さいごの町

詠野万知子

第1話 空は曇天で、それはいつものことだった。

 それが最良の方法だと言うように、少女は棺の中に横たわっていた。

 敷きつめられた花の上に長い黒髪が広がっている。伏せられた睫が頬に影を作る。

 何もかも、あの日の再現みたいだ。

 棺は少し、少女には大きい。

 何度もこの光景を見た。

 そんな錯覚が彼を襲う。

 時間が進んでいるのか、あるいは繰り返しているのか。

 この町ではもう、一つだって新しいことは起こらないのだ。

天根あまね

 呼ぶ、名前が、嘘みたいに響く。

 今にも返事をしたそうに、唇が震えるんじゃないかと、彼は少女を見つめていた。 

 唇は艶と色を持って、それが少女本来のものなのか、死化粧なのか、彼には分からない。

 まだ、生きているみたいだ。

 もしかしたら、生きているのかもしれない。

 彼女は最良の方法で、この町を出て行くのだ。

 家族も、友人も、皆置き去りにして、誰よりも早く外を目指す。

 終わり行く町を、抜け出していく。  


1.

 誰かが死んだらしい。

 空は曇天で、それはいつものことだった。快晴なんてたまに、雨の日はそれよりも少ない。

 屋上から町が見わたせる。端から端まで、全て。

 町は歪な円形にぎゅっとまとまっていて、二本の線路に囲われている。

 内側の一本は、毎日電車の走る常用線だ。

 外側の線路には、決められた時だけ電車がやって来る。

 そのため、一直線の線路が町のずっと向こうまで伸びている。ずっと、向こうまで。

 何事もなければ月に一度だけやってくる外の列車が駅に停まっていた。

 決められた日はまだ先で、葬送に来たのだとすぐ思い当たる。

 学校の屋上で千葉は町を眺めていた。ごく平均的な体型と容姿が風にさらされている。

 千葉はこの学校の教師で、二十八年この町に暮らしている。

 誰もがそうであるように他の町を知らない。

 この町では人が死ぬとどこか遠くから列車が棺を引き取りに来る。

 駅の前で人だかりができていた。

 誰が死んだのだろう。

 でも今まで知らなかったのだからきっと自分には無関係の誰かだ。

 千葉はそう思って、なんとなく葬式の様子を眺めていた。はっきりとは分からない。

 人がいつもより集まっていることと、遠くから列車がやってきたことだけが、この屋上から判る情報だった。

 一本だけ外に伸びる線路から来る列車を「外の列車」と人は呼ぶ。

 町を回り続ける列車はすなわち「中の列車」だ。

 町の外には何もない。どこか遠くへ向かう一本の線路以外には、何も。

 駅は生活に深く関わっている。

 結婚する者は駅で式を挙げ、希望者は特別な車両の中で披露宴をする。

 死んだ者は駅で葬式をし、列車が棺を運び出す。

 子が生まれたとき列車に乗って町を一周する親も居る。

 千葉の親も確か同じことをした。

 育てば嫌でも列車を使うことになるのに無駄なことだ、と思ったのは学生の時だった。

 今は立場が変わり教師をしているが、それでもやっぱり列車に乗っている。

 今日はもう授業はない。だから千葉は屋上に来ていた。いつもの何気ない習慣だった。

 授業をして、終わったら屋上へ行き、町を眺めて、気が済んだら帰る。

 それが彼の一日で、その繰り返しで一年が出来ていた。

 最寄りの駅を最後に見下ろして、彼は屋上を去った。



 駅での葬式はまだ終わる様子を見せない。

 歩いて帰ることが億劫で、何気なく葬式を取り巻く群衆に混ざる。幸いスーツ姿は目立たない。

 駅は一階建て、外観は幅広い四角い箱が線路に被せられたように見える。無駄を省いた単純な建物だった。

 人垣の向こうに故人の家族らしき集まりと、真っ黒の棺が見えた。

 まだ列車は留まっている。式は中盤といったところだろうか。

 千葉は人の群れから離れた。

 駅前の広場は噴水を中心にして常盤木の垣根にぐるりと囲まれている。

 ベンチが設けられているほかに気の利いたところは自動販売機とゴミ箱だけだ。

 空を映したように灰色にくすんだハトが地面をついばんでいる。千葉がすぐそばを通っても驚きもしない。

 千葉は自販機で加糖のコーヒーを買った。

 苦いものは好まない。

 煙草もやらない。強い酒も飲まない。

 なんとなく危険そうな道は避けてここまで歩いてきた。教師という道に進んだのもこの性格に由来している。

 友人には重度の煙草好きや酒飲みがいるが、彼らを咎める気持ちはない。

 潔癖でもなく、対抗意識や反骨精神ではなく、ただ単に千葉はそういうものが面倒臭いだけだった。

 何かにこだわること。何かを用いて自らを決定付けること。つまり、自分らしさというものを主張すること。

 立場は教育者でも子供たちに何かを教えようと気負ったことはない。

 単に上から指示された通りに物事を進行させる、それだけの役目でしかないと千葉は思っている。

 膝に肘をついて覗き込むように地べたをついばむハトの群れを眺めて、飽きると再び葬式の列を見た。

 ふいに人の群れを割り、影のような誰かがこちらへ歩み寄る。

 喪に服す、黒一色のワンピース。長い髪も黒く、目も黒く、肌と靴下だけが白かった。子供だ。

 もしや、と思うと同時に無表情な声が言った。

「千葉先生」

「ああ」

 教え子だ。毎日見る顔だが咄嗟に名前が出てこない。今日欠席していた、そう、忌引きで。

