『一週間小説コンテスト』作品集

宇呂田タロー

お客様はお一人様では無い inside the bar……

 シャッター通りに、冷えているからか、一人分にも関わらず、やたらと足音が響く。

 四角く区切られた星々も、私と同様に身を震わせて見えた。

 少し背の高い建物共はどれものっぺりとした無表情で、どうも温かみに欠けている。

 『暖が欲しい』、私の要求は、唯々それだけだった。

 薪をくべた暖炉、上質のアルコール、とっぷりと煮込まれたシチュー。

 どれか1つでも良い。どれか2つあればより良く、全部あれば最上だった。

 悴む手を摺り合わせながら駅へと向かう途上だった。

 大通りと交差する十字路で、一際大きな風に煽られた。『びょう』、と音のする烈風だ。

 外套と帽子が風と共に飛んで逃げようとするのを、押さえつけるのに私は精一杯。

 気がつけば、私は街灯のポールに足を絡ませしがみついていた。

 さながら舞台上の踊り子のような、珍妙な有様だった。

 「ふぅ」、とにわか嵐が過ぎ去ったことに、安堵のため息をつく。

 白煙のごとく湯気で染まった空気が、肺の腑から立ち上った。

 3月ももう13日。春も近いというのに、夜の空気は冬に戻ってしまったかのようだった。

 白い息の行き先を追った目が、とある点で止まった。

 街灯の向こう、大通りの反対側、コンクリートのビルとビルの隙間。

 その隙間に、無理に割り込んだような格好で、細長く白い建物が挟まっていた。

 地階のところにはドアがあり、ドアの上には看板がある。

 どうやら何らかの店舗らしい。乾燥した空気に目をしばたかせながら、看板を睨み付ける。

 擦れたペンキに辛うじて『バー』と文字列が読み取れた。

 腕時計の指す時刻は10時5分前。終電までは過分な程の猶予がある。

 冬の残り香からの避難と、駅までの燃料の補給。大義名分は充分だ。

 歯の音を鳴らしながら、私は足早に大通りを渡った。

 古枝を削りだしたような取っ手を引くと、涼やかな金属の音がする。

 南部鉄器だろうか。洒落たドア鈴だ。


「おや、いらっしゃいませ」


 狭い店だった。飴色の一枚板のカウンターに、空の椅子が6つ。

 入り口から見えるのはそれが全てだった。


「まだ、やってるかい?」


 そう問いながら、私は既に店の中に入っている。

 今更、ラストオーダーは過ぎたと言われてももう遅い。

 私は最早、『お客様』の気分になってしまっているのだ。

 何の熱量も得ないまま、冷たい世界に舞い戻るなど、どうしてできようか。


「えぇ、どうぞどうぞ。お好きな席へ。外は冷えていますか?」

「春未だ遠く、って感じですね」


 とは言え、扉を閉めてさえしまえば、冬の気配は完全に遮断された。

 柔らかい甘夏色の間接照明の中、暖かな空気が私を包む。

 しかも、何やら良い薫りがした。少し酸味のある、深い薫りが。


「それはお気の毒でした。どうぞ、コートはこちらでお預かりいたします」

「ありがとう――ここって食べ物もあるんです?」


 奥の方の席に落ち着き先を決め、店主に外套を渡しながらカウンターの中を覗き込む。

 秩序立てて並べられた酒瓶の棚、カクテルなどを作るのであろう金属製のカップ類。

 そうした物に囲まれ、私はお目当ての物を見つけた。

 入口側のカウンターの端、やや小ぶりな寸胴鍋。あれが薫りの正体だろう。

 少し蓋が開いていて、そこからお玉だろうか、調理器具の取っ手が突きだしている。

