第2話
翌日は土曜日だった。僕は高科にお姉さんと会ってみてもいいという旨のメールを送った。彼からは三度感謝の返事が来る。
そう思ったのに、どんな理由があったのか。それにはいくつか思い当たるところがあるが、どれが直接的に作用したのかはわからない。ひとつは帰宅後それを狙ったかのようなタイミングで掛かってきた母からの電話で聞かされた従兄の結婚であったし、ひとつはミナコの玩具が本棚の奥から偶然発掘されたからだった。あるいは自殺の報道が流れたせいだとも言えるし、随分と久しぶりに姉から連絡があったからだとも言えた。ただどれも中心に据え置くには少々言い訳染みていて、だから多分、純然たる興味が多くを占めていたのだとも思う。
それじゃあと言うことで指定されたのは、一日置いた月曜日の昼過ぎだった。いつもの喫茶店に姉を連れて行く、その後自分は帰るから、彼女と何でもいいから話をしてやってくれと高科は綴っていた。切実なようにも見えて、了承以外の返答は出来そうになかった。どうせ予定はない。
仕事をしているとき、パートタイマーと言えどもそれなりの責任感や誇りを持って取り組んでいたが、それが必ずしも報われるわけではないと言うのが、社会の仕組みだと知った。特別な仕事は任されていなかったとは言ったが、現場に居るからこそ捻り出される改善案や効率性を掲げてみても、それが受理されることもなく、彼らにしてみれば一個人という認識に乏しいぞんざいな扱いをされたと僕は思っている。それでも続けられたのはミナコの存在があったからで、帰るなり足元に匂いをこすり付けてくる飼い猫の様に、勝手に優しさや癒しを覚え、この子のためにがんばろうと思い直せた。
それがミナコが亡くなり、要するに休まる場所を失った僕は、辞めることを厭う訳もなかった。
ただ辞めてわかったのは、茫漠とした時間の使い方に苦心する事実だけで、結局、不平や不満はあれど社会の歯車のひとつとして機能できるならそのほうがずっと気楽でいいと言うことだ。
この先も予定の決まらない毎日を当てもなく歩き続けるよりは、理由や意味が判然としないながらも人と会い話をするほうが人間的な生き方であろうと思う。それを自覚できたのも、誘いに乗った理由の内かも知れない。
見ず知らずの人と会うために出かけるのは酷く久しぶりで、どんな服を着ればいいのか迷ってしまう。ちょうど昨夜姉からの連絡があったのをきっかけに、彼女へそれを相談すると、あちらのほうでも息抜きがしたいと言うことで、一時間後に会うことになった。二人とももう実家を出て都内で一人暮らしをしている身で、フットワークは軽い。渋谷で落ち合うことになった。
何度来てもこの渋谷という街は雑多で落ち着かない。人それ自体もそうだし、目に映るものがとにかく色々で、目が疲れる。ひとつひとつを認識するに至れば、きっと意識を失うことになるだろうと想像するに難くない情報量だった。
ハチ公前に移動するとすぐに姉の顔を見つけた。どこか安堵を覚えつつ彼女に駆け寄る。気付いて視線がぶつかった。
「お待たせ」
両手をアウターのポケットに仕舞ったまま、荒い息でそう言うと、
「早く来ないかと何度思ったことか」
身内は他人を見回しながら、無遠慮にそう言った。ほとんど同じ気持ちではある、と素直に姉弟であることを自覚した。
街を移動しながら店を冷やかして回り、何着か姉好みの服を揃えると休憩がてらスターバックスコーヒーに入る。慣れないもので、システムも種類も良くわからず、ココアを頼むよう姉に伝える。彼女は慣れた仕草で二人分の飲み物を注文した。
幸い席が空いており、向かい合って座って見れば、久方ぶりの姉は疲弊感を顔の端々に滲ませて、どこか気だるそうだった。連れ回したのは失敗だったのかもしれないとようやく反省に至るも、言葉には出なかった。姉弟であればこそ、そういった気遣いがぎこちなくなってしまう。
窓外はクリスマスを意識し始めたのかカップルが多く、手を繋ぎ、肩を抱き合い、暖を取っているような風体の癖に、全く寒そうには見えない。
「仕事はどうなの?」
彼女の勤め先が街のケーキ屋であることを思い出し、訊ねる。口にしてから、その情報は一体いつのものだったか考えたが、もし今現在そこに勤めていなくとも、このチョイスならば問題はないか、と無理やり納得する。
何気ない質問だったが、どうやら彼女の苦心の種はそこにあるらしかった。意味を成さない言葉を溜息に乗せ、腕をこちらに伸ばしたまま、机に額を押し付けるように伸びをする。
「お疲れだね」
「もうね、全然駄目よ」顔だけを上げてこちらを向く様は、ビート板を使って犬掻きをしている小学生のようで、そこにはありありと感情を覗かせている。「ケーキ屋に勤めてて、この時期に普通辞める?」
「まあ、これからが繁忙期なのは大体どこも一緒だけど、ケーキ屋で十二月前後に辞めるのはちょっと考えなしかなとも思う」
