月夜のメネリー

P.sky

(1)

教室から外を見ると、外は大雨のようだった。

思わず舌打ちをしてしまう。朝の時点では、もう少し後から降り始めるはずだったのに。それもこれも、長ったらしい話をした担任に責任がある。

「さて、と」

ここからどうしようか。帰るまでは降らないと思っていたので、小さな折りたたみ傘一本しか持ってきていない。これでは外に出た途端に雨にずぶ濡れになってしまうだろう。

(……それも馬鹿らしいな)

決めた。今日は特に用事もないし、雨が止んだら帰ることにしよう。天気予報では、夕方遅くには止むといっていた。幸いなことに、教室の鍵を閉める日直は自分だった。職員室に返しに行く時に何か適当な言い訳をして帰宅すればいいだろう。

 そうと決まれば話は早い。自分の席に座り、教室から出て行くクラスメイト――もっとも、クラスメイトと形容したのは初めてだったが――をなんとなく眺めながら、携帯を取り出した。あいにく自分は本を読まない人間だったから、こういった時間の潰し方は、スマートフォンで、広く深いインターネットの海を当てもなくさまようことしか知らなかったのだ。

 やがて、教室に残ってお喋りをしていた奴らも一人、二人と消えていって、教室には俺一人だけが残った。

「うぅぅぅん……っ?」

と思って伸びをしたのだが、視界の端に一人の女子生徒を見つけて慌てて咳払いした。しまった。完全に油断していた。

(というか、全然気づかなかった……)

なんというか、存在感というものが彼女には欠落しているように思えた。長く、艶やかで、整った黒髪を見ると、吸い込まれそうな気分に一瞬なるのだが、黒縁のメガネと白いマスクがその魅力的な要素を紛れさせているので、視線を切ったときに、印象が残らない。一言で言えば、「地味で暗そう」な女子だった。

(確か、月音瑤子(つきねようこ)だったか)

なんとか名前だけは思い出せた。が、教室で活動している姿がどうにも思い出せなかった。まるで、彼女は最初からこのクラスの中にいなかったかのように思ってしまって、思わずゾッとした。

「……………………」

 教室の中には、自分のスマホをタッチする音と、月音が本をめくる時の音と。それと外のザーッという雨音が、小気味よい旋律を奏でていた。まるでそれは、あるべき場所にあるべきものがある、心地良い状態にあるかのようだった。

「……………………」

ふと頭のなかに一つの考えが浮かんだ。

(月音は、一体どんな本を読んでいるのだろうか)

そんな小さな考えも、この空間の中だと途端に巨大になっていった。次第に、それ以外のことが考えられなくなった。馬鹿らしいと思うかもしれないが、本当に思考がそこにしか向かわなかったのだ。

(日本文学か? 或いは海外の作家? いや、待て。見た目だけで判断してはいけない。あんな暗そうな見た目だからって、文学少女と判断するのは早計だ)

雨音が、強くなったような気がした。まるで、自分をこの教室から離さないようにしているようだった。

(そうだ、ライトノベルかも知れない。オタクというのは常に自分を隠すものだと聞いたことがある。彼女は隠れオタクで、周りのみんなにバレないようにしているのかもしれない)

どうやら教室の時計は電池が切れてしまったらしく、四十分前の時刻のまま針は止まっていた。

(だが、逆の可能性も考えられる。彼女は実は活発的だが、学校では何らかの事情があってそれを隠している。なんなら今度の休日にどこに行くかを決めるために旅のススメ的な本かもしれない。……いや、その場合あの文庫サイズにはならないか)

スマホの画面を見ていなかったので、いつの間にか広告サイトのバナーを押してしまっていたらしく、画面にはアプリをダウンロードするページが表示されていた。

(もしかしたら、人に見せられないような過激な本を読んでいるのかもしれない……)

と、その時、月音が振り向いた。

「……………………?」

目がバッチリあってしまい、月音は少し首をかしげた。慌てて目をそらす。

(やばいぞ、これじゃあまるで不審者だ)

教室に残っているだけなのに、なぜ自分はこんなに気圧されているのだろう。自分が小心者なだけなのか? それとも、彼女の雰囲気がそうさせるのだろうか?

「あの……」

「うわあっ!」

気がついたら月音が自分の傍に寄ってきていた。急に話しかけられたので、思わずのけぞってしまったが、よく考えれば失礼極まりない。

「あ……そんなに怖いですか? わたし」

「い、いや。ごめん、純粋にボーッとしてたから」

よくもまあ言えたものだ。さっきまでずっと考え事をしていたくせに。軽く自嘲する。

「で、どうかしたのか?」

精一杯落ち着いた声を取り繕って、返事をする。もともと自分もあまりコミュニケーションが得意な方ではないので、一対一で話すのは苦手だった。

「えっと…………」

「おう…………」

そこで黙るのか。ひょっとして大事な話だったりするのだろうか。いきなり告白的なことを言うのだろうか? そう思うと、否が応でも心臓が高鳴ってしまう。地味で暗いといえども、女子は女子だ。