 鍋の下では、瓦斯の小さな火種が、じっくりと内部を熱しているようであった。


「あぁ、申し訳ない。チョット匂いますよね」


 私の視線に気が付いたのだろう。店主がすまなそうに眉を下げた。


「いやいや、入ったときから良い薫りだなぁ、と……デミグラスソースですか?」

「それより良いものですよ。よろしければ、試してみます?」

「是非」


 店主が言い終わらない内に、私は短い二語の返事を返す。

 ここまで素直な返事をしたのは、小学生低学年以来かもしれない。少し気恥ずかしくなった。


 「では、お待ちくださいませ」


 そう言いながら、店主は私の外套を、酒瓶の棚の脇の鉤にかける。

 寸胴に向かいながら、店主は一本の酒瓶を取った。

 白亜の筒に入っていた、緑色の瓶だ。そこから、琥珀色の液体をショットグラスに注ぎ入れた。

 店主はそれをカウンターの一番入り口近くの席に置く。

 寸胴近くに用意してあったボウルに、鍋の中身を盛り付け、私に運んだのはその後だった。


「どうぞ。イギリス風シチューです」

「なるほど、コイツは美味そうだ」


 とろみのある赤銅色が、白いボウルによく映える。何よりもその湯気だ。

 セロリと、トマト、あとはタマネギと、確かローリエだったろうか。

 ともかく、普段は入れないような、デパート上のお高い洋食屋の薫りがする。


「いただきます」


 先の丸いスプーンをボウルの中に入れると、ゴロンとした感触に行き当たる。

 どうやら、早速、大きな肉の塊に当たったらしい。

 引き上げてみると、果たして、期待にたがわぬ大物がスプーンの上にいらっしゃった。

 自然と顔が綻ぶ。久々に『肉』、とした肉に出会えた気がした。

 二口、三口と分けるのは、お上品かもしれないがコイツには無粋というものだろう。

 よって私はこれに、目一杯に大口開けて応えることにした。

 滴り落ちるソースは気にしない。どうせ今日は年度末の金曜日だ。

 ワイシャツが汚れれば、クリーニングに出せばよい。

 少し前のめりになりながら、スプーンごと頬張り、口の中に押し込んだ。


「ハフッ」


 ほどよい熱気が、鼻に抜ける。

 洋食屋の香りが、塊となって私を満たしていく。

 追撃をするように、肉の塊に歯で挑む。程好い弾力と、繊維の切れる感触。

 『あぁ、自分は肉を食べているんだ』と自信をもって言える、肉らしい肉だ。

 スープとよく絡んだ肉の脂の良い香りが、私の血肉となり流れていく。

 胃袋がそれを迎え入れ、暖かさが体の内側から生まれていく。

 『美味い』、と表現するよりも、『幸せだ』と表現するのが適切だろう。

 そんな豊かな気持ちが溢れていた。


「いかがですか?」

「美味しいです、すごく。普通の肉なんですか?」


 店主の差し出したお冷を手元に引き寄せながら、私はそう聞いた。

 どことなく、食べ覚えのある牛肉とは違うような気がしたのだ。

 最も、近頃は牛丼程度しか食べていないので、ちゃんとした『肉』はお見限りだったのだが。


「どこにでもある肉は肉ですよ。部位は色々入れておりますが」

「部位?」

「スジ肉とか、あとは内臓、いわゆるモツですね。コクがすごく出るんです」

「モツかぁ。処理が大変じゃないですか?」


 ふと、安居酒屋で食べたモツ煮込みを思い出す。

 アレはアレで美味かったが、キツめの焼酎で流し込まなければならないほど臭みがあった。

 内臓系は処理が大変なのだ。

 

