第3話 彼女の悪い足



***


 足は遠慮がちに指をまげた。それがなんだか申し訳なさそうな仕草に見える。

 僕は彼女の足首をつかんで、己の下腹部に押し付けていた。悪いのは少女の足だ。僕が息を荒げて自分を慰める様子を気遣わしげに伺ってくるから。

 癇に障る。その控えめな仕草で僕を心配するさまを表現した彼女が、自殺してしまった弱虫のくせに、誰かを慮るなんて。これじゃあよっぽど僕のほうが憐れな人間みたいだ。

 欲情して形を変える下半身へ少女の足の裏を押し付ける。ひんやりと冷たい、皮膚は少し硬く、望ましい感触はなかった。他人の肌だ、と冷淡に思う。触れ合うことの喜びも、興奮もない。ただ、僕は意地悪がしたかったんだと思う。

 きっと経験のないまま死んだ女の子を、生きていたってそうするかも分からなかったようなことに使う。無抵抗の足は、でも、わずかに嫌がるように首をもたげた。ただそれは、未知のものに対する驚きにも思えた。僕は彼女の足の裏で自慰をする。必死になって、彼女で快感を得ようとした。

 結局、果てた後に感じたのは、いつも以上の疲労感と空しさだった。自分の右手のほうがよっぽど気持ちがいい。ぬめる白色の排泄物を少女の足へ浴びせて、ただひたすら胸が悪かった。嗜虐的な行為で満足できればよかったのに、そういうストレス解消法は僕には向いていないのだ。

「……ごめん」

 声は意図せず拗ねたような響きを持つ。

 まだ僕はこどもだ。そう自覚がある。でも、成人式は去年済ませた。僕はもう、こどもだなんて言っていられないはずなのに。

 翌朝、布団の中でまどろみながら、いい加減少女の足は消えただろうと予感を抱いた。あんなにひどい扱いをしたのだ。生きている女の子相手だったら、ちょっとした刑事事件になりかねない。

 性懲りもなく、少女の足はまだここに居た。

 できれば居なくなって欲しいと思ったのは、今になって恥ずかしくなったからだ。昨日、あんなことをした。僕は、そういうことを平気でできる人間じゃない。本当の恋も、身体のお付き合いも、未経験なのは彼女と同じだ。彼女は、しかし、生前、本当の恋をしていたかもしれない。身体の付き合いもあったのかもしれない。それが死の原因ではないと、僕には言い切れない。

 彼女の足は僕の枕元に眠っていた。もし彼女の身体が存在すれば、ひとつのベッドの上で互い違いに寝ている格好だろうか。ふっと息を吹きかけると、少女はくすぐったそうに身震いした。そばにいてくれるのか。実感がわいて、ひときわ少女をいとしく思った。

 僕は昨日の行為のお詫びのように、少女の足を舐めた。舌を伸ばして、親指と人差し指の間へねじ込む。戸惑って少女のつま先がこわばるのがわかった。

 怯えさせるつもりはないから、そっと抱いてやる。少女の足を大切に包んで、少し硬い裏の皮膚を、対照的に柔らかい足の甲を丁寧に舐め続けた。冷やした鉄を舐めているような感覚だった。体温を感じない。温もりがあるとすれば、それは僕の熱の名残でしかない。少女の足はやがて抵抗をやめて、ぴくぴくと小さく震えながら僕に身を任せた。親指を口に含んでキャンディーを頬張るように味わう。指の付け根のリズムを舌先で楽しむ。

 少女は次第にぐったりと力を抜いて、もう震えることもない。もしかして絶頂を迎えてしまったのだろうか、なんて、下品な妄想にふけって、その日は学校をサボって彼女とのひそかな時間を過ごした。とびきり仲良くなれた、そんな気がした。異性とこんなふうに絆を深めるのは一生に今後訪れるかも分からない、奇跡的な出来事だと思う。


***


「ただいま」

 ――おはよう、いただきます、行ってきます、おやすみ。

 すっかり、挨拶が癖になった。

 無言と独り言だけの暮らしがそれだけで生き生きと息づく。

 僕の声に彼女はよく懐いた犬みたいに駆け寄ってきて、言葉がない代わりにすねを僕のすねにこすりつける。

 双子の子猫みたいな、少女の両足。

 今ではふしぎと喜怒哀楽まで分かるような、親しい僕の同居人だ。

 僕の食事の間、彼女は僕のひざの上でひと時を過ごす。時折は一緒に風呂に入り、彼女の指の間や爪の隙間を丁寧に洗ってあげた。夜はいつもみたいに、まるで互い違いに隣り合って眠るような、僕の顔のすぐそばに少女の足が横たわっていた。

