花の香

@rain-bow

花の香

「……夜風は冷えます。お風邪を召しますぞ、義経さま」

「ああ、弁慶か」

 この数日、厄介になっている旅籠の一室。その窓際で、肩から浴衣を羽織り、中は褌一枚以外に何も着ていない義経が、星明かりを眺めながら酒杯を傾けていた。

 秋も深まり、夜の風は冷たい。このような格好でいては、風邪を引くだろう。

 だけれど義経は、そんな弁慶の心配などどうでもいい、とばかりに窓際から動こうとしない。

「弁慶もおいでよ。一緒に飲もう」

「お戯れを。この身は義経さまを守るためにあります。深酒などするわけには参りません」

「たまにはいいじゃないか。せっかくの旅籠だってのに、遊女の一人も来やしない。手酌酒というのも寂しいものだよ」

 ふぅ、と義経はやや酒気にあてられた溜息を吐く。

 戦を終えて凱旋する道中。折角だし羽を伸ばしていこう、とこの旅籠にやってきたものの、夜の伴に遊女がやってきたのは、初日の夜だけだった。それ以降は、全くと言っていいほど来ない。

 それもそのはずだ。弁慶にしてみれば、その理由など一目瞭然である。

 義経は、美しい。

 艶やかな黒髪を後ろに流し、端正な顔立ちに憂いを帯びたその造りは、まさに芸術品だと言っていいだろう。戦場での働きからは考えられないほどにその体つきは華奢で、黙っていれば少女のようにも見える。

 どんな遊女であれ。

 自分よりも遥かに美しい者を相手にしては、萎縮するものだ。

 そのためか、口さがない旅籠の者からは、義経が弁慶の男娼である、と噂をされているほどである。

「では、酌のみ。そちらは冷えますので、囲炉裏の方へ」

「僕は星を見たいんだよ」

「星など珍しいものでもありますまい。動かぬ夜空を見て、何が楽しいのですか」

 弁慶はやや眉根を寄せて、そう告げる。

 だが、そんな弁慶の言葉に対して、義経は可笑しそうに笑った。

「星空を眺めるのが、そんなに不思議かい? いつも一緒じゃないよ。季節によって変わる空は、見ていて面白いよ」

「ふむ……某には、同じにしか見えませんが」

「教えてあげるよ。弁慶、こっちおいで」

 ぽんぽん、と義経は自分の隣を手で叩く。

 その仕草に、胸が高鳴るのが分かった。まるで伴侶であるかのように、そこを示してくれる――それは義経の、弁慶に対する信頼の現れだ。それ以上の意味などない。

 だけれど、そこに感情を伴わせてしまうのが、弁慶の悪癖だった。

「……それでは、失礼します」

 窓際の、まるで義経に触れるのではないか、とさえ思える距離。

 ごくりと唾を飲む。扇情的なその姿は、限りなく弁慶の心を乱すけれど、それを表には出さない。

 ただ、この胸の高鳴りが聞こえてしまうのではないか。

 弁慶は誤魔化すように、星天を見上げる。

 今宵は月が隠れ、星々がそれぞれ儚い自己主張をしながら輝いていた。

「ね、弁慶」

「なんでしょうか?」

「美しいと思わない?」

 どきりと、心臓が跳ね上がる。

 そう言った口元が、星を眺める横顔が、そして扇情的な裸体が。

 まことに、美しい――。

「……はい。美しいと思います」

「そうだろう?」

 意見を共にしたことが嬉しいのか、そんな風に義経は微笑んだ。

 その微笑みもまた、美しい。

 くいっ、と義経が酒杯を傾ける。それと共に、杯の中身は空になった。弁慶は何も言わず、ただ徳利を取って空の器へと注ぐ。

 ああ――。

「人は、死んだ時星になるのだ、という話を聞いたことがあるよ。僕が戦場で殺した相手も、この星々の一つになっているのかな。そして、僕も死んだらあの星の一つになるのかな」

