record diary

高座みかさ

summer → autumn

 海の見える家。ウッドデッキ。白い砂浜を踏まない僕たち。隣の彼女は溶けかけの氷を食べる。氷がグラスの中で水に変わっていく。あるいは彼女の口の中で。

 彼女の隣で、僕はステレオをセットする。魔法使いな彼女が言う。

「まだ?」

「まだ。手伝う?」

「ヤダよ」

 白い砂浜。赤い蟹。まだ夏は始まったばかりなのに暑さに眩む。ステレオが壊れるんじゃないか、と僕は危惧する。背中を伝う汗に不快感。

 白い砂浜、を隣の彼女は眺める。見下ろしている。

 透明なレコード盤。ステレオは特注品。気温、湿度、日時、経度、緯度、生年月日、血液型、朝食のメニュー、愛する人の名前。それから、好きな言葉を入力する。

「What your favorite word?」

「Ice cream!!」

 白い砂浜。白いアイスクリーム・バニラ。僕は家の中に戻って、アイスを2つ持って来る。1つ渡して、1つ食べる。

「勝手に食べないでよ」

「労働と報酬」

 ステレオの駆動音、使えるようになるまで5分。アイスが溶けるまで30秒。食べ終わらない。溶けた。彼女が言う。

「手、洗いたい」

「洗えば?」

「ホース引いて来てよ。動きたくないから」

 灰色の部屋。開けっ放しの窓から、微かに風が抜けていく。暑さを紛らわせるには弱いけれど、夏にはちょうどいい柔らかさの風。鉄パイプが剥き出しのバスルーム。スチームパンクが仄かに香る。タイルの上に放置されているホースを繋いで蛇口を捻る。冷たさが掌を通り抜けた。

 灰色の部屋。白い外へ。通る床を水浸しにしながら、デッキに戻る。呑気に座り込む彼女の頭に思い切り放水。ノーリアクションで水を被り続ける不気味さと言ったらない。

「大丈夫?」

「何が? ちょっと貸して」

 ホースを奪い取る彼女。微笑ましく言えば、2人で水遊びをした。

「びしょ濡れだし、子どもじゃないんだから」

「すぐに乾くよ」

 ステレオも水浸し。途切れ途切れに、駆動音は続いている。動いているけれど怪しい。

「壊れてないかな」

「今時、水に濡れたくらいで壊れるマシンなんてないでしょ」

「これって、骨董品じゃないの?」

「デザインがレトロ調ってだけ」

 彼女は物を大切にしないタイプ。動けばそれで構わない。動かないと怒る。つまり性格が悪いのだ。彼女は性格が悪い。

 白い砂浜。赤い蟹。灰色の部屋。ステレオノイズ。空を飛ぶならサングラス。

「そろそろ始めようか」

「OK」

 彼女のOKは信用に値しない。彼女は嘘吐き。

「もう少し待ってみようか」

「どうして?」

「怖いんだ」

「OK」

 彼女のOKは信用に値しない。彼女は怖がり。

 ステレオノイズ。多分レコードか、針がおかしくなってる。

 遠くに無数の飛行機雲。描かれる幾何学模様。崩れて水平線に消えて行く。ぼぉん、と響いたノイズ。

 彼女は黙り込んで何も話そうとしなかった。こういう時ほど、僕の頭は回転スピードを上げて行く。スピードが上がり過ぎて、光も追い越してしまいそうになるのを自制する。

 僕の所有物だったはずの眼球が、僕の意志に反して、彼女の肢体を見つめている。彼女の視線は遠く青い空よりも遠くに行ってしまった。戻って来るには随分と時間が掛かる。

 動く眼球。迫る入道雲。砂浜は陰る。

 ぼぉん、と響いたノイズ。遠雷の煌めきに僕の眼球が驚いて震えた。零れ落ちそうになって、慌てて目蓋を閉じる。

「雨が降るよ」

 彼女は遠くに行ってしまって、簡単には帰って来ない。

「おい! 雨が降るんだよ」

 動かない彼女。頬を叩いた。思わず力が入ってしまう。

「痛い」

「雨が降るよ」

「え?」

「雨、空、雲、雷」

「ステレオを部屋の中に」

 鈍色の部屋。2人で運び込んだステレオ。窓に鍵を掛けて夏の風を締め出す。窓が割れてしまいそう。砂浜は深緑の波に飲み込まれる。僕たちの部屋は素早く囲まれた。壁が悲鳴を上げている。

 彼女の姿がなかった。

 ソファの上に縮こまって、動けない彼女はどこに消えるのか。バスルーム。壊されたパイプから激しく水が噴き出している。暴風雨なんて掻き消す轟音。

 水浸しのバスルーム。バスタブの中に彼女。

 びしょ濡れじゃないか。そんな小さな声では聞こえないね。

 2人で入るには狭い。体をねじ込んで向かい合わせに膝を抱える。腰よりも高くまで溜まった水に埃が浮いていた。寒いね。夏なのに、寒いなんておかしいね。

 寒いバスルーム。手を握ってみたり、抱き締めてみたり、そんなことを僕はしない。だから、君は1人で立ち上がらなければならない。独り善がりな僕。彼女と僕との間に境界があることだけが悔しいんだ。

「ここにいて」

 彼女は言う。僕は答える。

「いってきます」

 黒い外。嵐がもたらすのは猛る雨風と、透明なレコード盤。

 黒と深緑の2色だけ。白い砂浜はなくなって、押し寄せる波が水平線と地平線を結んだ。どこまでも続く波の流れに足が攫われる。雷鳴を響かせて、悪戯な稲光が僕を案内してくれる。嵐の中心で回るレコード。

