第16話 天使によるプロテスタント (後)

 クルアーンにも、アブラハムやイエスなど聖書の預言者が登場する。しかし、彼ら預言者はクルアーンの中では画一的で、人間くささが感じられない。

 ヌーサ(ノア)は、人々にアラーを信じろと説く。イブラーヒーム(アブラハム)は、父アーザルとその仲間の偶像崇拝をとがめる。ルート(ロト)は、ソドムの町の人々に天使の言うことを聞くよう説得するが、偽物だと言われる。ダーウード(ダビデ)とスライマーン(ソロモン)には知識を授け、イーサー(イエス)はアラーの僕にすぎない等々。


 そんななかで、ムーサー(モーセ)の扱いは例外的に多い。クルアーンでは、ファラオとのやりとりなど、聖書より細かく描写されている箇所がある。


 モーセは、町で自分の仲間が喧嘩をしているところに出くわし、仲間に加勢を求められ、相手を殴り殺した。モーセはそのことを反省した。翌朝、モーセが町を警戒しながら歩いていると、昨日助けた仲間が又喧嘩をしている。相手は、昨日のモーセの事件を知っていて、昨日殺したみたいに俺を殺そうとするのかと非難した。

 そうやって揉めていると、別の知り合いが町のはずれから走ってきて、長老達がモーセを殺そうと話し合っている、早く逃げろと告げた。モーセは、正しい逃亡先に導いてくれるよう主に祈った。


 ミディアンの水飲み場に来ると、人々が家畜に水をやっていた。片隅にいた二人の婦人が、自分たちの家畜を水に近寄らせないようにしていた。モーセが尋ねると、彼女たちは、「牧夫が帰るまで水をやれない」と答えた。モーセが代わりに水を家畜に飲ませた。

 片方の婦人が、お礼をしたいと申し出、モーセは婦人の父に事情を話した。婦人は父に、モーセを雇うよう提案した。父はモーセに、八年働いてくれたら、娘を嫁にとらせると約束した。モーセは約束を守り、娘と結婚した。


 モーセが家族と旅をしているとき、シナイ山のそばに火を見つけた。モーセは家族に「向こうに火が燃えている。見てくるからここで待っていろ」といって火を見にいった。モーセが火に向かう途中で、谷間の渓谷の右側の木から主が語りかけた。主はモーセに杖を投げるように言った。杖は蛇のように動いた。モーセは恐れて逃げた。しかし、主は、「恐れるな、近づけ」と命じた。(28章物語)


 モーセを囚人にするとファラオが言うので、モーセが杖を蛇に変えて驚かせた。ファラオの家来がモーセらを帰らせ、後日エジプトの魔術師と勝負させる。勝負は民衆も見学していた。魔術師は勝てば褒美がもらえるかどうかをファラオに確認。ファラオは側近にしてやると答えた。魔術師が先に杖と縄を投げた。

 モーセの杖は、魔術師の杖と縄を飲み込んだ。魔術師は敗北を認めたが、ファラオは怒った。主はモーセに、天使と一緒に夜のうちに旅立てと命じた。ファラオの軍隊は朝に追い始めた。モーセが杖で海を割った。別れた部分は巨大な山のように盛り上がった。(26章詩人たち)


 シナイ山で主はモーセに杖の用途を聞き、モーセは羊のために木の葉を落としたりすると答えた。主についての問答をした後、ファラオは魔術対決をもちかけた。対決は祭りの日の昼前に決まった。モーセはエジプト側が先に行うように言い、エジプトの魔術師は杖と縄を投げた。

 すると杖と縄は生きているように見え、モーセは恐れた。しかし、主は恐れることはない、右手の杖を投げろと告げた。魔術師は負けを認め、主を信じると言った。それでファラオは魔術師を処刑すると脅した。(20章ターハー)


 主はモーセに律法を授ける日数を、当初予定の三十日から十日延長し四十日にすることを告げた。約束したように、モーセが山の近くに行くと、主の声がしたので、モーセは「主の姿を見たい」とずうずうしいお願いをした。すると、主は姿を見せる代わりに、山を木っ端微塵にした。モーセはそれで失神した。

 モーセの留守中、イスラエルの人々は、鳴き声の出る子牛の像を造った。帰ったモーセはそれを見つけると激怒し、板の碑を投げた。モーセは兄アロンの髪をつかみ、自分のほうに引き寄せた。アロンは「離せよ、おまえ、兄弟だろう。俺はあいつらにやめるよう説得したが無力だった。あいつら俺のこと殺しそうだった。だから俺を責めるな」と言い訳した。(7章高壁)