 どうして、このお方からはこんなにも。

 芳しい、花の香がするのか。

 いつまでも味わっていたくなるほど、深く甘い香り。それは熱を孕んでいるかのように、弁慶の心を打って放さない。

「弁慶」

「はい」

「こんな夜は……あの日のことを思い出すよ」

「あの日……ですか?」

「ああ。君と初めて出会ったのも、こんな月のない夜だった」

 そういえば、と弁慶は星空を見上げる。

 千本の刀を集めてみせる、と誓いを立てて五条大橋に立っていたあの夜。弁慶と義経は初めて出会った。

 奇しくも、義経は千人目の敵だった。

 もう一本で己の誓いを果たせる、と意気込んだあの夜――そして、同時に弁慶が義経に心奪われた日。

「あの時は、驚いたよ。弁慶が僕に仕えてくれるなんて思わなかった」

「某は義経さまに負けました。命を奪われなかったならば、この身命を賭して仕えるまでです」

「でも、あの時の僕は稚児だった。こんな子供に仕えるなんて、武蔵坊弁慶の名が泣くんじゃなかったのか?」

「……そんなことを言いましたかな」

 義経の言葉に、とぼけてみせる。

 千本目の刀を求め、決闘を挑んだ弁慶に、義経は言ったのだ。

――僕が負けたら、この刀はあげよう。だが僕が勝ったら武蔵坊弁慶、君は僕の家来となれ。

 稚児の戯言。そう、弁慶は鼻で笑った。

――貴様のような稚児に仕えるなど、武蔵坊弁慶の名が泣くわ。されどその意気や良し。貴様の負けに、刀と命を貰おうぞ。

 思い出しても、恥ずかしいほどに自信に溢れていた。あまりにも、慢心しすぎていた。

 義経はこれまでに相手をした九百九十九人の誰よりも強く、速く、そして美しかったのだから。

 弁慶の天狗の鼻は折られ、そして部下として召し抱えられた。

 元は、ただの盗賊――それを、義経は己の側仕えとしたのだ。

「弁慶は覚えていないの?」

「……それは」

「僕は覚えているよ。弁慶のことは、全部覚えてる。きっと、これから先も忘れることはないだろう」

「義経さま……」

 気恥ずかしくなり、つい視線を逸らす。

 どうか、この胸の高鳴りが聞こえませんように――そう祈って、嘆息。

 こんなにも側にいるのに、だが弁慶には遠い距離。

 義経は弁慶の仕える主人であり。

 弁慶は義経に仕える部下なのだ。

 身分の差は、決して埋まらない。

 ぎゅっと拳を握り締める。

 そこで――。

「――ひゃっ!?」

「どこ見てるのさ、弁慶。話している相手は、僕だよ」

 窓際に長く居過ぎたのだろう、義経の冷えた指先。

 それが、着物の袂から弁慶の胸へとするりと伸び、弁慶に触れていた。

 白魚のような細い指が、氷に浸していたかのように冷たくなり。

「弁慶は、あったかいねぇ」

「……お戯れを、義経さま。寒いのでしたら、囲炉裏にあたってくだされ」

「ううん、僕は弁慶に暖めてもらいたいんだ」

 どきり、と心臓が跳ねるような感覚。

 言葉の一つ一つに、どうしようもない色気を孕む義経に、心臓が早鐘を打って止まらない。

 そんな、弁慶の早鐘が鳴る胸に。

 今、義経が触れている――!

「……弁慶」

「も、申し訳……」

「すごく、どきどきしてるね。どうして?」

「うっ……!」

 知られたくなかった。弁慶のこんな、後ろ暗い気持ちなど。

 主人に対して劣情を抱く時点で、部下として不埒に過ぎる。しかも、自分たちは男同士だというのに。

 義経は、きっと自分を軽蔑するだろう。

 気恥ずかしさに頬を真っ赤にしながら、弁慶には俯くことしかできない。

 だが。

「弁慶」

「義経さま……申し訳、ありま……」

「ほら」

 義経の、冷たい左手。それに、弁慶の右手が触れている。

 それはゆっくりと、義経の裸体――その左の胸へと、触れた。

「っ!? 義経さま!?」

「ほら、弁慶。僕の鼓動、分かるかい?」

 冷たい肌から、弁慶の掌へと伝わる鼓動の揺らぎ。

 それは、弁慶と同じように。

 強く、脈打っていた。

「……義経、さま」

「僕も、どきどきしてる。弁慶と一緒だね」

「な、ぜ……」

「その理由は、きっと僕も弁慶も同じだと思うんだ」

 かーっ、と頭に血が昇るのが分かった。

 甘く蕩けるような言葉と、芳しい花の香。そして――星天よりも輝く双眸。

 その潤んだ瞳に、弁慶を映しながら。

 ゆっくりと、その吐息がかかるほどに、その距離は近くなり。

 そして、その柔らかな唇が、弁慶のそれと重なった。

 狂おしいほどの歓喜と、理解しがたい喜悦が心を渦巻く。

 義経さま。

 義経さま。

 義経さま――!

 瞳を閉じた義経が、ゆっくりと離れる。刹那の口づけ。されど、弁慶にはそれが那由他の時にすら感じられた。

「ねぇ、弁慶」

「は、い……義経、さま」

「ここの旅籠の、口さがない輩はさ……僕を、弁慶の男娼だと思っているらしいよ」

 その、桜色の唇から目が離せない。

 どうしてこんな――そう、混乱の渦中にあるまま、義経は続けた。

「本当に……しよっか?」

 狂おしい欲望に、必死に栓をしているというのに。

 義経は甘美な果実を思わせる吐息で、そう誘ってくる。

 それ以上、彼らに言葉はいらず。

 劣情と欲望のままに、彼らは体を重ねた。まるで反動のように、狂おしくお互いを求め合う。

 ただ、甘い吐息と、甘い言葉。

 そして、甘い花の香だけが、漂っていた――。

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