 波の下で雑草が揺れていた。穏やかに揺れていた。

 大地を串刺しにするみたいに、呆気なく現れた光の柱。

 黒い空。深緑の地上。濡れた服。失くした靴。僕の眼球が見るべきものを探しているけれど、ここにはないんだよって目蓋を閉じる。そんなことないよって目蓋が開く。

 瞬き。

 UFOではない空飛ぶ円盤。回るレコードが光を反射して灯台のようだ。

 風が凪ぐ。宇宙みたいに空っぽだった。

 僕がレコードに触れた瞬間、嵐は消えてしまう。暑い雲も、溢れる波も。まるで僕が白昼夢を見ていたんだと言いたそうに、すっかり消えてしまう。僕の手元には新しいレコード盤と、足元で流されている赤い蟹だけ。

 彼女は赤い蟹が好きなのか、嫌いなのか。聞いてみるのも良いな。

 青い空。若葉色の地上。

 背の低い草が一面に茂り、その下に海から運ばれた白い砂と小さな石ころが敷き詰められている。野生の馬や兎が、遠くなだらかな丘陵を駆けて行く姿を思わず想像するような世界の中で、僕は蟹と2人きり。画になりそうな題材じゃない。

 彼女を連れてこないとダメだ。彼女なら、たった1人でも似合うだろうから。

 次第に水嵩は減り、ついに全てが土の下に、あるいは海の彼方に還る。

 赤い蟹、を連れて、僕は海の見える家に、あるいは彼女の隣に帰る。

 光の部屋。足の甲ほどの深さに溜まった雨水。その水面に射し込んだ光が反射して、壁や天井を飾っている。まだらな光の筋が、ゆらゆらと。

「ねえ、出ておいでよ。すごく綺麗だから」

 バスルームに呼びかけた。彼女の反応はなくて、物音もしない。中を覗いてみれば、まだバスタブに引きこもっているままだった。

「もう大丈夫だからね。怖くないよ」

 彼女は怖がり。

「ほら、外に出よう。いつまでも水に浸かってたら冷えちゃうよ」

 小さな子どもを抱き上げるみたいに、彼女を立ち上がらせる。軽いわけでも、重いわけでもない。純粋な彼女の重みが僕の腕にかかっている。辛うじて立っているだけ。バスタブから出して、デッキに連れ出した。まるで風船を連れているみたいだった。

「そうだ、髪を乾かしたほうがいいね」

 彼女の返事はなくて、僕は部屋に戻る。ドライヤーを拭いて、試しに動かしてから、外に持ち出す。コードの長さが少し短くて、彼女の椅子を部屋に寄せたんだ。

 陽射しはまだ前のような温かさを取り戻していないから、僕たちの体温がまだ戻っていないから、ドライヤーの熱は素直に心地好かった。

 濡れて軋む髪。それを、ゆっくりと、梳いていく。

「どうして」痛くないように、「外に出たの?」ゆっくりと、「ここにいてって言ったのに」梳いていく。「いやだ」指の間を、「1人にしないで」髪が通り抜ける。

 これから先も、ずっと君を助けてあげられたらいいのにね。

「1人でも大丈夫だよ。子どもじゃないんだから」

「冷たい」

「まだ濡れてた?」

「いいよ、もう」

 彼女は立ち上がる。立ち上がれるんだ。別に彼女は弱い人なんかじゃないから。助けてあげる必要なんてないんだ。ずっと助けてあげたいなんて、そんなのナンセンス。

 2枚のレコード。もう一度、運び出したステレオ。

「まだ?」

「もう終わるよ」

 気温、湿度、その他諸々。最後に、内緒で僕の好きな言葉を入力。

 ステレオのスイッチを入れる。レコードが回り出す。針を置く。白い砂浜、と、赤い蟹、に別れを告げて、僕と、彼女は目を瞑る。

 聞こえるのは、波にも似ているけれど、もう少し乾いた音。風の中には固さが感じられるようになって、肌を焼くような日射しも遠くへ消えた。

「ねえ、起きて。知らない場所だ」

 彼女が僕の体を揺する。

「さては目を瞑っていなかったな」

「いいじゃない。私って酔わないタイプだから、平気だもの」

 仕方なく僕も目を開けるけれど、まだ世界は変わりきっていなくて、遠くの景色にはあの夏の日が取り残されている。抽象画みたいに歪んでいく光景が、三半規管を狂わせる。

「僕は酔うタイプなんだよ」

「情けないな」

 我が儘だ。彼女は性格が悪い。

「ねえ、こんな場所に来た覚えなんてないのに、どうしてだろうね。ううん、別にそんなことはどうでもいいや。綺麗だと思わない? 本当に綺麗だね」

 黄金色の麦畑。赤い夕焼け。懐かしい場所。

「綺麗だね」

「ステレオに細工したでしょ。これってあなたの知ってる場所?」

「そうだよ。ずっと昔に見たことがあるんだ」

「私に、気をつかって?」

「違うよ、自慢したかっただけさ。あの赤い蟹を見ていて思い出したんだ」

「また今度。何か思い出したら見せて」

「もちろん、いつでも」

「偶にでいいよ」

 デッキを下りて、一面の麦畑に飛び込む。足元に穂先が体をくすぐる。黄金色の麦畑。彼女は振り返る。

「ねえ」

 表情は見えない。黒いシルエットだけの彼女が言う。

「最後の言葉、何を入れたの?」

「教えない。僕だけの秘密だから」

 

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