「……傘、持ってます?」

「…………あるけど、これ小さいよ?」

心なしか、声色が残念な感じになってしまった。気づかれていなければいいのだが。

「……構いません。わたし、早く帰らなければならないんです」

「それなら、どうしてもっと早く帰らなかったんだ」

「帰り支度をしていたら……傘を誰かに盗まれてしまって」

「……それで?」

「……そのまま、誰にも声をかけられずに……」

「なるほど」

気持ちはわかる。放課後すぐに叫んで走り回っているような男子に頼むよりも、何故か教室に残って無言でスマホをいじっている男子に頼むほうがハードルが低い。それに、顔もそんなにはよくないし! ……自分で言ってて悲しくなってきた。

「……なにか学校ですることがあるのですか?」

「いや、ただ、もうちょっと雨が弱まってから帰ろうと思ってただけで……」

「そう、ですか……」

月音は明らかに落胆した様子だった。その顔を見ていると――マスクがあるので顔の上半分だけだが――なんだか悪いことをしている感じがして、心地が悪い。

「わかった、ただ、教室の鍵を職員室に返さなくちゃいけないから、その後でいいなら」

「……ありがとうございます!」

感謝を述べる彼女の瞳を見ると、思わずクラっときてしまった。


 思えば、この時点ですでに化かされていたのかもしれない。




*   *   *




職員室に鍵を返しに行ってから、改めて下足へ履き替えると、雨脚はどうやら先程よりは少し弱くなったようだった。が、以前として一人では帰る気にならなかっただろう。

「あの……ほんと、ありがとうございます」

「いやいや」

ここまで連れて来て何を言っているんだ、とは言わないが。

カバーを取って傘を開くと、予想以上に傘のサイズは小さく、なんだかボロボロに見えた。

(こんなことになるなら、もうちょっとまともな傘を持ってくるんだった)

転ばぬ先の傘、といったところか。

「荷物はないの?」

「はい……教科書などは全部ロッカーに入っているので」

これは少し意外だった。真面目な女子は、毎日教科書はきちんと持ち帰っている印象だったが。

(いや、やはり印象論で語るのは良くないな)

現に、段々と彼女の発するオーラ的ななにかが、まるで捕食する植物が放つ芳香のように思えて、どうにも胡散臭く感じている。

「じゃあ、駅まで」

「はい、お願いします」

いわゆる相合傘という構えになって二人は進む。予想通り、傘は二人で入るには狭すぎて、お互い肩が大粒の雨に晒されてしまう。

「はぁ……」

傘の持ち手として、気持ち傘を月音の方に寄せる。意図がわかったのか、月音は少しうつむきながら、もう半歩身体をくっつけてきた。

「……………………」

「……………………」

黙って舗装されたての歩道を歩く。

(ああ、まずい。これは、なんというか、まずいぞ)

梅雨時のジメジメとした暑さのせいもあり、世間はすっかり衣替えを終えた。ということは、お互いに夏服である。

それに、この傘は狭く、二人がかなり密着しないと収まらない。

ということは、必然的に、身体の接触する面積は増加するわけで。

(これは、なんだ。そう、儀式みたいなもので)

女子と交流する機会がいまいちなかった身としては、少々この熱を帯びた身体との密着は荷が重いというか。

「雨は、お嫌いですか……?」

彼女の方もなにか思うところがあったのか、話題を振ってきた。

「いや、嫌いとまではいかないけど」

「好きでもない、と」

「まあ、そうなる」

そう言うと、彼女は少し残念そうな顔――というか瞳――をした。

「わたしは、結構好きですよ」

雨がね。まかり間違っても自分に言っているわけではないだろう。

「体育の授業が潰れるから、とか?」

「ええ、まあ……運動は、確かに苦手ですが」

「ああ、悪い」

「いえ、……なんというか、雨が降っているとなんだか気分が落ち着くというか、頭がスッキリするという感じになるんです」

世間は広い。体質というものは、やはりあるのだろう。

「……………………」

再び流れる沈黙。正確には、雨音と、雨が傘に跳ね返る音。

一歩進むごとに、何か深みにはまっていくような気がした。




*   *   *





 やがて駅まであと半分、という所で、再び雨脚が強まってきた。このまま二人ともずぶ濡れになってしまっては本末転倒なので、少し人気のない商店の軒先で雨宿りすることにした。

「もうちょっとで、雲が抜けるらしい」

「……そうですか」

意外にも、月音は反対しなかった。普通急いで帰らなければならない時に雨宿りを提案されたら、拒否してでも急ごうとするんじゃないか? ――そもそも、月音は本当に急いでいるのだろうか。

「はあっ……はぁ……」

彼女はかなり息切れしていた。それもそのはず、この湿度も温度も高い環境で、マスクをしながら人と密着しているのだから、汗をかくのも無理はなかった。途中から、身体が熱くなりすぎて、煩悩より体調を心配する心のほうが勝ったくらいだ。

