第3話

 新調したばかりの服に全身を包んでいつもの喫茶店に向かう。向こうからの申し出とは言え年上のなおかつ初対面の人間相手に遅刻するのもいかがなものかと思い、予定より十五分は早く着くよう計算して行動をする。

 結局到着したのは約束の五分前だった。どこでどう計算が狂ったのか判然としないが、予定通りに行かないのが人生だろうと大仰に考え、適当に空いている席へ座った。

 ホットココアで一服済ませてから時計を確認する。相手はルーズなほうらしかった。

 半時間遅れて、高科姉弟が店に訪れた。こちらに気付くと二人で近寄ってきて、前の席に姉のほうだけが腰を下ろした。

「悪いね、待たせた」

「いや、構わないよ」

 弟は席につかないままで、

「こっちが姉の高科香織」そして今度は姉のほうを向き、「これが友人の日野間翔太」

 香織さんは緊張の面持ちらしかった。そう思ってしまうのも自惚れかとも考えたが、ぎこちなく笑みを浮かべる様はいかにも男性に慣れていないようにさえ思われて仕方がない。

「よろしくどうぞ」

 頭を下げると、おずおずと返される。少々、想像とは異なる性癖だった。

「じゃあ悪いけど俺はもう行くよ」

「早いね」

「実はちょっと用事があってね。じゃあ姉ちゃん、あとは好きにしてくれ。翔太も別に気を遣う必要はないから。俺とほとんど同じだから」

 とは言え違う人間だ。そう反論しようとする間も与えないまま、忙しなく高科は店を出て行った。

 すっと下りた沈黙をどう処理すべきか、間が持たずココアを啜ってから、

「あ、何か注文しますか?」そう訊ねると、こくりと頷いて見せるのでメニューを開いて渡す。「昼食は食べました? ここで済ませますか?」

「食べてない。けど、ここは人が多くて落ち着かないから食べるなら別のところがいいな」

 言葉とは裏腹、余り無愛想に感じないのは、極力笑顔を作ろうとしている様が見て取れるからだろう。何より話に聞く限り香織さんは失恋したばかりで、僕と同じように引きこもりになったのならば、こうして誰かと外で相対すること自体が久しぶりなのだろう。そう思ってから、どこか、僕と会うことを弟を使ってまで頼んできたこととのギャップを覚える。それから、果たしてご期待に添えられるのだろうかと、不安に感じた。

 結局オレンジジュースを頼んで、それが届くまでまた沈黙になった。初対面の相手と言うと例えば年齢、職業、家族構成、趣味の有無など、簡単なプロフィールでも伺えばいいのだろうが、こと香織さんに関しては、高科との交流を経てのものだからその部分については多少なりとも知識を持っていて、改まって何を聞けばいいのかとなると、わからなかった。正直に言えば少しやり辛い相手だ。

「すみません」問うと、香織さんはこちらを見た。「煙草、吸ってもいいですか」

「ああ、うん。いいよ。私も吸うね」

 吸うより早く大きく深呼吸を済ませる。煙草で緊張が緩和されればいいが。

 鎖骨の辺りまで届こうかと言う黒髪を避けるように首を傾げて、香織さんは煙草に火をつけた。甘い匂いが漂ってくる。こちらも煙草に火をつけながら、彼女の風体を観察していた。

 少し釣りあがった目尻は猫のようで、弟とよく似ている。全体としては小振りながらも高さを持つ鼻に、薄く控えめな唇。頬はチークで少しだけ朱に染まっている。確かに少しこけているようにも見えた。捻ったら折れてしまいそうな首も、狭い肩幅も、華奢と呼ぶに十分足る要素だった。

 男に好まれそうな容姿に思えたが、それでも失恋すると言うのだから、世の中は一辺倒には行かない。

 少なからず、こういう相手に緊張されていると思えば、嬉しいことだし、余裕も生まれる。

「ごめんね急に」

 ようやく届いたオレンジジュースで口を潤すと、香織さんはそう言って軽く頭を下げた。

「いえ、どうせ暇ですから」

「そうは言っても、失礼だったと思う」

「いいんですよ」と言ってから、余り肯定的過ぎてもいかがなものかと、「まあ理由がはっきりしないのは、ちょっと悶々としますけど」

 続けると、彼女は済まなそうに眉根を寄せ、黙った。

 そうされると却って気になるものだが、

「いやいや、話さなくていいんです」そんなことを言ってしまう。「会ったからには今更そんなことを気に掛ける必要なんてないとわかっているんです」

「強いて言うなら」香織さんは依然申し訳なさそうな顔を崩さないまま、「純粋に興味があったんだと思う」

「興味? ですか? 僕に?」

「うん。純とずっと友達で居る君に。他人から話として聞かされる印象と、実際に自分で話をしてみた印象って違うじゃない?」

「ええ、まあ」しかしその興味をこのタイミングで追求したのは、なぜだろう。「僕も、香織さんのイメージは少し違いました」

「どういう人だと思ってた?」

「そうですね。言葉にするのは少し難しいですけど、例えば今この瞬間を切り取って比較すると、思ったより冷静と言うか」

「冷静?」

「もっと会話もままならないくらいズタボロだと思ってました」そう言うと香織さんは笑った。「まあ僕に会おうとして、実際にここに来て、会話をするくらいには冷静なんだなと。というのも、僕がミナコ、飼い猫を亡くしたときは、話をするどころか何かをすると言う考え自体、浮かばなかったですから」