 モーセについて、クルアーンには聖書と異なる点がかなりみられる。

 聖書ではエジプト人を殺した翌日、また喧嘩に出くわし、悪い方をとがめると、また人を殺すつもりかと言われ、昨日の犯罪がばれたと観念し、逃亡。それを聞いたファラオはモーセを殺そうとした。クルアーンでは、二日目の喧嘩の最中に、知人らしき人物が町のはずれからやってきて、長老たちに犯行がばれたと知らせてくれて、モーセは逃亡した。


 逃亡先の水飲み場の婦人の人数は、聖書では七人だが、クルアーンでは二人。聖書では婦人たちが追い払われたことになっているが、クルアーンでは他の羊飼いが終わるまで待っていた。


 山での主との遭遇も異なる。聖書では家族が登場せず、主はモーセに履き物を脱ぐように言いつけ、杖が蛇に変わるとモーセはそれを避けた。対してクルアーンでは、杖の役目の問答があり、渓谷の右側の木から主が話しかけている。杖が蛇のように動いたときは、モーセは後ろも振りかえずに逃げ、主が引き返すように命じた。


 ファラオとの会見。聖書では最初の会見がうまくいかず、モーセは主に文句を言うと、主は自分の本名がヤハウェだと名乗り、次の会見でアロンに杖を投げるように言う。二度目の会見で、モーセではなくアロンが杖を投げると、杖は蛇になった。エジプトの魔術師も杖を蛇にしたがアロンの杖に飲み込まれた。クルアーンでは、最初の会見と、それがうまくいかず、主がモーセに奇跡を行うように言ったくだりがない。


 しかし、ファラオの前でモーセが投げた杖が蛇のように動き、家来の提案で、魔術対決を行う日取りを決め、モーセらを帰らせ、魔術師を募集し、後日対決している。モーセが後攻に決まり、先に魔術師が杖だけでなく縄も投げ、それが蛇のように動いた。それをモーセの杖が飲み込み、魔術師はモーセの主に従うと言った。


 クルアーンでは、エジプト軍から逃げるときの描写が少なく、聖書に登場しないヒドルという預言者とモーセとのやりとりもある。さらにクルアーンでは、十戒でのモーセの留守中、イスラエルの民がアロンが止めたのに子牛の像を作って、戻ってきたモーセがそのことでアロンの髪をつかんで怒ったとなっている。聖書では、アロンが作ったことになっていて、髪の毛をつかんだことは記されていない。


 クルアーンのモーセに関する記述は、ある部分では聖書より詳しく、ある部分は随分短い。これは、どういうことなのだろう。

 

 山での主との遭遇シーンを思い出していただきたい。クルアーンでは、杖の役目が木の葉を落とすことや、家族と一緒だったり、渓谷の右側に火を見つけ、家族に待っているように告げたことなどから、山で羊を追うモーセの同行者の視点に思える。

 対して聖書では、家族が登場せず、木の種類が柴(有刺低木林)だということや、履き物を脱いだこと、主との会話が長いことなどから、モーセを待ち受ける主の視点のようだ。


 つまり、少なくとも二人の天使がいて、片方は主として柴の間に待機していた。もう片方はモーセの家族に同行し、モーセが主と会話している間、モーセを待つ家族と一緒にいた。もちろん、後で天使どうしで話し合って、情報を交換するので、クルアーン側でも対話が出たりする。しかし、現場に居合わせないとわからないこともあり、それが聖書とクルアーンの記述内容の違いとなって出たのだろう。


 ファラオとの会見では、一回目はモーセ兄弟に主も天使も同行せず、その後でモーセと会話した主はその会見のことを知った。二回目の会見と三回目の魔術対決は主ではなく、他の天使が見届けた。だからクルアーンのほうが、詳しく記述されている。しかし、どうしてクルアーンではファラオの前で杖を投げたのはモーセなのに、聖書ではモーセではなくアロンになっているのだろう?


