どこにも行けない足
詠野万知子
第1話 六畳一間と白い足
西口駅前の銀行の一番奥のATMに並んでいた。
夕食の材料を買いにコープを訪れる主婦達が、囁きあう噂を聞いた。
***
夕方だった。四時半には区内放送でノスタルジックな音楽が流れる。曲名は分からない。「家に帰る合図の曲」だ。ずっと――もう十年以上も前の認識だ。
生活費を下ろしてぱんぱんの財布を気にしながら、トートバッグを担ぎなおす。
秋が冬に変わり行く乾いた風を切って、JRの列車が通過していく。上り、そして下り。
踏み切りの警報機が鳴り響いている。耳障りで、不愉快な、カンカンと響くあの音が嫌いだった。幼い頃は恐怖さえ覚えて、けれどいつしか気に留めないようになっていた。
いつからだろう。いつ、怖くなくなったのだろう。覚えていない。記憶を取りこぼしたみたいで、物足りない感覚に気持ちが悪くなる。
いつ、大人になったのだろう。いつ、どの瞬間。過去、あるいは未来の。
空は暮れていく。生活費は入った。大学三年の秋。行く末は見えない。多分、見たくないせいで。自堕落な一人暮らしは自己責任でどこまでも怠けられる。気づいたときには手遅れなのだろう。優秀な両親に申し訳ない。だけど僕は、賢く育たなかった。
カンカン、カンカン。カンカン、カンカン。
持て余す時間を、投げ捨てたい衝動に駆られることは少なくない。
例えばほら、今目の前の、線路に身を投げだしてしまいそうな、誘惑に負けそうだ。
カンカン、カンカン――。
今回は僕の勝ちだ。列車は無事に通り過ぎる。
上がっていく遮断機の向こうに足が立っていた。足だけが左右そろって、すらりと白く伸びている。紺色の、膝下の靴下をはいて、ぴかぴかのローファにつま先を差し込んで。足だけが。ピンクがかったの膝を、夕陽に照らして、立っていた。
太ももから上も、上半身も見当たらない。
銀行で聞こえた主婦達の囁き声が、耳に蘇った。
『この前の、踏切事故。自殺ですって。K女子高校の生徒が――』
足だけの幽霊なんて初めてだ。幽霊なら普通、足がないものだと思っていた。そもそも幽霊を見たのも初めてだけど。
自転車が危うく車の隙間を通り抜けていく。腰を折った老人たちが自転車の行く手を阻む。誰もが足に気づいていない。足だけのその存在に。自殺した女子高生の霊に。主婦が子の手を引き通り過ぎる。中学生が自転車で隊列を組み、トラックにクラクションを鳴らされる。日が落ちていく。影が伸びていく。夜が迫っている。
僕は、声をかけた。
「おいで」
足は、躊躇いながら、僕のあとを着いてきた。
***
六畳一間で、ユニットバス。窓は二つ、ひとつは西を向いている。夕暮れに帰ると部屋は真っ赤に染まる。今日はもうその時間を過ぎていた。
服と本とコンビニのビニール袋が散らかった部屋に、パイプベッドがひとつ。本棚がひとつ。デスクが一つに、ノートパソコンが一台。それから食事用の小さなちゃぶ台。
物を掻き分けてフローリングを露出させる。座布団を引き出して少女の足へ勧めた。
「座って」
足は律儀にローファーを脱ぎ、部屋へ入ってきた。男の一人暮らしの部屋に緊張している足取りで、座布団まで辿り着く。
「いいよ、座って」
ようやく少女の足が座布団を踏んだ。
異様な光景だった。
マネキンの足が並んで座布団に寝かせてあるようにしか見えない。
「夜は、寒くなるし。今日、泊まってけば」
当然だけど足は答えなかった。そもそも喉や口がないのだから。
人外のものと日常会話を一方的にしている。この状況がおかしくて、でもそれを楽しむ気分になっていた。僕は、退屈で、投げやりで、何もかもが今、どうでもよかったから。この先どうなろうと。だから、良い退屈しのぎを見つけた気分だった。
「きみ、K女子高校の生徒? ああべつに、どこかに言いつけるつもりはないけど」
足はもじもじと座っている。僕は駅前のコープで買った惣菜をレンジに入れ温めた。五十秒。カツ丼と野菜ジュースが今晩の献立だ。ストローを差して口に咥える。
「男の部屋、初めてでしょ。違うかもね。でも、K女子高はそんな印象。噂で聞いただけだけど」
少女の足の靴下は紺色で、白い刺繍糸で「K」と縫いつけてあった。ご丁寧に、靴下まで指定のものを買わねばならないのだろう。そしてこの少女は真面目にその校則に従っていた。真面目な生徒だったのだ。きっと、自殺をするほど思いつめる、というのは真面目でなければできない。僕は不真面目だから分かる。