 もちろんそこには香織さんを心配した高科の介入があり、実際どちらが主導だったのかは僕にはわからないところである。もしかするとあの時も実際に何かをしてみればよかったのかもしれないと考えるに留める。

 落ち込んでいるときこそ何か行動をしたほうが復帰が早いのだとしたら、香織さんの精神を取り戻すには、彼女を様々な場所へと連れて行くことが手っ取り早いだろうか。

 そう思ってから、今のところそこまでは頼まれていなかったと思い直す。

「家に居て、一人で色々なことを考えているうちに、日野間くんの話を思い出したの。今の私を理解して受け入れてくれるのは日野間くんなのではないか、と」言ってから、自分で驚いたように目を見開き、両手を振った。「変な意味じゃなくてね」

「大丈夫です」こちらは笑みを浮かべる。「気持ちはわかりますよ」

「話のわかる人でよかった」香織さんもひとつ笑って、煙草を揉み消す。「日野間くんなら程よく距離感があって、お互いに無関心な相手だけど、それぞれに存在自体は知っている、っていう、少し不思議な関係だから、却って何でも話せるような気がするし、何でも話してくれそうな気がしたの」

「聞きたいことがあるなら何でもどうぞ」

 相手から話題を提供してくれるものならばこの上ない。幸いと言うべきか、周囲はざわめきにあって、このテーブルひとつの会話がどこかに漏れるような心配もなさそうに思えた。

「そうだなあ。嫌だったら言わなくても良いんだけど」そう言う彼女自身が酷く言い難そうな顔をしている。「美奈子、これは元恋人のほうの話だけど、彼女と別れたときは、どうだったの? それなりに付き合っていたと聞いたけど」

「どう、と言うと?」

 頭の中では高科の口の軽さを罵った。

「どれくらい落ち込んだのかなって」

 美奈子と別れた要因が何であったかは、今でも鮮明に覚えている。

 人と人の別れなのだから決して愉快なものではないのだが、それにしても彼女とのそれは酷く不愉快なものだった。

「美奈子と付き合い始めたのはそもそも、高校二年のときでした。一年の頃からまあ、かかわりが全くなかったと言うわけではないのですが、二年生になってからようやくまともに話をしたり、帰りをともにしたりという風になって、向こうから、付き合ってほしいと言われました。元々美奈子は少しやんちゃと言うか、下世話な噂が尽きない人だったのですが、そのときには僕は彼女のことをちゃんと好きだったし、周りがどう思うとかって言うのは、余り気にしていませんでした」

 それがどれだけ不愉快であれど、こうして今香織さんに過去として語れるくらいには、すでにどうでもいいと思える記憶だった。あるいは彼女の言う通り、僕と香織さんの関係がまだ何でもないからこそ淡々と言葉を継げるのかもしれない。

「事実四年ほど交際をして、その間に周囲の人間も変化していきましたから、そういう一時的な誰それのために何か僕や彼女のことを変えようなんてことは微塵も思ったことがありません。彼女のありのままが好きだったし、一緒に居て楽しかった」

「それがどうして、別れてしまったの?」

 御伽噺を聞く子どものように、無垢な質問を寄越してくれる。

 意識せず、笑みが浮かんでしまう。

「直接的な要因は、浮気でした」

「浮気されたの?」僕は首を振る。「え、しちゃったの?」

「それも違います」そう言うと、香織さんは難しい顔をして首を傾げた。「僕がそもそも、美奈子にとって浮気相手だったんです。四年間、それよりも少し前から交際している相手が居て、僕はただの気まぐれにちょっかいを出されていただけなんです」

「四年間も、騙し通されたの? それこそ周りの人は」

「気付いていなかったようです。巧妙ですね。彼女の本命は、僕やその他周囲の人間とは全く無関係の、ずっと年上の人でした。そんなことを見透かすなんて出来ようはずもありません。ましてやその年上の彼も、僕と言う存在をちゃんと認知していたんですから、子どもの僕が何をしたところで、勝ちようがなかった」

「そんなことって」

「ありえないと思いましたよ」煙草に火をつける。煙に乗せたほうが話しやすいと考えた。「美奈子から、もう飽きたと言われて全てを語られたところで、そんな馬鹿な話があるかよって。年上って、だって二回りも違うんですよ。当時十五歳だった彼女が、四十手前の男と付き合っていたなんて、二十歳になってもその関係が続いているなんて言われても、質の悪い冗談にしか思えませんでした」

