第13話 仏教と現代哲学の比較の話

 原始仏典を8冊ほど読んでみたのですが、若い頃に思い浮かべていた仏教とは、

実際の仏教は、調べてみるとちがいました。


 読んだ原始仏典は、中村元のものばかりで、「ブッダのことば スッタニパータ」

「ブッダ真理のことば感興のことば」「ブッダ最後の旅 大パリニパーナ経」

「仏弟子の告白 テーラーガータ」「尼僧の告白 テーリーガータ」

「ブッダ神との対話 サンユッタニカーヤⅠ」「ブッダ悪魔との対話 サンユッタニカーヤⅡ」

「竜樹」

です。おすすめは、「ブッダ真理のことば感興のことば」「ブッダ悪魔との対話」「竜樹」です。

他は読む必要もないでしょう。


 で、わたしは、大学の英語の授業でハイゼンベルグのインタビュー記事を訳したのですが、

なぜか忘れましたが、三回訳しました。それで、意味がわかると衝撃をうけました。

 それは、すべての科学理論は近似にすぎない、というハイゼンベルグの主張について語られたものでした。

 人類は、何一つ完全な真理など知らず、ただ真理のより近似する科学理論を作っているだけだというものです。


 わたしは大学時代にこれは正しいと考えました。わたしの哲学の師は不確実性定理のハイゼンベルグなわけです。

直訳で読んでますので、直弟子です。


 また、当時読む漁っていたSF小説でも、「日本SFの逆襲」というアンソロジーで、

荒又宏が、人は対象を認識できないという内容のSFを書いていました。


 この二つから、わたしは、人は真理を認識できない。ただ、真理の近似を認識できるだけだという哲学に至りました。


 で、これは仏教の教えと同じだとなぜか妄信し、これが色即是空であり、悟りであると、

妄信していました。まさに、無知ゆえのあやまちなのですが。



 わたしは、自分に解けない謎はない、という自負のとおり、二十歳で悟ったつもりでいたのですが、

結論として、わたしは二十歳では悟ってませんでした。三十四歳になるまで、

わたしは、自分は仏教の悟りを二十歳で開いたと考えていました。


 それで、父が死んだ時、お坊さんが

「お釈迦さまの教えは、三法印といい、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静といいます」

といっていて、わたしは、そうか、諸法無我が空だったんだ、これが悟りだと考えて、

実際に興味をもち調べてみました。


 その結果、「カントの物自体と仏教の諸法無我は同じ」という仮説について検証しました。


 で、カントの「純粋理性批判」も読んだのですが、

 結論からいうと、カントの物自体と、仏教の諸法無我はちがいます。



 カントの物自体とは、認識できない存在の根幹です。

 認識できないため、誰もその存在を証明することはできませんが、

わたしたちカントの支持者は、物自体が存在すると信仰しています。


 おそらく、これが現代哲学の最前線であり、現代哲学の最先端は、

十八世紀にカントが打ち立てたものです。

 しかし、カントの哲学は難解で、カント以後の哲学者にこの物自体という考え方は、

誤読されます。ヘーゲル以降の哲学者はみんな、カントの物自体を精神のことだとしてしまいます。

 これは、ヘーゲル以降の哲学者がみんな愚かだったためであり、

 カントの物自体を、存在の根幹として復活させたのは、ハイデガーぐらいです。


 現代の科学哲学も、いまだその誤解から解けておらず、

 森田邦久の「科学哲学講義」では、

機能的推論は必ずしも正しいとは限らないが、

演繹的推論は必ず正しい、

と述べられています。わたしも大学時代、試験で、この問題が出たのを覚えています。

現在の哲学の講義では、演繹的推論は必ず正しいと答えなければ、試験で正解はもらえません。

しかし、YAHOO知恵袋で聞いても、演繹的推論が必ず正しいと答える人はいません。

 演繹的推論が必ず正しいためには、人類の科学が、普遍的前提をもとになりたっていることが条件になりますが、

すでに述べたとおり、すべての科学は真理の近似にすぎず、人類は普遍的前提をひとつも知らないのです。


 1+1=2は普遍的前提だと主張する人がいますが、自然界から2を示せ、といわれると困るという話があります。

 二つしかないものが、自然界に存在しないのです。二つと人の認識が判断しているにすぎません。



 高橋昌一郎の「理性の限界」「知性の限界」「感性の限界」も読みましたが、

高橋昌一郎は、ウィトゲンシュタインを支持し、カントを支持しません。

 ウィトゲンシュタインをわたしは読んだことがありませんが、

高橋昌一郎によれば、ウィトゲンシュタインの哲学とは、

すべてのことばが完全に正しく使われた場合、あらゆる哲学の謎は消え去る、というものです。


 ですが、すでに説明したとおり、人の認識は完全に正しく存在の根幹をとらえることは決してできません。

近似するだけです。

 ウィトゲンシュタインも、カントの述べた「物自体は認識できない」が理解できていないのです。


 このように、現在の科学哲学はまちがっています。

評価も高くありません。早急に、科学哲学者には改善してほしいです。

 現在の物理学者は、科学哲学が大嫌いであり、物理学の仕事に科学哲学が関わることを嫌っています。

 そして、それは正しいです。科学哲学がまちがってます。




 で、話は仏教に戻ります。


 原始仏典には、次の三つがシッダールタの説いた教えとして、頻繁に出てきます。

「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)

「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆空)

「一切の事物は我ならざるものである」(諸法無我)

 です。

 シッダールタは、最古の仏典「スッタニパータ」において、

「世界を空なりと観ぜよ」と述べており、これが悟りだとされます。

 空とは、ゼロという意味と同じです。そのため、シッダールタの説いた空は、空虚であると考える仏僧が多いです。


 誰も空が物自体だなどとは、考えていません。わたしの仏教観がまちがっていたのです。


 で、ナーガルジュナの「中論」の空を、大乗仏教は継承しています。

ナーガルジュナの「中論」の空とは、早い話が、ものごとに本質はない、それが空であるということです。


 日本の仏教のほとんどは、このナーガルジュナ、つまり、竜樹の空の解釈を受け継いでいます。

だから、わたしは、「色即是空はまちがっている」「般若心経はまちがっている」という立場をとります。


 現在の仏教界にも、早急に改善してほしいです。



 仏教は、愛するものをつくるな、と教え、結婚するより出家することをすすめます。

 だから、わたしは仏教をそのまま受け入れることは危険だと思います。


 ですが、わたしの仏教の評価は低くありません。

 仏教は、人類の進む方向性の反対原理としては非常に良く働くと思っています。


 永遠を否定する諸行無常。

 快楽主義を否定する一切皆苦。

 世界の主体を自分だとする独我論を否定する諸法無我。


 また、ナーガルジュナの空も、真理の探究の否定としてとらえることができます。


 仏教の教えは、我々が直線的に世界を追求しようとした時に陥る先入観のあやまちを否定してくれます。


 仏教は、反対原理としては、非常によく機能するのではないでしょうか。



 人類の発達が二元論のように進む力と戻る力で調整されるなら、

戻る力として人類の発達を調整するのに、仏教は非常に優れていると思います。




 仏教を妄信する仏教徒は、創造論を主張するキリスト教徒を笑えません。

 キリスト教徒が進化論を認めなかったりするのは、仏教徒が悟りや空を信仰するのと同じです。


 仏教のいうような、静かに心を静めて意識を消し、すべてを空なりと観ぜたとしても、

正しく世界を認識できるということはありません。

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