素人エッセイストの苦悩
さて、エッセイは誰かを傷つけるものと書きましたが、これは本当に些細なことで起きてしまいます。絶対に誰も傷つけていないつもりの普通の文章が、思わぬところで独り歩きをするのです。
一例を挙げると、筆者は犬のエッセイを書いていますが、そこでドッグフードについて触れるとしましょう。
愛犬に与える食べ物は、市販されているドッグフードの他に、毎食手作りの食事を与えている飼主さんがいます。それぞれの家庭ごとに考え方が有り、正直言ってどちらが良いとは言えないものです。
しかし、愛犬家の世界では、犬に与えるものはドッグフードが唯一の正解であり、手作り食と言う栄養バランスを崩しやすいものを与えるのは、悪だとする人たちがいます。
そしてそれと対極に、どこでどのような添加物や保存料が使用されているか分からない、ドッグフードのような危険なものを与えるなんて、信じられないという人たちもいます。
どちらにも、原理主義といえるほどに先鋭化している人たちがいて、どちらかを薦めるとその反対側にいる人たちを傷つけたり、反感をかう事になります。
筆者のように、どちらが良いとも言えないとする立場をとると、両方の人たちを傷つけて、反感をかう恐れがでてきます。
ただ意見を言い合っているだけでは、問題が起きなくても、エッセイと言う公開された文章になったとたんに、相手は敏感になり、態度が頑なになります。
前話で、それは踏ん切りをつけて先に進むしかないと書きました。
それは確かです。
しかしそこには、素人エッセイストならではの苦悩という側面もあります。
もしもプロのエッセイストであれば、プロ意識とか使命感という見えないバリアが、踏ん切りに加えてもう一枚作家を守ることでしょう。精神を支えるという言い方の方が良いかもしれません。
書かれた側も、相手がそれで飯を食うプロであれば、「一家言ある人間が言うのならば」と、主張は違えど異論の存在を認めてくれやすくなります。
これを素人エッセイストがやると、「たかが素人が偉そうに」とか、「素人に馬鹿にされた」という、思いもしない反発に発展してしまうのです。
「お前に言われたくない」というのと、「お前ごときに言われたくない」というのでは、一見ほとんど同じに思えても、実際その場に立つと、書く側も書かれる側も、お互いの精神的なダメージが大きく異なります。
何を大げさにと思われるかもしれません。
しかし、これがリアルに、避けられない身の回りで起きるのです。
なぜ断言できるかというと、筆者にそれが起きたからです。
正に、素人ならではの苦悩です。
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