「そうだね」

「別に、彼女に貢いできた金品を惜しく思ったわけではありません。四年間ほかの子からも告白をされたことがありましたが、それを断ったことにも後悔はありませんでした。ただ、途端に行き場を失ったこの感情をどこに当てればいいのかわからなくなって、ひたすら困った、というのが本音です。落ち込んだと言えばそうですが、それよりももっと漠然と、どうやって歩いていたかさえ忘れてしまって、ただただどうしたらいいかわからなかったというのが正直なところですかね」

「大変だったんだね」香織さんはそう言ってオレンジジュースを啜った。「それで、ミナコか」

「そうです。拾った野良猫に、振られたばかりの女の名前をつけて、それを身代わりに愛情を注いだ。本当のところを言うと、これは高科にも話していないんですけど、ミナコはオスなんです。それくらい、なりふり構ってられなかった」

 そう言うと香織さんは笑った。そうしてもらえるように言った言葉だったから、どこかほっと安堵する。

「参考になるよ。私も猫を拾おうかな」

「対象はなんだっていいんだと僕は思っています。別に小物でも植物でも。何かを失ったとき、つまり弱っているときに支えてくれるものに対して人は依存しますからね。僕の場合はそれで乗り切って生きています。美奈子のときはミナコ、ミナコのときは映画、と転々と、これで何とかがんばろうって無意識に思っているんだと思います」

「日野間くんのほうがよっぽど冷静だね」

 香織さんが言うので、煙草の煙をすっと遠くまで吐き出してから、首を振った。

「冷静なわけではないですよ。そう装っているだけなんです」

「そうできるだけでも才能だと思うし、何よりそう自覚しているところが冷静なんだよ」コップの縁に人差し指を這わせている。「私はなかなかそうできない。だから困っていて、あてずっぽうに手を伸ばしてみた。がむしゃらで、なりふり構っていられない」

「まあ、僕のことはどう扱っても構わないですよ」ココアに口を付ける。「どうせ今、僕は何者でもないので、香織さんのそのなりふり構わないやり方に、付き合う時間はありますから」

「どうして」コップから指を離すと、「そんなに優しくしてくれるの?」

「さあ」

 どうしてだろうか、とまず思った。もう美奈子との話も済ませてしまって、勝手に肩の荷が下りた気にでもなっているのだろうか。それとも単純な顔のよさで、そういう感情を抱いているのか。

「たぶん」それらよりもっともらしい理由をつけるとすれば、「高科の言うように、話してみてやっぱり、二人は同じようなものなのかもしれないと思えたからですかね」

「ええー」

 すると不服そうに香織さんは眉をひそめる。それが可笑しかった。

「少しは元気になりました?」出会い頭ほど緊張の面持ちはもうなさそうだった。「息抜きは大事ですからね」そして自分の姉のことを考える。「しんどいときは誰かといたほうがいいんですよ」

「うん。ありがとう。ひとまず落ち着いてきたよ」

「じゃあ、そろそろご飯食べに行きますか?」

「そうだね、せっかくだし」

 そうして席を立ち、遠慮するのも構わず香織さんが会計を済ませると、僕たちは喫茶店を出た。

 その後適当な定食屋に入り食事を済ませ、最初だと言うのに映画を観に行きたいという彼女に付き合って二時間のラブストーリーを疑似体験する。失恋したばかりの彼女がそれをどう言う視点から観ていたものかは判然としなかった。ともかく久しくデートらしいデートなどしていなかった僕にしてみれば、初対面の女性とこうして一日の何分の一をも過ごすと言うことが新鮮で、楽しかった。

 決定的に彼女に惹かれた要因は、映画を観終えた後の、少し寂しそうな笑顔での、

「いいなあ」

 というたったそれだけのセリフだった。

 高科の顔が思い出された。あるいは彼は、ここまで想定した上で僕と香織さんを引き合わせたのかもしれないなどと、途方もない考えが浮かんだが、そんなものは些末なことに思えた。

 たった一日の付き合いだったが、その中で緊張から解れ、純粋に楽しんでくれているように見える香織さんは、僕にとって魅力的な相手だった。それだけの話だ。

 あるいはもっともっと単純に、十二月になったばかりなのに早くも「クリスマスはまだかな」と浮かれる街の連中に中てられたのかもしれない。

 その日は連絡先を交換し、また何かあれば呼び出してくださいと言葉を添えて別れ、終わった。

 自室の布団で寝転がり、受信した香織さんからのメールに、

「本当は緊張しちゃって映画の内容なんて入ってこなかった。今日はありがとう」

 その文面を見つけ、愉悦の海に浸った。

 彼女にとっての拠り所になりたいと考えている自分に思わず苦笑する。

 最初は会うことを面倒に思っていたくせに、という自嘲だ。

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