第4話 言語という名の色眼鏡

90年代、中国は世界貿易機構にまだ加盟しておらず、情報も閉鎖されており、謎につつまれた未開の国でした。インターネットが普及していない時代、ましてや深山幽谷の高野山にある大学で書生をしていた私には、現代の中国人がどんな暮らしをして何を考えているのか、まったく知る術がありませんでした。中国人の誰もが人民服を着ていて、誰もが中国拳法を使えて、野生のパンダがどこにでもいる、そんな世界を私は勝手に想像し、未知の大陸に渇くような好奇心と憧れを抱いておりました。

ちょうどそんな時、ある若者が、7年間の中国留学を終えて、ふたたび高野山の土を踏みます。80年代後半、日本中がバブル経済に浮かれていた頃、彼は単身、文化大革命の余韻が残る未知の大陸に乗り込み、広州の名門、中山大学で大学院まで学業を修めました。

彼こそは高野山、無量光院の副住職であられる、土生川正賢先生その人です。

帰国後、高野山大学で教鞭をとることになった先生は、

中国語の授業の中で、今の中国の状況や御自身の体験談を語り、学生たちの好奇心に火をつけました。そして、語学を学ぶということは、決して知識をおぼえる事ではなく、技術を身につけることであることを力説されました。


「君ら、今まで英語を何年勉強したか知らんけど、ようしゃべらんやろ。言葉というのは、しゃべれてなんぼやで。」


当時、机上の学問にんでいた自分には、とても新鮮な言葉でした。そして先生は、語学という学問が、実践ありきの実学でありながら、同時に深遠なる哲学的側面を持っていることも教えました。


「エスキモーの人たちは、一面まっしろの世界に住んでいます。

彼らは同じ白色でも何十種類も細かい白色の区別があってそれぞれ見分けられます。我々日本人から見たら、どれも同じ白色や。なんで見分けられると思いますか?エスキモーには何十種類の白色を表す言葉があるからなんや。

言葉があって初めて、人間は物を認識できるんやね。」


世界は言葉によって創られる。


新約聖書ヨハネの福音書にあるように、まさに世界は「始めに言葉ありき」なのです。外国語ぺらぺらの人は睡眠中、夢の中でも外国語で会話をするといいます。

一体どんな気持ちなのか自分も是非とも体験してみたいものだと思ったものです。

大学卒業後も、私は高野山の密厳院というお寺で住み込みで働きながら、

高野山大学の中国語の授業に毎週こっそりお邪魔しておりました。


今から十数年前、2002年の事です。

一年後の2003年、弘法大師入唐1200年記念事業の一環として、

高野山大学で中国語を学んでいる学生たちが、大師入唐漂着の聖地、赤岸鎮にある小学校に赴き、お大師さまの伝記の紹介など、文化交流活動を行うという計画が、にわかに持ち上がりました。

日本人の学生が現地の小学校の教壇に立ち、中国語で授業を行うとなると、相当にレベルの高い語学力を要します。なにしろ一年しか時間がありません。

週に一度だけの第二外国語の授業で急激なレベルアップをはかるために、先生は、ある課題を学生たちに毎週与えました。その課題とは、正しい発音でテキストの長文を丸暗記することです。長文丸暗記は一見、非常に地味な詰め込み作業ですが、語学学習において劇的な効果が得られます。

はじめのうちは、たった一行の文章を覚えるのにも四苦八苦していましたが、そのうち、数百文字の文章、数ページにわたる長文を苦もなく丸暗記し、読経のように流暢にそらんじることが出来るようになりました。くりかえし文章を音読するうちに、中国語の音と意味が、深層意識のハードディスクに焼き付けられます。


中国語への「反応」がいつしか「反射」へと高まり、

日本語で考えるより先に中国語の言葉が繰り出せるようになっていました。

「ありがとう」と言おうと思って「謝謝」と言うのではなく、

「謝謝」と言いたい衝動がすでに意識の鞘の中に収まっているのです。

気がつくと、まるで居合い抜きのように中国語を抜刀できる体になっておりました。先生のおっしゃるように、語学とは頭でおぼえる知識ではなく、体でおぼえる技術なのです。

文化交流活動の直前、最後の仕上げとして、先生は学生たちを無量光院に招き、強化合宿を行いました。合宿中、如何なる時であれ、学生たちは中国語で発言しなければいけないルールがありました。

先生の熱血指導のおかげで、学生たちの語学力は飛躍的に向上し、赤岸鎮小学校における文化交流活動は大成功をおさめました。

その後、私は御縁をいただき、2006年から赤岸鎮に駐在することになりました。

そのころになると、日常的に夢の中でも中国語で会話できるようになっておりました。

私は普段、日本にいる時、信号機の青信号をもちろん「青色」と認識しております。

ところが、中国にいる時、私はあの色を「緑色」と認識しています。

なぜなら中国語で青信号を「緑灯」と呼ぶからです。

日本の物とまったく同じ色ですが、中国語で思考している私の目には、はっきりと緑色に見えています。言語は感覚をも支配します。虹の色は七色だとは限りません。民族によって言語環境が違えば、虹の色も三色に見えたり五色に見えたりします。我々は普段、言語という名の色眼鏡をつけて生きているのです。

英語では日本人の事を「ジャパニーズ」と呼び、

そして日本語の事もやはり「ジャパニーズ」と呼びます。

即ち、本来、言語とは民族であり、民族とは言語の事なのです。

お大師さまも、著書「声字実相義しょうじじっそうぎ」の中で、こう述べております。

音声オンジョウ即チ実相ジッソウアラワス」。

音と声、つまり、言葉こそ世界そのものを映すカガミなのです。

お釈迦様は悟りの境地を、

言葉では表現できない「言語道断」の境地であるとおっしゃいました。

言語という名の色眼鏡を外したその先に、悟りの世界が見えるのでしょう。


                               合掌



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