ある派遣社員の暑い夏

@tayayuki

 管理事務所との出会いと別れ

「お疲れ様でした!本当に有難うございました。」


 管理事務所を出ようとする私の耳に、40代と60代の男の声が響いた。

 私は振り返らずに、ドアを閉め管理事務所を後ににした。

 その時に目から涙があふれ、8か月という短い期間であったが、様々な思い出が走馬灯等のように駆け巡った。


 そして私の派遣社員生活が幕を閉じ、税理士人生が始まった。


 現在、私は大阪市内の大手税理士法人に勤務しているが、自宅のある兵庫県明石市から大阪に向かうJRの電車の窓から管理事務所があったビルが見える。

 ふと電車の窓から見える管理事務所を見つめながら「あの夏は暑かったなあ」と思い出が蘇るのであった。


 私が管理事務所に足を踏み入れたのは、二年前の4月中旬であった。

 派遣会社の営業担当と二人で管理事務所を訪れたのだったが、管理事務所のあるビルのオープン時間が朝10時30分にもかかわらず、私たちが訪れた時刻は朝9時であったため、ビルの入口は何処なのかと二人で迷ったことは、現在でも鮮明に記憶に残っている。

 管理事務所に入った時の状況は、事務所内に机が6個ぐらい並んでいたが、実際に居た職員は二人であった。


 そう、ここは撤退整理の決まっている管理事務所なのだ。

 管理業務を他のビル管理会社に引継ことが決定している管理事務所で、私は撤退処理中の経理事務を担当するために派遣されたのだった。

 私は、国税職員としての25年勤務を経て税理士になるために退職したのだったが高卒で国税の職場に入ったため、年齢的にも余裕があったので、とりあえず民間経 2年間ほど経験してから税理士になることに決めていた。


 そして今回、民間経理経験の締め括りとして管理事務所に入ったのだ。


 管理事務所のメンバーは、正社員だが役職のない40代の男性と嘱託の60代の男性、そして派遣社員の私の3名であった。

 私の前任者(経理担当)は、他の管理事務所に転勤していたため、経理の引継ぎは、勤務開始日には行われず、3日後に引継ぎが行われる予定となった。


 この管理事務所が管理する施設は商業施設と住宅施設があり、日常の管理業務を行うだけでも大変なのに、そのうえ撤退に関する作業、例えば商業施設のテナントや住宅施設の住民に対して行う、他のビル管理会社に引き継ぐ旨の説明会の開催や引継ぎ資料の作成など、多忙を極めていた。

 私は、前任者との引継ぎするまでは書類整理や過去の資料に目を通す程度で比較的に余裕があったが、引継ぎが無事に終わり本格的に経理事務がスタートしてからは状況が一変して、ハードな日々が続いた。

 この管理事務所は私も含めて3名という小世帯で、商業施設のテナントや住宅施設の住民からは様々な問題が寄せられてる状況であったため、私も経理事務の他に管理業務の補助も務めた。

 火災報知器が誤作動を起こした際は、7月の暑い中、汗を流しながら全力疾走して各テナントに誤作動の旨の連絡を行ったものだった。

 その時、テナントの店員やお客さんまでもが普段通りに買い物をしており、私が状況について説明する前に、テナントの店員が「誤作動でしょう」と決めつけて発した言葉には驚いた。

 もし、本当の火事なら……と思いながらも何もなかったことに安堵した。

 また、連絡文書を住宅施設の各部屋の玄関の新聞受けに投函する作業などは、27階から5階まで非常階段を使用しながら200部屋以上に投函する作業で、7月や8月などの暑い時期は非常に堪えた。

 それでも私は、国税勤務25年を中心とした事務職ばかりだったので、初めての管理業務に非常に興味を持ったとともに、他の優しいメンバーにも支えられ充実した日々を過ごした。


  私が管理事務所に派遣社員として3か月が過ぎ、経理業務は勿論のこと管理業務補助にも慣れてきた時だった。

 私は、現在勤務している税理士法人から内定を貰ったのだ。

 だが、直ぐに管理事務所の派遣社員を辞めて税理士法人に就職するのは、とても管理事務所の状況からは無理だと考え、税理士法人に頼んで管理事務所の撤退の見通しが立ってから、入社日したい旨を頼んだところ快諾してくれた。、


 撤退に関する説明会も順調に進み、10月中旬頃には、管理業務を他のビル管理会社に引継く時期も来年の1月頃になる見通しが立ったため、私は派遣会社の営業担当と管理事務所の他のメンバーと相談した結果、派遣業務終了日を12月20日とした。

 暑い季節が過ぎ去り、肌寒くなってきた11月初旬の頃だった。


 それからというもの私は、日常の経理事務と管理業務の補助に加え、他のビル管理会社への経理関係の引継ぎ資料作成のため多忙を極めるのであったが、充実した日々が続き人生の中で最も貴重な時期に思えた。

 

 やかで、12月20日の勤務終了日の日がやってきた。

 私は、他のメンバーに感謝の気持ちを伝えるとともに、形式的な別れの挨拶はせずに、普段通りの「お先に失礼」で、さようならする旨を伝えた。

 18時の勤務終了時間までが妙に長く感じられたが、時刻が18時になり、いよいよ管理事務所との別れの時間となった。

 私は私物の鞄を持ち、二人のメンバーに「お先に失礼」と挨拶をして、管理事務所の玄関のドアを開けたときだった。

 「お疲れ様でした!有難うございました。」と二人のメンバーの声が聞えた。

 私の目から涙が溢れ、振り返らずに心の中で「こちらこそ、有難いました。」と言葉を発しながら管理事務所を後にした。

 私の人生の「派遣社員の章」が幕を閉じた瞬間だった。


 あれから3年、現在の私は税理士の舞台に立っている。

 ちなみに私が管理事務所を去ってから1か月後の翌年の1月末に他の管理会社に引継ぎ撤退した。

 あの撤退処理を行った40代の正社員は、その半年後に職場を去った。

 嘱託の60代の男性は、その後別の管理事務所で2年ほど活躍した後に、定年退職した。

 ビルの人たちで、繰り広げられた管理事務所の撤退を知っている人は少ない。

 まして、3人で展開した熱いドラマを知っている人は誰もいない。

 だが、私の心の中で、あの暑い夏の思い出は鮮明に焼き付いている。

 もし、あの二人に会う機会があれば、是非!言いたい。

 「お疲れ様でした!本当に有難うございました。」と・・・・・・・・終わり


・元税務調査官が語る本当は恐い税務調査!! 

  http://www.firstep.jp/blog/archives/4109/%e7%a8%8e%e5%8b%99%e8%aa%bf%e6%9f%bb_2

 

・経理通信「元税務調査官が語るシリーズ」

  http://keiritsushin.jp/tax-column/actualsituation/


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