 初回の会見で、モーセ兄弟がファラオに主の言葉を伝えると、ファラオは怒り、エジプトの民は以前よりひどい仕打ちに会う。このふたりに全く交渉能力がないと判断した主は、二度目の会見には天使を同行させることにした。初回の会見がうまくいかず、モーセが主に文句を言ったとき、主自ら、

「パロがあなたがたに、『不思議をおこなって証拠を示せ』と言う時、あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえを取って、パロの前に投げなさい』と。するとそれはへびになるであろう(出エジプト7:9)」と命じられた。


 つまり、主からすると、杖を投げるのはモーセではなく、兄アロンなのだ。しかし、実際に会見に同行した天使は、モーセが投げたことをそのままムハンマドに告げた。主は、二回目の会見に同行していないことになる。

 聖書の出エジプトは主の視点で語られ、クルアーンのモーセの記述は主以外の天使の視点で語られている。出エジプト記がどのようにまとめられたのかは不明だが、主(テラ)が、預言者のひとり(おそらくヨシュア)に語った内容が中心になっていると思われる。


 水飲み場でも、聖書の記述のように羊に水をやるのに七人も人が要るとは思えない。

主はシナイ山で初めてモーセと会ったので、それ以前のモーセのことは、モーセを観察していた他の天使から聞いた。その直接観察した天使の視点によって、クルアーンのモーセは記述されている。

 その天使は紅海が割れたときには、モーセを観察している余裕がなかったようで、クルアーンでの記述は少ない。


 十戒の日程は、当初三十日の予定が、十日延長し四十日になったとクルアーンに記されている。石板に文字を刻むペースが遅かったのが理由だろう。モーセが主の姿を見たいと言うと、山が木っ端微塵になったこともクルアーンには書かれている。クルアーンの視点は、山でモーセに十戒を授けた側のようだ。


 すると、クルアーンの視点主は、山の下に残された民が何をしていたかをその時点では知らないことになり、聖書に書かれているように子牛を作ったのはアロンで、クルアーンの「私は止めたけど、殺されそうになった」というのはアロンの言い訳だったことになる。

 聖書の視点主が、山の下でアロンによる偶像製造を注意することなく見過ごしていたのは、視点主が多神教徒だったからで、山の上のクルアーンの視点主は、偶像崇拝を許せない信条の持ち主だった。


 その視点主は、問題なくカナンに向かっていたが、エジプト軍をわざとおびき寄せたという聖書に記された都合の悪い事実を、クルアーンではすぐに追われたことにして、自分達の謀略をなかったことにしている。


 まとめると次のようになる。


 モーセに関する聖書の視点主は、町での喧嘩や逃亡を直接には知らず、シナイ山での最初の啓示ではあらかじめ待機しており、そこからエジプトまで同行するつもりが、途中でモーセと喧嘩別れし、モーセとアロンがエジプトでファラオと会見したことをモーセの口から聞いて知り、アロンが杖を投げるようにモーセに指示したが、魔術師対決には同行しなかった。十戒のときは、山の下でアロンが偶像を作るのを目撃していたが、注意をしなかった。


 対するクルアーンの視点主は、町での喧嘩からミディアン(シナイ半島)まで付いてきて、主とモーセの会見では羊を追うモーセの家族のそばにいた。次にモーセに会うのは、ファラオとの二回目の会見で、三回目の魔術対決も付き添い、アロンでなくモーセが杖を投げるのを目撃した。十戒のときは山の上にいて、モーセに律法を授けていたので、アロンが偶像を作っていたことを知らず、アロンの言い訳を真に受けた。


 クルアーンの視点とは誰の視点だろう?


 それは預言者ムハンマドに啓示を語った、大天使ガブリエル自身の視点に他ならない。

話は長くなってしまったが、要するに、クルアーンはガブリエルの体験から語られている。

 そこからわかるのは、ガブリエルはノアにもアブラハムにも会っておらず、モーセの喧嘩からミディアン逃亡に付き添い、シナイ山で待つ主までモーセの家族に同行し、エジプトのファラオとの会見では初回は参加せず(それでモーセは初回は魔術を使えなかった)、二回目と三回目で魔術を使い、エジプト軍から逃げるときは海を描いたり、雲の上から攻撃したりと忙しく、シナイ山では主に代わりモーセやヨシュアに律法を授けた。イエス本人は、生誕時に会っているかもしれないが、他の天使に任せきりだった。


 イサクの誕生を予言した三人の客についても、聖書では食事をしているが、クルアーンでは出された料理に手をつけなかった(51章)ことになっている。これは、当時を知らないガブリエルが、三人の客が人間ではないと聞かされていたからで、聖書の視点主は、相手がただの人間と知っているので、食事をしたことをそのまま創世記に残した。


 クルアーンでは、イエスは処刑されたように見えただけで、実際には死んでいないということになっている。これはイエスに付き添った天使から、ガブリエルがそう聞いていたということだ。

 先に挙げたモーセの動向はメッカ期のものだが、イエスの死に関する記述は、メディナ期の章で語られている。その内容は、キリスト教徒のイスラム教に対する信用を失わせる。ヒジュラの後には、キリスト教徒の改宗をガブリエルはあきらめたのだろう。もし、それがガブリエルの啓示によるものなら?

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