「そのマスク、取ったら? ついでにそのメガネも」

メガネは、水滴でビショビショに濡れていて、視界良好とはとても言えない状況だった。

「……はい、分かりました」

月音はそう言い、耳に手をかけると、煩わしいマスクとメガネを取り去った。

「…………ふう」

思わず心臓がドクン、と跳ねた。濡れた黒縁メガネとマスクの下には、絶世の――とまではいかないが、かなり可愛らしいというか、美しいというか。要するに、美女がいた。

「お、お前……」

(なんでその顔を隠していたんだ)

とはいえず。彼女はスッキリした顔でこちらを見た。

「オンナには、いろいろあるのよ」

「は、はぁ」

そこには先程までいた気の弱そうな地味眼鏡女子はもういなくて。自信に満ち溢れた、クラスのマドンナがいた。

「それにしても、助かったわ。もっとも、全く濡れずに、というわけにはいかなかったけど」

「…………それは悪かった」

「まあ、濡れるのも嫌いじゃないけどね」

「……好きでもない、と」

「そゆこと」

駄目だ。完全にペースを握られている。先程までの雨でしっとりとしたカラダは、その美麗な顔とあいまって、さっきとは比べ物にならないくらい魅力的に映った。

(ダメだ! これ以上進むと、戻れなくなる)

一体、どこに戻るというのだろう。

「ああ、そういえば教室で読んでいた本なんだけど」

「っ!?」

「もっと面白いものだったらよかったんだけどね。残念ながら英語の単語帳よ」

「……勉強熱心なんだな」

「まさか。勉強なんて、好き好んでやっている人なんている訳ないでしょ」

それに関しては概ね同意だ。

「なんで早く帰りたかったのに、あんなに教室に残っていたんだ? それに、濡れるのが好きだったらずぶ濡れになって帰ればよかったじゃないか」

「こんなか弱い女の子にずぶ濡れになれ、だなんて鬼ね、貴方」

「いや、そういうことじゃなくて……」

このままでは埒があかない。少しずつ弱くなってきた雨脚に感謝しながら、傘をさし出した。

 月音、いや、は強引に腕を絡めてきた。暖かかった。




*   *   *




女子は常に隠し事をしながら生きているらしい。そして、それを隠すのが男よりも数倍うまいのだと。以前の友人から聞いた言葉を思い出しながら、無心を取り戻そうと必死に歩いた。

「どうしたの? 心臓バクバクいってるけれど」

「ええ、どこかの誰かさんのせいでね!」

仮面を取って真の力を開放した月音さんには、もはや自分なんかがかなう訳がなかった。あんなに熱かった身体は、もはや今の自分の火照った身体からすると、雨の粒より冷たく感じた。

駅に近づくにつれて、早くこの状況から開放されたい、という感情と、もう少しこの「温もり」を感じていたい、という感情が一緒くたになって、なんだかよくわからない。

「あ、念のため言っておくけど」

「はい?」

「学校でこの姿の事バラしたら、どうなるか分かる?」

「えっと……殴られる?」

「強引に既成事実を作って学校中にバラ撒くわ。そうね、まるで強引に襲われたのかのごとく」

「絶対に言わないので安心してください」

ああ、さらに頭が痛くなってきた……




*   *   *




人が望もうが望むまいが、時間だけは常に万人に平等に与えられる。その長くも短くもあった二十分間……いや、確実にいつもより長かったその帰路も、やがて終着点へと向かう。

「そういえば、電車、どっち方面なの?」

「上りです……」

「ああ、あたしは下りだから、改札でお別れだね」

出発した時とすっかり声のトーンが逆転してしまった。

「駅に行くには、こっちのほうが近いんです」

「へえ。こんなトコに抜け道があったんだ」

秘伝の抜け道を紹介すると、彼女は感心した様子だった。何しろ、この道を通っているのは自分以外に見たことがないのだ。唯一通るのは、茶色のぶちの野良猫くらいだ。

「ここ、狭いんで、先行ってください。傘はさしとくんで」

もうだいぶ雨は止んだのだが、ここは最後まで仕事すべきだろう。

 と、その時。

「んや、もういいよ」

月音は、まるで一本橋を渡るかの如く、その狭い道を一人で慎重に進んでいった。そして、中央までいったところで、振り返った。


「止まない雨はないんだよ。……必ずしも止むとは言ってないけどね」

太陽が、彼女の頭上に燦々と輝いていた。

雨は、しとしとと振り続け、彼女を濡らした。

雨粒が、キラキラと輝いている。

彼女の視線が、自分に向いている。

自分の視線も、彼女から離れない。

やはり、学校を出るときに感じた感覚は間違ってはいなかった。


そして、もう帰ることは出来ない。


――もしかしたら、恋に落ちる音というのは、雨粒が落ちる音と同じなのかもしれない。




*   *   *





「じゃあね」

「ああ、また」


改札で別れた時も、彼女は輝いていた。


だから、せめてもの仕返しにカッターシャツから水色の下着が透けていたことは、黙っておくことにした。




後日、彼女に体育館裏に呼び出されたのは言うまでもない。






狐の嫁入り――日が照りながら小雨が降る天気。




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