満月の初夏

七色最中

満月の初夏

 春は過ぎた。今日、確信した。

 昼間は七分丈でも汗ばむぐらいの気温だった。当たり前だけど、日に日に暑くなっている気がする。太陽が夏に向けて「さあてそろそろ本気を出しますよ」と、ウォーミングアップを始めたみたい。

 暑いのは苦手だけど、夏が来る、あの気配と高揚感は大好きだ。

 

 今夜は満月だった。夜空には雲がなく、さえぎるものはない。おれは宇宙の向こう側まで見える気がした。

  

 かの文豪、夏目漱石が英語教師時代。教え子が「I love you」を「我君を愛す」と訳した際、「日本人はそんなこと言わん。月が綺麗ですね、とでも訳しておけ」と言ったらしい。知っている人は知っている逸話である。それが転じて、いまでは遠回しの告白に使われているとかなんとか。

 

 まあこんなこと、彼女は知らないだろうな……

 窓際のベッドに座る彼女の横顔を見る。足はベランダに投げ出され、左右交互にぷらぷら揺らしている。

 

 彼女と出会ったのは高校時代、母校で毎年恒例、春の球技大会。

 忘れもしないバレーボールの試合中、相手チームのスパイクを受けたおれは、あらぬ方向へ勢い余って跳ね返してしまい、ボールは応援席にいた彼女の顔面に直撃した。

 予想外の痛みと衝撃に彼女は泣き出した。怪我こそしなかったものの、取り囲む女子の盛大なブーイングを受けながら、俺は弁解と謝罪を繰り返した。

 しかもリードしていた試合はそこから逆転を許して負けた。なんていうファーストコンタクト!

 

 そんな初対面だったけど、友人としての関係は大学三年の今も続いている。あの出会い方は最悪だったけれど、彼女にとってはいろいろな意味でインパクトもあったみたいだ。

「あのときの血の気が引いた顔は忘れられないよ?」

 そう言って、今では笑い話にしてくれている。


 今日は彼女の誕生日だ。

 誕生日は毎回必ず祝っているけど、今回は初めて二人きりのパーティーになった。まあおれがそうしたのだけど。

 

 おれは彼女の部屋へ赴き、ケーキと思いきや七輪しちりんを持っていきさわらを焼いた。

 初めはさすがに彼女も「あんたそれはないよ」と苦々しく笑っていたが、鰆が焼ける香ばしい匂いが漂いはじめると「もう焼けた?」と子どものようにはしゃいでいた。口にした瞬間は「うますぎる!」とおっさんのようなことを言い、部屋で嬉しそうに小躍りしていた。喜んでもらえたようである。

 

 焼き物も一段落して、おれたちは窓際で、これもおれが持ってきた純米の日本酒と泡盛を飲んでいた。

 まだ幼さが残る顔で、鰆を肴に泡盛のグラスを傾ける彼女の姿が、果てしなく魅力的だった。ひどく明るい月光に照らされ、不思議に蒼白く目に映った。

 

 季節が移るたび、おれの思いは募っていった。

 日に日に暑くなるように、彼女が好きになった。 

 

「なあ、言いたいことがあるんだけど」

 おれはグラスを見つめながら問いかけた。

 

「なに?」と彼女が返す。

   

「あの……」

  

「ん?」

 

「今日は、月が綺麗だな」

 

「そうだねえ」と空を見上げながら彼女は言う。酔いがまわっているのか、頬は紅くなっていた。少しの間のあと「それだけ?」と彼女は静かに言った。

  

 泡盛のせいか、それ以外が原因か分からないけど、おれの動悸は激しい。

 今しかないだろ、気持ちを伝えるのは。あとは言葉にするだけだ……さあ!

 

「……うん。それだけ」

 

「そう」

  

 おれの意気地のなさを、今日ばかりは呪わずにいられない。家に帰ったらまずは泣こう、そう決意する。自己嫌悪と慰めを同時に行う器用な自分。

 そんなとき、彼女がくすっと笑った。

「好きよ」

  

「え!?」好きと言う単語に過剰な反応をしてしまい、食い気味で慌てる。

 

 しかし、彼女はそんなおれを知ってか知らずか、何の気なしに言葉を続けた。


「こういうのも。七輪で魚焼いて、月見酒とか」

 

 ぱちっと、炭が燃え尽きる前の悲鳴をあげていた。

 そういうことね、それは、そうだよね。それはそうだよ、偽りない彼女の言葉。胃袋へアルコールが染み入るよりも早く、その言葉は涙へ変わりそうになる。だけど堪えることもたやすかった。自分でも分かっていたのかもしれないから。


「だよね! いいもんだな、あはは」おれはぎこちなく空笑いをする。

 だよね。本とかには縁遠い彼女が「月が綺麗ですね」の意味を知るわけない。ああ勘違いしかけた自分をさらに呪おう。

 

「ねえ、また満月になったらこれ、やろ?」

 飽きもせずに空を見上げながら彼女は言う。

 

 また? 今度も二人きりかな、いや、分からないけど。

 うん……でも良かった。本当に喜んでくれたみたいじゃないか。今日はそれだけでいいじゃないか、うん。

「いいね、またやろうか」おれも夜空を見上げた。

  

 ひっそり闇を抱える夜の中、お互い黙って満月を眺め続けた。七輪に残った炭がぱちぱちとくすぶっていた。

 しばらくして彼女が口を開いた。

「ねえ」

 

「うん?」

 

「わたしも」

 

「うん」

 

「わたしも愛してる」

 

 その一瞬、満月がより輝いたような気がする。

 

 グラスの氷が「からん」と鳴った。 

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満月の初夏 七色最中 @nanairo_monaka

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