のタイムラグを挟んで小さく頷いた。

「そうそう。お茶がええわね」

「温かいお茶は、紅茶か、ハーブティーになりますが、どちらがよろしいですかー」

 老婆は再び数秒のタイムラグを挟んで、今度は首を傾げて眉をひそめた。

「紅茶ってのはどんなお茶だったかね」

 今日一番の難問が飛び出した。試されているのだろうか。紅茶とは何か。その歴史やら製法を説明してほしいということなのか。それとももっと哲学的な答えを求められているのか。紅茶の味について説明せよ、と解釈すべきなのだろうが、あまりに身近な飲み物であるが故に、その味わいについて明確に説明する言葉を香苗は今までの人生で考えたことなどなかった。老婆の後ろに伸びる長い行列に一瞬だけ視線を送る。五人並んでいた。アンケートによると、ファーストフードに入店してから注文を受けてもらうまでに待てる時間は平均二分らしい。手元のレジ画面の片隅に目をやると、オーダータイムをカウントするタイマーが五分以上経過していた。ファーストフードにおけるオーダータイムは注文開始から商品のお渡しまで平均二分。倍以上の時間をこの老婆に費やしている。仕方のないことであるため、イライラすることはなかったが、この遅々として進まない状況に耐えきれず帰って行くお客様に対しての申し訳なさと焦りのメーターが香苗の中で徐々にレッドゾーンに入り込もうとしていた。

「お客様でしたら、紅茶の方がよろしいかと思いますので、もし、お口に合わなかったら、言ってください」

 苦渋の決断であった。最後までこの老婆の希望をはっきりと聞き出すことができなかったのは失態であると香苗は恥じた。ただ結局のところお茶であれば何だって構わないのだ。香苗の働くファーストフード店ラピッドバーグにはダージリンティーの他に三種類のハーブティーが用意されている。紅茶と言いつつそのいずれかのハーブティーを提供したところで、この老婆は何の疑いもなく飲み干して帰るだろう。正直、時間対効果の薄いやり取りをしている自覚はあったが、サービス業に従事する者のプライドとしてそれを許すことは香苗にはできなかった。

 ランチタイムの仕事を終えて休憩に入った香苗が溜息混じりにタイムカードを打刻すると、事務所の奥から店長の神上崇平こうがみしゅうへいが顔を覗かせた。

「お疲れさま。休憩?」

 午後からの遅番出勤に備えて制服に着替え終わった神上は、読み終えた業務日誌をそっと閉じると香苗の疲れ切った顔をまじまじと眺めた。香苗の働く店舗に神上が店長としてやって来たのは、つい先月のことだ。年齢は三十二だと言っていた。店長としては中堅クラスで、業務も卒なく淡々とこなし、新しい店舗にもすぐに慣れたようだった。感情の起伏が少なく、いつも優しい口調で話しかけてくるが、厳しい言葉もさらっと口にするので気が抜けない。

「お昼、大変だった?」

 神上の言葉に香苗の脳裏を先ほどの老婆がふと過った。

「いえ、お婆ちゃんの対応でちょっと手間取ってしまって」

 香苗がそう言うと神上は「へえ」という表情を作って、くすりと笑った。

「このお店さ、高齢者のお客さん多いよね。前に任されてた店はサラリーマンばっかりだったから、ちょっと変な感じ」

「ここって近くに大きな病院と介護施設があるんですよ。バスに乗って病院に行く人も多いですし、年配の方の散歩コースにもなってるみたいです」

「ああ、なるほど。そういうことか。一度ちゃんと商圏調査もやらなくちゃいけないな」

 そう言って神上は事務所に設置されたモニターに目をやった。防犯の為に設置された監視カメラがリアルタイムに今のカウンターの様子を映し出している。香苗の苦労ぶりも、もしかしたら神上に全て見られていたかもしれない。しばらくモニターを見つめていた神上が、ふいに眉をひそめて画面に顔を近づけた。

「どうかしましたか?」

「いや、なんかカウンターでもめてるみたい」

 神上がそう言ってモニターを指さした。香苗もモニター側に回り込んで画面を確認した。カウンターの外側に小柄な年配の女性客が来店していた。汚れた小さな安物のカートに手を添えて、かろうじて直立姿勢を保ちながら、主婦のパートスタッフに何事か伝えていた。裾のほつれた服に身を包み、新聞紙をくしゃくしゃに丸めたようなその顔を香苗はよく知っていた。

「店長、すぐに行った方がいいですよ」

 香苗がそう言うと、神上は頭の上に疑問符を浮かべて香苗の顔を見た。

「何かあるの? この人」

「多分、詐欺ですよ。今日も」

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