チン、と電子音が鳴る。僕の腹がぐうと鳴る。空腹。飢え。欲求。それが生きている証拠。
「あの日のこと覚えてる。ダイヤがすごく乱れた。僕は乗ったばかりなのに、電車が止まって酷く苛立った。人身事故のため停車致します、って聞いた。何人かのサラリーマンが舌打ちをして、携帯電話に向かって頭を下げた。遊びに行く大学生たちが、不満げな声を上げていた」
囁き声が聞こえた。自殺とかする奴マジ死ねよ。笑い声。って、もう死んでるんだけどね。笑い声。
「混雑していた。幸い、ラッシュの少し後。だけど、そこは埼京線。真昼間じゃなきゃ混雑してるんだよね。で、もう大学へ行く気が失せて、結局僕は、引き返して、授業をサボった。つい一週間くらい前のことだけど」
湯気を立てるカツ丼をちゃぶ台へ運ぶ。割り箸を割って手を合わせる。普段ならしない振る舞いだった。もう死んでしまった彼女に見せ付けるように丁寧に頭を下げた。
「いただきます」
衣がふにゃふにゃになってタレを吸った、油ばかりのカツをほお張る。熱い。しょっぱい。歯が肉を切る。噛み砕き、飲み下す。米を、卵を、また肉を。これは豚の体を殺して切り分けて凍らせて運んで油で熱した食料。僕の餌。生きるための燃料で、かつて生きていたものの名残だ。
僕は昔、ある番組を見てからしばらく拒食症に陥った。家畜の屠殺についてのドキュメンタリーで、どんな思想の奴が企画したのか、とにかく家畜を哀れに映した。家畜は極めて機械的に殺害され、血を抜かれ、皮を剥がれ、吊され、凍らされた。一枚皮を剥いで現れる赤い肉の塊が、僕は怖かった。低く響く断末魔、悶え苦しむ声に、彼らにも感情があるのだろうかと考えさせられた。きっと製作者の狙い通りだ。改めて、僕が口にしていたのは生き物の死骸なのだとつきつけられた。七歳の頃だ――。
思えば、怖いものがたくさんある幼少時代だった。幽霊も、戦争も、般若のお面も怖かった。それをいつしか克服して、どうでもいいと思うようになっていた。いつ、どの瞬間。僕はそれらに関心を払わなくなったのだろう。
死にたいと思ったこともあった。
でも、死ななかった。
何故だろう。
「おいしい」
どこかの誰かのうちのお母さんが、パートタイムで入ったバックヤードで、数時間前に調理したカツ丼だ。家庭の味と大差はないだろう。僕の母さんの料理よりは上手い。
少女の足は正座の形のまま、太ももから上が消失した姿でそこにじっとしていた。
体重がないから、きっと足は痺れないんだろう。そんなどうでも良いことを考えた。
***
動物を殺してその肉を食べるなんてかわいそうだから、野菜だけを食べた。
でも野菜を育てている人がお肉を食べていたらおんなじだ、と考えた。それである時、全ての食事を拒んだ。無理やり食事をさせられた日は、気持ち悪くて何度も吐いて、頭の中はぐるぐると、罪悪感でいっぱいだった。
ごめんなさいと繰り返して、気づけば夜は明けていた。ぼんやりする頭で学校へ行って、消しゴムを食べて病院に運ばれて、栄養剤を点滴された。食事が嫌いだった。ものを食べることが怖かった。幽霊も、般若のお面も、母親のヒステリックも、酒に酔った父親も、口汚い兄も。でもいつしか、全てが、怖くなくなっていた。
適当に予習をして、適当にネットサーフィンをして、適当な番組を見て、適当に笑って、適当に時間を過ごした。足は座布団の上で大人しくしていた。退屈しないのだろうか。今までどうしていたのか、少し気になった。だけど回答は得られないだろう。何せ足しか存在しないのだ、彼女は。
無責任に連れ帰ったことに罪悪感はない。あくまで彼女は選べたわけだから。留まるか、着いてくるか。彼女だって飽き飽きしていて、何もかもどうでもよくて、良い退屈しのぎと思って僕について来たのかもしれない。幽霊も退屈になるんだ。
もう寝よう。
風呂に入って、歯を磨いて。僕は布団に潜る。一日今日も無駄にした、と考える。
「一緒に寝る?」
いたずら心で問いかけた。
暗い部屋、窓からの灯りだけで僅かに見える、白い足は、そうしてみると青白く、なるほど死人の足だと思った。足は立ち上がった。
「帰るの?」