 なるほど、と思うがまだ名前が出て来ない。あー、あー、と喉を鳴らして、視線がふいにそれを捕らえた。

 葬式案内の看板。

「――天根。このたびは、ご愁傷様です」

「うん。先生も見送ってくれる?」

「迷惑でなければ。抜けてきて良かったのか?」

「もう戻るよ。行こう」

 そう言うと千葉の手を取り少女は駅への道を辿る。

 小さく平べったい手だった。皮膚の向こうに骨の存在を確かに感じる指。

 天根みらいは千葉受け持つ中等部二年一組の生徒だ。

 特に目立ったところのない少女で、しかし同じようなことが全生徒にも言えた。

 手を引かれ、正面の駅へ連れられる。

 確かに見覚えのある天根家の父母の姿と、ハンカチで涙を拭う若い女性が一人。

 静かで、泣き叫ぶような者は誰もいない。しんとして、厳かで、息を潜めさせる空気に沈んでいる。

 千葉は無意識に呼吸を減らしていた自分に気付き、滑稽に思う。何も変わりはしない。日常の一部だ、葬式なんて。

 天根が両親に「担任の千葉先生」と紹介し、父母が頭を下げた。

 千葉も慌てて頭を下げ、ふと横で静かに涙している女性の存在にはっとする。

 天根家の末娘は気詰まりだったのか、千葉を連れて天根家親族の集いを離れていった。

 歩く道を見下ろしながら千葉へ囁く。

「あのね。お姉ちゃんの子供が死んじゃったの」

「お姉ちゃんって、もしかして天根美咲? ――さん?」

 咄嗟に敬称を忘れて付け足す。天根は不快に思わなかったらしくこくりと頷くだけだった。

「親しくなかったけど、先生の同級生だった。結婚したのは知っていたけど、子供がいたのは知らなかったな……」

「あんまり周りに言ってなかったから。もともとお腹に居るときから危ないかもって聞かされていて。

 それでも無事に産まれてきたのに、ね。三日間……」

 レンガで造られた花壇に腰掛けて、少女は視線を落とした。

 黒いワンピースの裾の上に重ねた白い手に、ぎゅ、と力が入る。

「三日間、頑張った。産まれてから、でもたったそれだけで、死んじゃった。ねえ先生」

 千葉はぐっと歯を食いしばった。

 次に来る質問が容易に想像できて、その言葉の重さも知っていた。

 答えられるわけもなく、訪れる沈黙の冷たさに身構える。

 ねえ先生。ねえ先生、人は、どうして死ぬの? さあ、来るぞ、来るぞ――。

「人ってどうして産まれて来るのかな」

 天根の質問は、千葉の予想と少し違った。

「……それは、人に教えてもらう問題じゃない。自分で考えて、悩んで、納得する答えを見つけなくちゃ」

 それでも千葉は用意していた定型句で答えた。うつむいた表情は伺い知れない。

「じゃあ、先生はどうして自分が生まれてきたと思う?」

「教師になるためだ。働いて、いつか家庭を持って、子を育てて、幸せになるために」

 これも用意した回答だった。

 こういう困った質問を回避するために前もって準備してある。

 相手は子供だ。子供は不可解なことを考えたがる。

 成長すればそんな無駄なことはしなくなるが、それが無駄と分からないから子供なのだと千葉は思う。

 千葉も昔は子供だった。

「先生。お別れ、行こう」

 ベンチ代わりの花壇から立って天根は葬列へ戻る。

 棺は立派なもので、大人がすっかり収まる大きさだった。中で眠る遺体には広すぎる。

 蓋はまだされておらず、千葉ははじめて棺の中を覗き込む。

 真っ白な花が敷き詰められ、一目には花しか入っていないように見えた。

 中央にほんの少しくぼみがあり、花が避けられているその空間に小さな亡骸が収まっている。

 瑞々しさを失った生後間もない乳児は、安らかとも苦悶ともつかない顔をしていた。

 そのどちらの感情も知らないうちに生を終えてしまったのだ。行く充てもないこの小さな町で。

 千葉はふと天根を見た。姉の産んだ、死した子を見ている。真剣な眼差しで少女は棺を見つめていた。

 その黒い瞳に羨望が灯っているように見えたのは、千葉の勝手な思い込みだろうか。

 天根美咲は数日前までお腹の中で慈しみ暮らしたわが子を見て、すぐに視線を外した。

 見るのがつらいという風で、両側から父母に支えられて立っていた。「ゆみ、ゆみ」と名を呟いている。

 棺の奥に「結実」と名札が立てられていた。実を結ぶ、とは皮肉な名だ、と千葉は冷めた思いで見つめていた。

 実は結ばれなかったのだ。

 三両だけの列車に棺が運び込まれて、コンテナのような無骨な車両に固定された。

 作業するのは駅員で、どこか遠くから列車を運転してきたはずの運転手の姿は見えなかった。

 駅員が車両に敬礼し、ゆっくりと丈夫な扉が閉ざされた。

 一瞬、天根美咲が追いすがろうとして、それを寸前で腕が止める。

 抱き止めたのは駅員だった。瞳に涙が光っている。あれがきっと天根美咲の夫だと千葉は悟る。

 顔を知らないが、外見の年齢から見るに学生時代は同じ学び舎に居たはずだ。

 傍らの教え子を見ると彼女の視線は棺や家族のほうにはなく、遠くから来た鉄色の列車に向けられていた。

 違う。天根が見ているのは線路だ。

 たったの一線まっすぐ伸びる、地平線まで越えていく、はるか彼方へ向かう道。

 翌日、教室に天根の姿は見えなかった。

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