「まあ」ようやく姿勢を戻すと、「原因がわからないこともないから、なんとも言えないんだけど」
「そうなの?」
「若い子だったからね」それは全く答えとして相応しくはないが、彼女は気にした様子もなく続ける。「入って二ヶ月くらいだったけど、居ないよりはもちろん居たほうが助かるって言うのに……。まあ居づらいところに居続けろなんて言えないけどさ」
いびりか何かでもあったのだろうか。あえて詮索をすることはしなかった。
「まあ僕もこの間辞めたばかりだから、その子をただ責めるなんて姿勢にはなれないけどね。今は何を言っても全部自分に跳ね返ってくる気がするよ」
「ミナコなあ」
姉とミナコは数回だけ顔を合わせたことがある。しかしそのどれもが荷物の受け渡しであったり母からの言伝であったりと、何かのついでが基本でもちろん大した時間を割いたものではなく、恐らく生涯でミナコは姉のことを覚えるに至らなかっただろうと考えられるほど、僅かなものだ。
眼前の姉にしても、ミナコの特徴は覚えてなどいないのだろう。似たような柄であれば全てミナコと見做すかもしれない。
「話の腰を折ったね。それで? 愚痴くらい、聞くけど」
「いやあ悪いね」言いつつも、甘える気に満ちている。「その子のことはほとんど重要じゃないんだ。最近どうも店全体の空気が良くなくてね。誰それさんが誰それさんを嫌っているらしいとか、何々さんは仕事が遅くて嫌よねえなんて。不幸中の幸いと言っていいのか、私は今のところ標的にはなって居ないんだけど、どちらにもいい顔をして、時には間を取り持って、なんて、そんなもの時給も出ないのに何でやってんだろうって思い始めてから、もう全然駄目。モチベーションが上がらないのよね。それにこれからどんどん忙しくなるわけでしょ、精神的にも肉体的にも疲労が溜まっていくだけ」
一度調子が乗ると、彼女の話は長かった。仕事の話を主として、果てには「そもそも国が良くないのよ」などと自論を発展するに至る頃には、僕にはもう彼女の言葉を認識する意識がなく、空いたココアのカップを眺めたり、煙草を吹かしたりして適当な相槌を打っていた。姉はそれでもまるで気にした風もなく、人の形をしていれば壁でも看板でも延々話続けられるのではないかと思われた。
ひとつ区切りがついたとき、姉はホワイトモカの最後の一口を飲み干して、
「ついでに言えば、正孝さんにも振られたよ」
ぼそりと呟いた。
「いつ?」そんな話は母からも聞いていなかった。「どうして?」
「結構最近だよ」
「急に?」
「もちろん、大抵のことは急だよ」渇いた笑みを浮かべる。「世の中、予期出来ることのほうが圧倒的に少ない」
「なんで?」再度訊ねる。「結婚の話も出てたじゃない。いつから付き合ってたんだっけ」
「もう十年位前だよ。十年付き合おうとなんだろうと、簡単に崩壊するものなんだなあ」奇遇と言おうか、明日会う予定の人も、その程度の付き合いを持った人間に失恋したと言う。「人と人だからね、安心しちゃいけなかった」
「理由は? 聞いたの?」
「ああ、うん、まあね」歯切れの悪い口調で、先ほど飲み干したばかりのカップを覗いている。「なんだかよくわからないよ私は。今までさほど嫉妬なんてしたことなかったくせに、急に誰か違う人間が居るんじゃないかなんて言い出して。それが、それらしい人が居れば私も反論に尽くしたんだろうけど、心当たりがないからこそ呆然としちゃってね。それをどう取ったのか、もう終わりだな、なんて」
「そうか、やるせないね」
「あれは向こうにこそそういう怪しい人間でも居たんじゃないかなって話だよね。そりゃ別れた直後は泣きに泣いたけど、今はそう思えているから、なんか余り落ち込んでも居ないんだけど。仕事も忙しいしね。特別な人なんてそうは居ないものなんだなあと思ったよ」
姉はこれと言って寂しそうにも悲しそうにも見えなかった。僕がミナコを亡くしたのとはまた違うものではあるが、方向性は似ているのだろう。本当に本心から立ち直れなくなるほど大事なものは、早々ない。
そんな思考を読み取ったかどうか、
「まあ、今、ポンって翔太が死んだら、多分本当に駄目になるけどね」
恥も外聞もなく、真面目な顔をしてそんなことを言った。
「どうせあれだろ、こうやって愚痴を聞かせる相手が居なくなるからだろ」
とはいえ身内に改まってそんなことを言われるとどこか寒々しく、僕は冗談めかして肩を竦めて見せる。姉は笑ったが、何も言葉は返して来なかった。
店を出て、駅まで一緒に歩いた。改札口で、
「あ、ごめん。私今日飲み会に誘われてるんだった。このまま行くわ」
「ああ、うん。それじゃあ」
「悪いね、長々と」
「元々はこっちの用事だから。助かったよ」
「うん、それじゃあ」
「またそのうち」
「はいよ」
姉と別れてから、僕は一度も振り返らなかった。
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