第201話 教育勅語のどこがいけないか

教育勅語が話題になっています。



教育勅語を現代教育の場で使うのがなぜいえないのか。


簡単にいえば、まず、完璧な訓戒などどこにも存在せず、教育の指針を短いことばに要約するというのがまずダメです。どんな良い指針を作っても、世界は広大で深淵であり、学問は大海に浮かぶ小さな箱舟にすぎません。若者の、幼稚園児や小学生の無限の可能性を限定してしまう教育勅語のような訓戒はまず定められるべきものではありません。完璧な訓戒は存在しないことを若者に知らしめて、若者の無限の可能性を信じること、それを教育の指針とすべきです。


だから、教育勅語がどんなに一見正しそうに見えても、ぼくは推奨しないです。




具体的に見てみましょう。ウィキペディアにある教育勅語の現代語訳を引用して批判していきます。






>我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、




まず、悪がいけないというのは先入観です。悪なるものには美があるといいまして、悪を否定しては芸術すらできません。



臣民ということばは絶対に避けるべき天皇中心主義です。天皇に忠にはげみ考をつくすことは絶対に正しいとはいえないものです。


具体的な古典に根拠を求めると、




>朋友互に信義を以って交わり、




友と仲良くすることが良いことだといっていますが、古代ギリシャ哲学の「ニコマコス倫理学」では、友だちが多いことが良いことだという古代ギリシャの常識に対して、ヘラクレイトスのことばを引用してアリストテレスはいいます。「万物は闘争によって生じ、相違するものからこそ何よりもうるわしき諧音(ハーモニー)は生じる」としている。


友だちが多いことは絶対に良いことではない。孤独を愛する子供が悪いわけではない。


一人ぼっちの子供を悪いとしてしまう教育勅語は絶対に認めてはならない。




>善良有為の人物となり、




一見よいことをいっているようなこのことばも教育の場では充分に問題です。善いことなど、立場によって変わるもので、善いことをどれだけ集めても教育として素晴らしいというわけではありません。善良でなければダメだというのは先入観です。


有為の人物となれと教育勅語はいってますが、これは中国の荘子がいっているように何がどのように物事の役に立つかはわからないものです。善良有為の人物となり、ですら賢いことばとはとてもいえません。




>万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。




危急の大事が起こったら、日本人は皇室を大将とするといっています。天皇中心主義の悪しきことばです。こんなもので教育ばできません。まったくもって問題外なことばです。




軽く触れただけですが、そういうわけで教育勅語には反対です。「学問の大海に挑む。」というのがぼくが賛成する教育の指針です。



追記。



学問の大海は善悪より広大なものです。善なることをよしとするのは戦前の教育です。


あまり詳しくはありませんが、明治維新の原動力となった吉田松陰が何を考えていたか推測するに、吉田松陰は陽明学を参考にしていたとあります。陽明学の典拠となる王陽明の「伝習録」を読みましたが、これは「天理を知ること」がよしとされるのです。天は空より高く、地底より深いのです。ひょっとしたら、吉田松陰は、天理を知ることは西洋の科学と通じるところがあると考えて、儒教の教えにも、西洋の科学を知ることの萌芽が見られると考えて、活動していたのかもしれません。

ぼくは「天理を知ること」が明治維新の精神だと思いますよ。

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