どこへ行くのか興味があった。もし家を出たら後をつけようか、一瞬考えて、でも面倒くさいからやめた。
足は戸惑うようにたたらを踏んで、結局、部屋の隅に縮こまるように座り込んだ。
「落ち着くところに居ればいいさ」
僕は布団を被って、体を丸めて目を閉じた。こうしないと眠れない。布団は重いほうがいい。息苦しいほうが眠りやすい。昔からの癖だった。
幼い頃は、布団が僕の防空壕だったのだ。全ての怖いものから逃げ出すための。だけど今は、たった唯一の怖いものから護ってくれない。むしろ、この防空壕が僕をそれへ引き合わせる。僕の怖いもの。今この瞬間の向こう側。今日から見た明日、明日から見た明後日。その先の、ずっと未来まで。僕は怖い。未来が怖い。
「……」
布団に入ってしばらく、少女に思いをはせた。
報道はされなかったはずだ。きっと、一瞬、K女子高周辺の話題を盛り上げ、一週間もすれば飽きられたのだ。毎日のように学生の自殺が報道されるのに、氷山の一角にしか過ぎないんだな。
高校生といえば、十六歳から十八歳。僕が三年も前に通過した学年だ。こんな歳で、死を決意するほどの、一体何が彼女を襲ったのだろう。それも、列車への投身自殺。彼女が電車通学者なら、その迷惑さを身をもって知っていたはずだろう。だからこそ、この手段を選んだのかもしれない。身近だったのかもしれない。
いじめ、だろうか。恋愛のもつれ、友情の破綻、何にしろ人間関係の不調和。それくらいのものだろう。自殺の理由なんて。自分の狭い世界を、狭い価値観で持って、閉ざす。それだけの、そして責任ある行為だろう。僕には出来なかった。何度か試したけど、無理なのだ。直前でどうでもよくなってしまう。それよりポテトチップスが食べたい、それで納得しよう、と思ってしまうのだ。不真面目なのだ。
僕よりもよっぽど、生き抜いた果てに社会の役に立つのはこの少女のほうだろう。惜しい人材を失くしたものだ。誰も助けてくれなかったのだ。親も。教師も。友人も。そして彼女は、己の責任でもって、己の人生に幕を引いた。あるいは逃避だったのだろうか。一瞬、ほんの一瞬、何もかもがわずらわしくなり、行き止まりを感じ、解放を求めたのか。ならば、後悔しているだろう。だからこそ、ここに足が残されているのか。
だとしたら随分慎ましやかなものだ。足だけの後悔、その程度とは。そんないい加減なことを考えながら、僕は眠りについた。足も眠るのだろうか。分からない。
朝起きると、朝日に照らされた足が横たわっていた。
右と左、しっかりきれいにそろっている。明るい光に照らされると、少女のつややかな肌がよくわかった。毛穴が小さく、毛は薄く、怪我もなく、艶のある足だ。やや肉付きがいいが、太っているわけではない。筋肉が適度についているから、そうキツくない運動部にでも所属していたのか。文化部ではないだろう。すらりとした印象から、身長は一五〇センチ半ばから一六〇センチ程度ではないかと推測した。ただの勘だ。そしてきっとK女子高の制服をきちんと着こなし、鞄にふたつくらいキーホルダーを付けて、教科書は毎日持ち帰る生徒だったに違いない。時々、放課後、友達と遊びに出かける。
ありふれた、善良な、絵に描いたような女子高生だ。
電車の中で一度くらいは痴漢に遭うこともあっただろう。しかしそれを誰にも相談できないような気の弱い女の子だったのだ。理想的な女子高生。
柔らかそうなふくらはぎだ。乳房を連想する色をしている。
僕は指で彼女のふくらはぎをつついた。柔らかく、そして意外に弾力がある。乳房とは違う。触ったことはないけれど。
驚いて、足は飛び起きた。もつれそうになる足を支えてやる。
「ごめん。つい、誘惑に負けて」
足が僅かに内股気味になった。足の指が、落ち着かなげにもぞもぞ動いた。照れているのだろうか。それとも嫌悪しただろうか。
「今日は、どうする? 帰る? ここに居てもいいけど、僕、遅くなるよ」
幽霊だからきっと勝手にドアを出入りできるだろう。そう高をくくって告げる。
足はじっとしていた。それから、数歩歩いた。昨日差し出した座布団に座り込む。
「わかった。いいよ」
ここが気に入ったらしい。それとも、僕をだろうか。
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