「新鮮なモノが手に入れば、そこまでは」

「鮮度でそんなに違いますか」

「大違いですよ。ですから、新鮮な肉が近場で手に入ったときだけですね」


 なるほど、と頷いて、もう一口。

 様々な部位の肉から抽出されたであろう味わい深いコクと、野菜の甘み。

 香草の苦味や辛味がそれらを際立たせ、最後にトマトの酸味が全体をまとめあげる。

 何口でも、放り込む度に目尻が下がる、そんな味だった。


「何か、お酒は飲まれますか?」

「っと、すみません。そうだなぁ――」


 あまりに食べるのに夢中になっていたからだろう。

 店主にそう言われるまで、ここが酒場であったことを失念してしまっていた。

 酒瓶の棚をぐるっと見渡してみる。

 背の低いのやら、高いの。色は青や茶、透明のもあれば、珍しい陶器のものもある。

 ラベルはどれも外国のもので、一瞥しただけでは何かまで判断できない。

 目移りをしていると、ふと、最初に店主がカウンターに置いたグラスが気になった。

 暖かい室内で少しアルコールが蒸発し、目減りはしたようだが、客もいないので、そのままだ。


「そういえば……あの席、何か云われでも?」

「え?あぁ、『天使の取り分』ですか」

「天使?」

「そう、『天使の取り分』。元々は、ウィスキーなんかを作るときの言葉なんですがね」


 そう言いながら、店主は、磨いていたグラスを脇に置く。


「昔、ウィスキーを熟成中に、蒸発して目減りした分を『天使が勝手に飲んだ』と言ったそうでしてね」

「へぇ。むしろ悪魔的ですね。勝手に飲まれるなんて」

「ま、それは物の見方ですよ。現実はどうあれ、幸せに見える方が良いではありませんか」

「なるほど……で、それとあの席にはどういう関係が?」


 そう問うと、店主は、困ったように少し笑った。


「昔……と申しましても2003年ですから――あぁ、でももう12年も前ですか」


 そう、昔を懐かしみながら、カウンターの中の流し台の淵に手を置いた。


「この店を開けたころは、会員制と言いますか、言わば『一見様お断り』だったんですね」

「あぁ、誰かの紹介が無いと入れない、と」

「そうですそうです。落ち着いた雰囲気を作りたくてね。でも――少し、失敗でしてね」

「失敗、ですか」

「そうなんですよ。銀座の一等地とかならともかく、ここらは官庁街で夜も早いですしね」


 その静かさが気に入ってはいたのだが、と店主は言いながら、続ける。


「『一見様でも歓迎』にして、チラシも配ったりしたんですが、客足はなかなか伸びませんでした」

「へぇ……」


 確かに、私もこの辺りは仕事帰りで通りはするが、こんな店などあったことすら気づかなかった。

 場所もあまりよくないのだろう。駅から少し離れており、目立ちにくい。


「そこで、物は試しってことで、いわゆる『神頼み』ってのをしてみたんです」

「神頼み、ですか」

「あぁ、そんなカルト宗教じみた話でも無いんで、ご安心ください」


 私が怪訝な表情をしていたのに気付いたのだろう。

 店主が慌てて言い添える。


「『天使の取り分』って言うぐらいだから、天使もお酒が好きだろう、と思いましてね」


 そう言いながら、店主は、最初に取り出したのと同じ酒を、酒棚から取り出した。


「で、こう祈ってみたんです。『客を連れてきてください。貴方の分もお酒を出しますから』と」

「ははぁ~、なるほど、ということは……」

「そう。言わば、あそこは『天使の席』。お客様は『天使のツレ』と言う訳ですな」

「私は『天使』に連れてこられたわけですか」


 そんな言われ方をすると、少し気恥ずかしい気もする。

 しかし、美味いシチューにありつかせてくれたのだから、そこは『天使』には感謝せねばなるまい。


「と、失礼を。お酒の御注文はいかがなさいます?」

「そうだな……」


 そう言いながら、私は店主の持っている瓶を見やる。


「じゃ、『ツレ』と同じものを」

「かしこまりました。飲まれ方は?」

「ここはあちらに合せよう。ストレートで」

「かしこまりました」


 琥珀色の液体が、グラスに注がれる。

 泥炭の香ばしい匂いがした。


「どうぞ、ラフロイグです」

「ありがとう」


 唇を、ほんの少し触れさせる程度で、酒を舐める。

 良い酒だった。鼻に抜けるような香りが良い。


 暖かな室内、上質のアルコール、美味なシチュー。

 私の望むものは全てここにあった。

 『天使』、とやらは良いヤツだ、などと勝手なことを考えながら、私はグラスを傾ける。

 夜はゆっくりと更けていった。

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