 そして、時折は、少女から僕を求め、僕から彼女を求める。

 彼女は足の裏を器用にうごめかし、やがて僕に快い刺激をくれるようになった。

 代わりに僕も舌や口で彼女を満足させてやる。こんな関係、人に知られたらどう思われるんだろう。いやらしくていかがわしい、彼女との秘密の二人暮らし。満ち足りていた。

 僕はもう一人で授業を受けることを恥ずかしいなんて思わないし、それどころかこんなに素敵な出会いに恵まれなかった同窓生たちを憐れに感じるようになった。

 彼らが口やかましく喚きたてる恋人との出来事や今後の展望を、なんて貧しく退屈だろうと軽蔑した。

 僕は彼女を思い出す。

 白いくるぶし、すこし硬い足の裏、小指のちいさな爪や皮膚の舌触りなんかを。そうすると、心の底から暖かな気持ちになって、すべての雑音がクリアになる。

 僕は幽霊に取り憑かれてしまったのかもしれない。でも、彼女になら、このままどこかに連れ去られても構わない。

 日々、僕たちは静かな時間を過ごす。

 Kと刺繍された靴下を脱がせ、僕の洗い立ての裸足を彼女のそれと重ね合わせる。足の裏と裏を合わせて、くすぐったさに少し肩を震わせる。彼女のほうも、少し震える。まるで笑うみたいに。

 僕と彼女の足はずいぶん大きさが違う。形も色も違う。僕のほうには指の関節のあたりに毛が生えているし、爪もなんだか古ぼけたような色をしている。彼女の涼やかな色の爪とは違う。彼女には産毛程度しか生えていない。比べてみるとやっぱり笑ってしまうほど小さく感じられ、可愛く思う。

 彼女と足の裏を合わせたまま、僕たちは言葉なく時間を過ごす。そうしていると不意に身体の芯から言葉が浮かんで、僕は何度も口にしようと試みるが、いつも決まってためらってしまう。そうするともう、言葉を声にするのは至難のわざで、結局僕は何も言えずじまいになるのだ。

 愛してる、って。

 そう伝えたいのに。だけどそれは、決定的な言葉に思えて、僕はいつも戸惑ってしまう。

 彼女に伝えていいのだろうか。

 だって僕はまだ彼女のことを何も知らない。彼女が僕を知るほどには、何も。

 彼女との関係を確実なものに変えることで僕は強くなれる気がした。だから、気持ちを伝えるために、彼女について知りたくなった。

 一体どんな声だったのだろう。どんなふうに笑うのだろう。名前や背格好、性格、髪の長さ……僕のなかでいつしか彼女の姿が組みあがっていく。空想の中の彼女が現実のものなのだと確かめるために、僕は行動を起こした。


***


 何よりも僕は、彼女の名前を呼びたかったのだ。

 家に帰れば彼女の目があるから、(もっとも、彼女の目がどこにあるのか分からないが、あの子は確かに空間を把握しているし、僕が帰ればちゃんと駆け寄って迎えてくれるから。)学校のパソコンを利用して情報を探した。JR埼京線、人身事故、日付――欲しい情報はなかなか手に入らない。

 学校名をプラスして、ようやくそれらしい事件の記事を見つける。そうだ――ブログ。いまどきの女子高生はブログのひとつくらい持っているだろう。

 その考えにすがってブログサービスの検索欄にひたすら望みの言葉を入れていく。

「あ」

 思わず声に出た。

 見つけた。

 プロフィールにはご丁寧に高校名と学年とクラスが書かれている。K女子校二年C組、ハンドルネームは「愛咲」。該当の日付の記事にはクラスメイトが人身事故で亡くなったという話題が、翌日は自己陶酔的な独り言がつづられていた。

 愛咲さんが彼女と親しかったかどうかは分からないけれど「一人で思い悩んで死を選ぶくらいなら思い切って相談してほしかった」と悲しむ顔文字を添えて書かれている。コメント欄には賛同するような意見や自殺を批判するコメントが連なっている。ピンクの文字がそれぞれに感情を訴えている。

 コメント欄の投稿者のうち、URLを表示してあるものは全部見た。明らかに無関係そうなブログ、社会人や男性のものは省く。同じ学校らしい女の子のブログだけを調べた。

 隣のクラスの子が死んだ、同じ学校の子が自殺した、という投稿がいくつか見つかる。その中に、おそらく、僕の求めていたものはあった。

 プリクラ写真が添付され、絵文字付の文章が記されている。

『うちらゎずっと友ダチ 天国でゆっくり休んでね  ゆかはなおのこと大好きだよ』

 プリクラには女子高生が二人並んで写っている。一人は極端なアイメイクをして茶髪、細い顔。もう一人は控えめなメイクで、前髪をピンで留めて唇を意図的にゆがめて写っていた。ほっぺたにピンクのペンでくるくると円が落書きされている。明るく前向きそうな女の子に見える。

