第13話
目が覚めたとき、空気は冷たいのに、身体が汗ばんでいた。事後、裸のまま眠ることにしたため厳重に毛布を纏っていたせいで、寝ている間に火照ったのだろう。
どうしてか、美奈子の夢を見たような気がした。
香織さんを起こさないように気を遣いながら毛布を剥ぎ、服を着る。コーヒーを淹れて煙草を吹かした。リビングのテーブルに置きっぱなしになっていたバラを見て、昨日を思い出して、悦に浸る。今幸せを実感している分、対を成す美奈子の夢を見てしまったのだろうか。
頭が鈍重に思える。風邪を引いたか。
そうだとしたら香織さんの身体も心配だ。
早々に煙草を消して寝室に戻ると、ちょうどのタイミングで香織さんのスマートフォンが鳴る。彼女はそれで目覚め、寝ぼけた顔のまま操作している。アラームかとも思ったが、メールだったのだろうか。
「起きました?」
顔をこちらに向け、
「うん。おはよう」
スマートフォンの操作を終えると大きく伸びをする。
「今日は何しましょうか。昨日の今日だから、何も考えて無かったです」そういえばうまくいったことを高科にも礼を添えて報告しておかねばなるまい。「のんびりしますか」
「そうだねえ」半身を起こし、目をこすっている。「とりあえずおなかすいたなあ」
トーストにスクランブルエッグを載せただけの簡単な朝食を済ませると、見るともなくテレビを見ながらコーヒーを飲む。お互いに鼻をよく啜り、だらしない。
香織さんはすっかりクリスマスから年末特集へ方向転換を済ませた情報番組を眺めながら、
「旅行に行きたい」と呟いた。「私プレゼント何も用意していなかったし……、お礼というわけじゃないけど、お金は気にしなくて良いから」
そう続ける。
旅行に行くという案自体に不満はない。閉鎖的で矮小な人間関係に終始するよりも、それこそ文字通り新鮮な空気を吸いに外へ出るというのは、むしろ大賛成だった。
ただ、
「お金はちゃんと払いたい」気持ちは嬉しいが、なかなか簡単に頷けるところではなかった。「だから仕事が決まって、お金が入ってからが良いです」
「私は出来れば年内が良いな。だってそれを待っていたら年度末とかになってしまうでしょ? そうしたらクリスマスのお礼っていう感じが薄れちゃう気がして」それは尤もだった。「あくまでもプレゼントとして、旅行に連れて行きたい、というのが正しいかな」
「とはいえなあ」
「甘えてよ。今までのお礼も込めるつもりだし」香織さんはテレビから視線をこちらに向け直す。「お願い」
果たしてお願いされる立場に自分が居るのかはよくわからなかったが、彼女の目は確固としたもので、揺らぎそうもなかった。仕方なくこちらが折れる。
「わかった。そしたら甘えようかな」カップに口をつけてから、「でも、少しは払います」
「うん」香織さんは微笑んだ。「わかった、ありがとう」
行き先は決めてあるのか、と問うと、予想外にも彼女は頷いた。
「群馬の、千平というところに行きたいの」
具体名まで提示してくれるところを見ると、プレゼントというのはあくまでも名目に過ぎず、彼女自身にこそ目的があるように思われた。さすがに穿ちすぎだろうか。しかしそういった思考が全て顔に出ていたのか、言い難そうに一度視線を外してから、
「プレゼントに、とか言って、すぐにこんなことを言うのは本当に申し訳ないと思うけど、実はそこ、私の好きな人の出身地なの」そう言った。「でも、変な意味はないよ。日野間くんとの付き合いを意味のあるものにしたいから、ちゃんとお別れをしに、そこに行きたいの。だから、ごめんね。格好付けてみたけど、決別に付き合ってもらいたいだけなんだ」
香織さんは外したままの視線を一向に合わせようとせず、言葉通り申し訳なさをありありと滲ませたまま、こちらの反応を窺っているように見えた。
僕にしてみれば、依然としてその対象の明確な縁取りも掴めていない。情報は少なく、予想するのも難しい。それは弟である高科にしてみても同様で、一体誰のために大きく落ち込み、そしてそこへ訪れようとするのか、全く不鮮明である。
ただ、頷かないわけにもいかなかった。彼女の言葉の通り、それを経てちゃんとその人のことを過去として清算出来、ようやく、こちらへしっかりと向いてくれるのならば、それどころか文句のひとつもない。
「良いですよ」
返答はそれだけで十分だろう。彼女は顔を上げると、顔を綻ばせ、頭を下げた。礼をくれるが、そう決心してくれたことが僕には嬉しかった。少なからずそういう言葉が出るということは、今の今まで、僕ばかりが盛り上がっているだけで彼女の心には常に別の誰かが存在したということで、それ自体はショックだったが、その事実を隠さず明言し、行動として示してくれるなら、僕も安心できる。ここでその対象について質問しようかとも迷ったが、それは野暮だろう。彼女の中で決まりが付けばそれでいい。
思えばここまで、僅かひと月弱だが、彼女の言動は控えめな面が多かった。「どうして優しくしてくれるのか」「どうしてここまでしてくれるのか」と自分を卑下しているような言葉を吐いて、本心は見えにくかった。少しは喜んでくれていたにしても、何か負い目の上に成立していたことはなんとなく感じていたし、それを払拭したいと思ったことがないわけでもない。ただ、どう言葉にし、何をしてやればいいのか判然とせず、もやもやとしていたのも事実だ。
だからこの旅行は、きっと意味のあるものになる。
そこで過去の話をしてくれるのかはわからないが、心のうちからその人が居なくなればいい。
ほっと溜息をつくと、香織さんはまたテレビに視線を戻した。
その後昼過ぎになって香織さんはスマートフォンで行き方を調べ始めたようだった。日程は特に決めていない。彼女の知識が整ったら、という曖昧な申し出に、思わず笑みを浮かべながら了承した。
あと一週間もせず年が変わる。
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