第11話
十二月だけ、二十四日と二十五日を意識するのも大概変な話だと思う。ましてや普段から礼拝しているわけでもないのに、なんとも都合のいい信仰心だ。しかしそういう世俗的なイベントに振り回されるのは、今を生きる人間としては多少仕方ない部分もあると思う。事実、僕も今、浮き足立っている。
今日は二十二日で、付き合ってひと月も経っていないが、最初にして年内最大のイベントを迎えるにあたって、準備に忙しない。優子のところへ無理を言ってケーキを頼み、高科には改めて香織さんの好みを調査してくれるよう頭を下げた。何よりともに生活をしていると秘め事も難しく、サプライズを演出したい身としては余り身動きは出来なかった。
プランは単純なものである。二人で映画を観に行き、レストランで食事を済ませる。帰宅するとテーブルにはクリスマスケーキが、そしてプレゼントに、安物だが指輪が添えてある。ふたを開ければ簡単な話で、出かけているうちにクリスマスとてバイトに勤しむ高科に合鍵を渡しておき、準備を行ってもらうだけのことだ。彼であれば僕にしても身内のようなもので、勝手に部屋に上がられても今更恥ずかしいところもない。休憩中にやってもらう手前、お礼は弾んだ。
高科に言われたことを思い出し、コンビニで煙草を買ったついでに無料の求人誌を一冊持ち帰る。このままだらだらと無職生活を続けていては破滅も早かろう。
帰宅すると香織さんは炬燵に入ったまま、何か熱心に書き物をしているようだった。覗き込もうとしてようやく、
「おかえり」言ってから、便箋らしきものを身体で隠した。「見ちゃだめ」
移動中丸めてしまった冊子をテーブルに放り、上着を掛けてから炬燵に入る。
「なんですか? それ」
「まあ、見られて困るものではないんだけど」しかし体勢は変えない。「中身を読まれるのは恥ずかしいから、何を書いているかだけでもいい?」
「いいですよ」冷えた身体を埋める。「誰かへの手紙ですよね?」
「うん、まあそうなんだけど。でも、別に出すわけじゃないの」
「出さないんですか?」それならば何の意味があるのだろうか。思ってから、「ああ、もしかして、失恋したと言う相手に対する……」
「違う違う」慌てて否定してくれるので、ひとまず安心する。「家族に向けて書いているんだ」
「家族に?」
「うん。日野間くんもそう感じたことがあるかどうかはわからないけど、身近に居る人ほど、なかなか感謝を伝えられないでしょ? ありがとうって言うのがどこか恥ずかしかったり、なんだか言い出しにくくて。それでたまにこうして、手紙に書いてるの」
聞きながら、少し宗教染みているなと感じたのは、これもクリスマスが近いせいかもしれない。
「でも結局出さないんじゃ、余り意味がないんじゃ?」
「うーん、なんて言ったらいいのかな」本気で悩み始めたのか、隠すのに使っていた腕を組んで、首を捻った。「要するに、予行練習のようなものだよ。手紙として文字にするのに、頭の中でいくつもの言葉を考えるでしょ? それを組み立てる練習と言うのか」
「それなら完成したものを、やっぱり出したほうがいいと思いますけど」
「日野間くんだったら、手紙で伝えられるのと言葉で伝えられるの、どっちがいい?」
そう言われたので確かに直接のほうが嬉しいかもしれないと考える。昨今ではメールやSNSなどで告白をしたりするようだが、やはり顔を付き合わせてその人の声で感情を伝えられたほうが、響くものがある。文字はどうしても無機質だ。
いつかちゃんと考えがまとまったら、ここに書いたような内容をきちんと伝える。あくまでもこれは台本でしかないと考えれば、出す必要もないのだろう。
「なんとなくわかりました」
「それじゃあ日野間くんも書いてみる? まだあるよ」
ペンと便箋を数枚渡されるので、仕方なく受け取った。
「改めてとなると、難しそうですね」
「まずは両親に宛てて書いてみなよ。私は今、純に向けたものを書いてるところ」
インスタントコーヒーを二人分淹れてから、彼女は黙々とペンを走らせ始めた。それを見て僕も本腰を入れて両親について考えてみる。
大学中退の際に酷く揉めてそのまま成り行きで家を出てしまったので、時折心配を寄越してくれる母はともかくとして、父とは疎遠な状態にある。彼は今六十代だったか。年齢さえ曖昧だ。
昔から父は僕に対して厳しく当たった。小学生のとき、苦手な授業がある日やどこか学校に行くのが面倒な日に腹痛を訴え休ませてもらおうと浅知恵を働かせたことがあった。母にしてもそれが仮病であることなど百も承知だったのだろうが、彼女は「行かなくてもいいよ」とおなかを撫でてくれまでする息子に甘い人だった。一方で父は、一切頷くことがなかった。
「腹が痛くても学校には行ける」
「でも本当に痛いんだ」
「なら病院に行ってちゃんと検査してもらえ」
「そこまでじゃない」当然学校を休みたいだけの僕は新たな課題を科せられるなんて毛頭嫌だった。「横になっていたい」
「病院に行かなくていい程度なら学校に行ったって死にはしない」
今思えば無茶苦茶な言い草だった。とにかく彼は学校に行かせようとしたし、僕は学校に行くものかと抵抗を続けて、結局は拳骨を一発くれ、泣き喚く僕を前に「これで頭が痛くなったのが俺にもわかったからもう休んでいい」と放り投げて仕事に向かっていた。