 きっとこの子が彼女だ。

 列車への投身自殺をして足だけの幽霊になってしまった少女だ。

 ペンで名前が書かれている。茶髪の少女は「ゅか」。もう一人の少女は「なぉ」。

 ほかに記述はないかと翌日以降の記事も辿るが、翌日は彼氏の愚痴、同じ日に宿題を面倒がる記事、数日後に食べたデザートの写真が載って、また愚痴が続くばかりだった。

 これ以上は無意味と判断してブラウザを閉じる。

 なお。それは、名前の一部だけかもしれないし、あだ名かもしれない。なお。胸がきりきりした。僕は彼女に近づいた。もう、彼女を永遠に手に入れたような気分だった。なお。なお、愛している。そう囁いて、つま先にキスをしたい。僕は彼女の待つ家へ帰る支度をした。ブログに添付されていたプリクラは僕の携帯電話へ転送して保存した。

 足取りは軽く、家へ向かう道もなんだか新鮮に思えた。

 このままどこへだって行ける。彼女が僕の人生と共にあるのなら。もっとも、彼女には想像していたような清純さはなかったし、少し下品な雰囲気だなぁとがっかりする気持ちはあるけれど、そんなのは些細な誤差だ。

 どきどきしていた。こんな胸のときめきは生まれて初めてだ。

 僕は彼女にたどり着いた。見つけだした。もしかして、家に帰ってみたら、彼女は全身を取り戻した姿で僕を迎えてくれるかもしれない。そうなったらどうしよう? 

 本当に僕たちが結ばれて愛を交わし合うことができたら。素敵なことだ。生と死を凌駕した純愛だ。愛なんて、そんなのくだらないと、嘘っぱちだと思っていた。

 けれど、愛する喜びを知った今なら分かる。誰か愛する人がいる。それはとても、奇跡的に素晴らしいことだ。

「ただいま」

 ドアを開けると足は喜んで僕へ駆け寄る。僕は玄関でまだ靴を履いたまま彼女を待っていた。はやく呼びたい。心臓が声と一緒に飛び出してしまわないかと思う。特別な瞬間を迎えようとしていた。さっきからずっと僕の中ではじけてやまない、彼女の名前。

「なお」

 彼女は、ぴくっと指をひくつかせた。戸惑うように後ずさる。驚いた様子だ。僕が名前を見つけたことを喜んでくれるだろうか?

「なお。愛してるよ」

 足はもじもじと内股になった。照れているみたいでいっそうかわいらしい。抱き寄せてキスをしよう。僕が触れると、彼女はもつれるように蠢いて、部屋の隅へ駆けていった。

「なお?」

 名前を間違えただろうか。それで別の女を重ねていると思って機嫌を損ねたのか?

「ごめん、突然名前を呼んだりして。きみの名前だと思ったんだ。違うならそう合図して。ねえ、これはきみの名前?」

 彼女は部屋の隅から隅へと落ちつかなげに歩んだ。

 僕は携帯電話を取り出して画面を彼女へ向ける。

 表示されているのはプリクラ写真だ。

「なあ、きみはなおだろ? 知りたかったんだ。だから探したんだ。きみの名前を見つけた。顔を知ることもできたよ。可愛いね、でもちょっと眉毛は薄すぎるかも。ねえ、愛してるよ。なお、愛してる。なお――」

 僕の背中で開きっぱなしだったドアから初冬の冷たい風が吹き込んでいた。彼女の足が僕へ歩み寄る。もしかしたら名前を忘れていたのかもしれない。たった今思い出したのだ。神妙な足どりで彼女がやって来る。抱きとめる準備をして、僕は手を広げる。その空間を通り越し、彼女はドアをくぐった。

「……なお?」

 ふらふらした歩き方だ。逃げ出すようでもない。僕をどこかへ連れて行こうといざなうような速度だった。ふと不吉な妄想がいくつか頭をよぎる。

 どんな結果になっても構わない。僕は彼女の後を付けた。

 夕暮れ時の町をぺたぺたと裸足の足が踏んでいく。

 ひざから上の消失した足だけの存在を誰が気づくだろうか。時折人通りが多くなると、足元だけ見て歩く僕は彼女が無数の足にまぎれて消えてしまような危機感を抱いた。彼女の足は人並みをたくみに避けて進む。僕も歩きなれた道を、駅への道をたどる。

 彼女は僕を連れて行こうとしているのだ。

 僕はこのまま彼女の後をつけて線路にたどり着くのだろう。そこで彼女は歩みを止め、僕も足を止める。やがて列車がやってきて、僕をぺちゃんこに磨り潰す。僕は跳ねられて、ぐちゃぐちゃになって死ぬ。そうしてはじめて、本当の意味で彼女と結ばれる。

 そんな予感がして、でも少し嬉しかった。

 だって僕は、このまま生きていたってどうやって幸せになればいいか分からない。

 それならいっそ、今この瞬間に、誰かに求められて死ぬことができれば、それが何よりの幸せじゃないかと思う。

 駅のそばまでたどり着く。足は不意に立ち止まって何かを探すようにあちこちへつま先を向けた。電車の訪れを警報機が告げる。

 彼女と出会った場所に僕は立っている。

 もうあたりは真っ暗で、駅だけがまばゆい光を抱いている。

 カンカン、カンカン。カンカン、カンカン。

 彼女はどこへ向かおうとしているのか。

 ついに列車が来た。

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