基本的に父は、自分の思い通りにならないことが嫌いだった。ある程度の自由を提供した上で、いくつかの選択肢を用意し、そこから進路を選ばせる。高校にしても大学にしても候補を示したのは彼だった。僕はそれを深く理解しないまま、自分の意思で選択したものだと錯覚して道を進んでいた。これも今にして思えば、という程度の話である。
そのことに対して怒りは湧かない。考える脳もろくに持たない自分自身できちんと前に進めたかと言えば決してそんなことはなかっただろう。当たり前に二十四歳まで生きてこられたが、これを本心から当たり前と思ってしまってはいけない。そういう意味では、父にも感謝の念はある。
ただ手紙に書き連ねるほどのエピソードなどなかったし、こんな息子からどんな言葉を向けられたところで父は喜びなどしないのではないかと思った。結局「期待はずれ」の枠からはもう脱却できないだろう。
考えるばかりで筆が進まない。
香織さんは止まらずに書き進めている。
視線を向けたのに気付いて、また、隠すそぶり。
「見てないで早く書きなよ」
「いざとなると言葉って出てこないものですよ」
「本当のいざって時のための練習なんだってば」香織さんは無理やり僕の手を便箋の上にセットさせる。「考えなくていいんだよ。思うままに書けば」
「思うままに、ねえ」
「仕方ないから少し私の文を教えてあげる。このくらい適当でもいいんだよって言う参考程度にね」言うと彼女は高科に宛てたものを顔の前に広げた。「私の弟として生まれてくれてありがとう。昔、おねしょを肩代わりしてくれたこともあったね。小学三年生だったからもう恥ずかしくて、とても助かった。いい思い出です」
思わず、吹き出してしまう。
「いくらなんでも思うまま過ぎません?」
「だからそれでいいんだって何回言わせるのよ」恥ずかしげもなく言い切る。「今みたいな思い出でもいいし、なんだっていいの。どうせ誰も読まないんだし。ありがとうって気持ちが込もっていればなんだっていいのよ」
真剣そうな面持ちを崩さないので、バツが悪かった。
「うーん、じゃあ書いてみますか」
そう言って何とかペンを進めてみたが、父に宛てたものは三行、母へは十行、優子にはようやく一枚分しか書けなかった。
案外薄情なやつなのかもしれない。
書きおえた三通をどうしたものか迷って、結局握りつぶしてしまおうとすると、
「そんなことしたらだめだよ!」視線を上げた香織さんが慌てて言う。「それ、自分の気持ちを握りつぶすのと同じだよ。どこかにちゃんと取っておいて、何か思いついたら書き足していくから、この手紙がちゃんと意味あるものになっていくんだよ」
やはりどこか良くない宗教にでもふらついているのだろうか、と邪推しつつも、とにかく言われたとおりにする。香織さんが何を信仰していようと、クリスマスは訪れるし、そこで祝うことを厭いはしないだろう。
僕が書き上げてから半時間ほどして、ようやく香織さんは便箋から顔を上げた。ちらりと見るとびっしりと文字が埋まっている。優しい人間なのだろうなと思った。
「いつかちゃんと伝えられるといいですね」
「うん」
「ちなみに僕に宛てたものはあります?」
言うと香織さんは笑った。
「ないよ」
「ないんですか?」
「だって今ちゃんと伝えられるから」照れくさそうにする。「いつもありがとうね」
それで堪らなくなって、キスをした。一度してしまうと、彼女も抵抗感が希薄になったのか、拒否するようなことはなく、受け入れてくれる。
「こちらこそ、どうもありがとう」
香織さんは丁寧に便箋を仕舞うと、ようやく求人誌に目が行ったようで、驚いた顔で、
「何これ?」
聞いてきた。
「働こうと思って。いつまでも無職では居られない」
「無理してない?」
「してないです」
「でもいいよ、働かなくて」
「そんなわけには行かないって」ケーキに指輪にと、貯金は底をつきそうなのが正直なところだった。「働いて、ちゃんとしないと。これからのことを考えると」
「これからのことを考えてくれているなら」香織さんはこちらの目をまっすぐに見つめてくる。「働かなくていい」
「どうして?」
「今は二人で居られる時間がもっと欲しい。一緒に居たい。だから本当に必要に迫られるまでは働いて欲しくないの」
そんなことを言う恋人も珍しいものだと思ったが、それに対して頑固な態度を取るほどの固い決意など元々なかった。経験上働き始めると余裕がなくなる。ミナコにそうしていたように香織さんに癒しを求めることは出来るには出来たが、彼女をそういう、利用する「モノ」のように扱いたくはなかった。今まで接してきたどんな生物よりも、僕は彼女を愛している。
ならばその彼女の言うことに、逆らう理由がどこにあるのか。
僕はこのときあえて、敬語を排する。
「わかった。年内はとりあえずこのままだらだらするよ。でも年が明けたらちゃんと考える。恥ずかしいけど、お金がもうそんなにないんだ」
少し考えるように間を取ってから、香織さんは頷いた。
その日貰ってきたばかりの求人誌は、そのまま目を通すこともなくゴミ箱に捨てた。
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